和ハーブのいろは0 ”自然”観の出発点&これから 『哲学の自然』『波動の法則』など
毎年8/2、湯花神事が行われていた
須賀神社
夏至の頃の喜多見氷川神社
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”自然”観の整理が必要だという意識が、予てから内奥にあり、筆者として、今後の思索の出発点について少し残したいと思います(視座の表明)
色々参考書籍並べておりますが、概念の理解・解釈等はさておき、結局初めに一番大切なことは、
人間である己(我/自意識)以外の存在、人間以外の他者(有機物も無機物も、地球、森羅万象..一見無なる空間さえ)にもすべて、
意識がある、波動がある、と感じる――目を閉じてさえも、感じられる――”こころ”
なる何某かを内に持つこと あるいは、
すべての存在は、魂/たま/霊によってできている
すべての存在には、魂/たま/霊が宿っていると、全感覚で――
五感、時には第六感のような感覚も、理性・感性・知性・霊性といったチャンネルすべてを開いて――要は手放しで
自意識を祓いながら、感受する 受け止めていくことでしょうか?
直観で、そんな風に思えている者です
本noteで挙げる書籍『哲学の自然』は、2013年3月出版の対談本です。対談自体は2012年1~2月実施の、つまり時事に絡む話題は日本社会がまだ東日本大震災の翌年、といったフェーズにあった頃のもので、
月日が経っているようにも見えますが、両(中沢新一・國分功一郎)先生方の、御視座の根幹にかかる部分については、今尚自身にとって響き刺さるエッセンスが感じられており、何だか呼ばれている予感がしましたため、ご参考&ご紹介までに、一度引用させていただきます
転記の方が長くなり、毎度筆力不足で恐縮です
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(主要テキストや"和ハーブ"そのものの詳細、ご案内は、別記事(和ハーブのいろは 1~)でさせて頂いております)
『哲学の自然』とは
参照書籍:『哲学の自然(atプラス叢書03)』
中沢新一・國分功一郎(著). 太田出版.
2013.3.8. p.248
出版社HP紹介文より(★部は本書より転記/太字化筆者による)
『哲学の自然』全体観📘 本書目次より
はじめに 線引き
頭から”哲学”の文字を出し、さも普遍的な自明の真理にかかる用語のように載せてしまいましたが、筆者(私)自身としては、初めから”哲学なる真理ありき”、ではなく
日本列島において”哲学”の2字で表される内容・語義とは、
そもそも当初のコンテンツは、以下の木田元先生(1928.9.7 - 2014.8.16)の御視座をも加味して、俯瞰して捉えた方が、バランス良く受け止められるものかなと、考えております
(バランス良く‥つまり文明観における自分軸を持ちつつ、過去の人類の叡智を遍く受け止め、今を生きる人間として腹落ちさせながら、同時に次の視野も見ていける、ひとつの簡易的定点or動的メルクマール(目印、指標)‥とでもいえますでしょうか)
以下の箇所は、”自然”観の考察にあたって、『哲学の自然(atプラス叢書03)』の前提にも繋がる大切な視点だと思い、また、木田先生の、本質を”鷲づかみ”(by 同書解説 三浦雅士氏)し語られる手腕‥お凄さにはとても敵わず、、ひとまずこのまま更に引用致します
≪point memo🖊≫
・「哲学」とは、西洋(欧米)特有の知の体系である
・(一般的によく混同or同一視されている認識🦆)
「哲学」とは、「人生観・道徳思想・宗教思想」と同義ではなく、それらを組み込む、特定の考え方、枠組みを意味している。「人生観・道徳思想・宗教思想」は、構成要素の一部は成すが十分条件ではない
・「存在するものの全体」とは何か――と、この問いを立てうるだけの、「超自然的な存在」との関わりの意識が、そもそも背後にある。「哲学」とはそんな世界の見方、思考の枠組みのことである
→一神教を意識
(言い換え)
・「超自然的な存在」との関わりの意識を、背後に秘めながら、自然を「存在するものの全体」として捉える”自然”観が、ある
・対して日本人は、自分が自然のなかにすっぽり包まれて生きていると信じ切っていた
→日本列島の先人たちが育んできた眼差し、
集合意識とは、異なる
”自然”観、も含めて
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更に、2021年8月現在、日本列島に生まれ育った人間として、あらゆる角度で現象を俯瞰して見ていくと、究極的には、波動エネルギーの存在を無視できない視座にどうしても誘われます
思うに、過去数千年の人類の、”哲学”なるものの整理も、ある意味、宇宙規模では捉えられない眼差しによる、現象界の分析的行為に留まっている可能性もある
(ぶっとんだ連想のようで引かれる方もいらっしゃると思いますが、筆者の中で繋がって見えてしまっているので、『波動の法則』をちらり↓)
詳しい法則の説明はここではとてもできないので、ご興味ある方は、ぜひ
(↑補足:『第八章 病の本質』、地球上の現況にとって今リアルタイムで肝要な観点かと思われますので、本記事末尾に一部引用させて頂きます(参考4)。必要とされる方に届きますように)
(↑補足:『波動の法則』と併せ、千賀一生氏『ガイアの法則』等を幅広く視野に入れ説明されている方の動画テキスト版です。イメージが湧きやすいかと…もし、ピンと来られたら、動画もお勧め)
**筆者なりの、大切なキーワード
陽子=意志=愛
中性子=意識=調和
そして、感謝するこころ、祈りの波動
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故に、飛躍して方針だけ申しますと、”哲学”に触れながらも、その指すところが常に『波動の法則』を背後に秘めているだろうこと、従来の”哲学”的意識を超えた、より上位の法則的理(ことわり)が宇宙にはあるだろうこと――それらの可能性を感じ続ける視座(のヨハク?)を、筆者は持っております
更に‥予感では、少なくとも日本列島における前近代までの知(身体知/口承知..)、古代に遡って見えてくる知というものの中に、『波動の法則』へと向かうヒントが秘められている気がしているのです
以下、このスタンスで、ご紹介を進めます
第Ⅳ章内「自然との民主主義と非敵対的矛盾」より「いま実際そこにあるものとどうコミュニケートして、どう自分が変わっていくのか。」
『哲学の自然(atプラス叢書03)』に戻ります。本書を通読しながら、筆者は対談全体の中で、第Ⅳ章の、以下に挙げたⅣ.2及びⅣ.5について、より時間をかけてフォーカスしました。その過程を、メモがてら以下に記載して参ります
第Ⅳ章 どんぐりと民主主義
Ⅳ.1 道路問題から民主主義を考える
Ⅳ.2 自然との民主主義と非敵対的矛盾(p.214~)☜
Ⅳ.3 政治的なものの再興
Ⅳ.4 具体的なものと場所性
Ⅳ.5 民主主義と直観知 ☜
Ⅳ.6 後記
(採番筆者)
まず、Ⅳ.2「自然との民主主義と非敵対的矛盾」では、以下の中沢氏の言葉がほぼストライクで胸中に響き、私自身の指針となりました
「いま実際そこにあるものとどうコミュニケートして、どう自分が変わっていくのか。」
抽象概念に踊らされることなく、具体的に、どう関係を作っていくか
自身に照らして考えれば
今、住まわせて頂いている東京郊外の、奇跡的に緑多い場所ー野川周辺の、殆どが人為的に整備・改変された多摩の台地に、住み続けることを選択しております
「里地里山」や「里海」の環境にすぐ移住できていない、またそれらの保全・育成に直接的に参与できていない、という意味です
・語彙について今一度確認 「里地里山」/「里海」
→環境省が提示している点にも気づきあり
道中にふと出逢える植物、生き物、有機物無機物それぞれに意識を向け、来し方・今の関わりに感謝すること、お詫びし(例えば野川に人間が出したであろう泡が流れていることを🦆家族に🐢に鷺たちに)、行く末の模索に想いを馳せることしか、足元、できていない状況にある
この現況を抱えたまま、どうコミュニケートしていくのか
コミュニケート方法のひとつ、日々毎瞬間できることは、言葉を、言霊として、相手の存在にかけること(植物、その他生き物たち、有機物無機物すべてに、地球にも)
ふたつめは、”和ハーブ”の存在にフォーカスし、世界を捉え直していくこと。それを伝えること
この姿勢の先で、植物を愛で、育て、いずれ”畑活”をしていくこと
そして何より、すべての行いの瞬間に、”祈り”の意識を育み続けること
…を通して、パラダイム変換なのだろうこの大きな時代の変わり目の、与えられた数十年、魂軸で泳いでいく。地球の蘇生に向けての、共同創造を意識しながら
こんな風に考えておりました
この過程で、本書に絡みもう少し、考えたいこと
「里山に日本の民主主義の原型がある」とは
先に引用した中沢氏の言葉の、直前の数パラグラフで、展開されていた対談でのキーフレーズです
最初は、何故政治用語と繋がるんだ・・?と安易に捉え、真意にまで思いが至りませんでした。が、何度か反芻している内に、"和ハーブ"の勉強していたところ、ある日ふと気づきました
恐らく、テキストに載っている上杉鷹山の”かてもの”のお話に、里山民主主義は根っこで繋がっていると
(つぶさに知ると、物凄いお話です。この現代に、私たちの今ココ、この瞬間の足元に、このいのちの知恵は..その土地土地で治め&治められる命がけの愛は..ありますでしょうか、、受け継いでいるのだろうか😭↓)
総説 米澤藩刊行の救荒書 『かてもの』について/高垣 順子 (山形県立米沢女子短期大学名誉教授) J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh1994/9/3/9_3_13/_pdf/-char/ja
恐らく江戸時代(or前近代まで)の為政者において、”和ハーブ”を見る眼と、政治/まつりごとを行う眼が、分離していなかった――
更にその眼の奥には、”自分が自然のなかにすっぽり包まれて生きていると信じ切”る意識が、矛盾なく生きていただろう
🌿
この、日本列島における前近代までの視座を自覚&内包して、”自然”観自体のチャンネルを替えてみる。眼差しのチャンネルを――すると、
”主体”を人間だけに定めない認識に至るとき、”民主主義”という政体を鑑みれば、「里山に日本の民主主義の原型がある」と表現することが可能だ
🍁
筆者にとっては、”和ハーブ”の存在を通して世界を捉え直していくことは、「里山に日本の民主主義の原型がある」ことの再認識に繋がりそうです
⛰
”主体”についての、東アジアにおける、また日本列島における、来し方行く末について、参考になるもの
🌿
Ⅳ.2「自然との民主主義と非敵対的矛盾」の、p.214-220 までを箇条書きにまとめます
中沢氏言説
・日本にも民主主義の伝統があるー目に見えない形をとって。それが一番典型的に表れているものは里山(注9)
・近世以来、日本中に作られた里山では、動植物の利害がきちんと考えられている。動植物の要求を聞いて作られている
・人間の利害だけでもし里山を作ったら真っ平で余計な植物もない空間、企業化された収益性の高い空間を作るはず
・里山とは日本型の民主主義の隠れた現れだと思っている
≪point memo🖊≫
→民主主義という政体を鑑みる際に、”自然”観自体のチャンネルを替えて(日本列島における前近代までの視座を自覚&内包して)、今現在の言葉にして捉え直している
國分氏言説
・里山に関心がある
・里山とは元々人工的なもので、技術が入っているが、技術と自然というものの間に、ある種のバランスが保たれているー「調和」と言うと聞こえはいいのだが
・人間がそこを利用し、自然もそこを利用する、「技術(テクネ―)」と「自然(フユシス)」の狭間みたいな空間が里山(-p.215)
≪point memo🖊≫
→西洋(欧米)哲学の語彙による捉え直し
中沢氏言説
・「調和」より「非敵対的矛盾」と言った方が正確
・例えば、人間と動物との関係ー求めているものは双方異なるが、敵対はしない
・互いが持っている矛盾を対話しながら練り上げていく方法が里山にはある
・人間と動物の間の調停とは、物凄くデリケートな内容であり、それを学ぶ格好の場所が里山
・日本人が守るべき貴重な思想は、里山における「自然との民主主義」ということではないか(p.-217)
・(國分氏がスピノザの専門家であることからの言及)スピノザは地上に特別な空間というものを認めない無心論
・「自然と人間とは同じ地平で一体である」というスピノザの哲学からすると、小平中央公園はスピノザ的な公園、スピノザの森
・(対して)「お入らずの森」というものが日本には古来ある。人間が決して入ってはいけない空間が形成されている。自然と水と動植物だけの世界
・スピノザの森も大好きだし、「お入らずの森」も大切に思う
・水源地に関わるような森は「お入らずの森」にする必要があるー不動産屋が入ってきやすくなり荒らされるから。スピノザの森の唯一の欠点は、不動産屋が入りやすくなること(-p.219)
國分氏言説
・「非敵対的矛盾」は重要な概念
・人間が自然に溶け込んで生きるナチュラリズムはあり得ないと考えているーロマン主義的な思い込み
・農業も、自然ではない。むしろ正反対の高度な技術で、大変な自然の改変を行っている
・キャベツー品種改良により光合成が行えなくなった葉っぱの塊、一種の奇形ーのような技術を、適当に自然が許してくれているからやっていける
・確かに「自然との調和」などと観念的に、あるいは印象的に言うのは大問題(-p.220)
≪point memo🖊≫
→國分氏が随所随所で批判的切り込みを入れている、その批判したい対象について。氏の視座を参考に、自身で考えると、社会における何某かの現象について、”〇〇を観念的かつ印象的に捉えていく姿”というのは、マスメディアによって拡散される、大衆向けの意識層(レイヤー)において散見される知、認識方法だと考えられる
🌿
”日本型の民主主義”を再認識していく過程での直観知
続けて、「Ⅳ.5 民主主義と直観知」対談内容も記載します
國分氏言説
・中沢氏の言う「具体性が重要だ」の目線について、考え続けている
・抽象的なインターナショナリズムにも抽象的なナショナリズムにも陥らずに、どういう具体性の世界を構築していくか――具体性の世界について、正面から、しかし理論的に考えなければならない。すごく難しいが非常に重要な課題だ(-p.234)
中沢氏言説
・色々なところにアイデアは出ている
・ドゥルーズの例:「表現」という概念では(『スピノザと表現の問題』という著作もある 注19)、具体性と普遍性、個、種、類というものが一体になっている。「表現」とは運動のことで、その中でこれらが結合・分離しながら新しい組み合わせをつくっていく
注19↓
・表現というものは普遍的なものが具体性の世界の中に現実化してくる過程のこと(-p.234)
國分氏言説
・スピノザは表現ということと共に「直観知(sientia intuitiva)」にも言及した。ベルクソンやドゥルーズも直観ということを重要視
・直観とは、個物そのものを具体的に把握すること←近代の分析的知が排除していったもの
・ベルクソンの引用:
・私たちは日常的には沢山直観しているにもかかわらずそれを大切にできていない
・直観というものをどう復権するか(-p.236)
中沢氏言説
・メルロ=ポンティのセザンヌ論(「セザンヌの疑惑」注22)は、”直観というものの復権”の問題についてまさに扱っている
注22↓
・テーマは、絵画における直観というものは何か。風景画について。本当に風景を見ているのかどうか。人間がものを見るとは何なのか
・認識とは、色々なものを捨象した時に初めて成り立つ。ニューロンが外界の情報を捉える際一定の捨象を行う。次に、その捨象した情報の組み合わせの上に分類的世界というものが作られる。画家の眼は、それとは逆に、今時分が見ている世界を捨象しないという方向に向かう。
・メルロ=ポンティにとっての直感とは、(思うに、)捨象して分類して、体系化するときにそぎ落とされてしまっている、豊穣な世界を取り戻すこと
・人間の世界は様々なものが積み重なって形成されている
上位:常識や観念 ≪抽象化の世界≫
↑
↑
最下層:感覚器官
下層から上層に至るまでに、様々なものが捨象されていく。そのプロセスを反対方向に戻していく運動をしていかなければならない。直観知とはそういう運動のことだと思う(-p.238)
≪point memo🖊≫
・”日本型の民主主義”を自覚し、創っていくためには、まず眼差しのなかに、直観知を取り入れるチャンネルを育んでいくこと
・ベルクソンの引用では、人間対人間の認識について例が挙げられていたが、”日本型の民主主義”を再認識していく過程では、人間と非人間存在との関係性を捉え直してく行為が発生する
・メルロ=ポンティがセザンヌの表したものを見(観)たように、私たちは私たちで、日本列島に古来育まれてきた顕れを見(観)、''直観というものの復権"をダイレクトに、土地に根付いた周波数の中で取り組んでいけないか..
・私たち人間が、列島の中で、ものを…(ひらがなの"もの"は、元来一体何を指してきたか?メルロ=ポンティの訳語の意と同じだろうか)何某かを、
見(観)る、とはどういうことかを、
どういう営みで今後あっていけば破綻なく命繋いでいけるかを、再考再認識できないか。列島における直観知とはなんであったか、私たちが捨象してきたものに、気づける感性/知性/理性/霊性..をこそ、復権を。――と、ひとまず、意識したい
――何を描き、創造するのか。祈りのなか、時には、コントラストを通して
🌿
≪今回はここまで≫
参照情報/参考文献:本文中に記載
使用画像:筆者撮影
曇天の景色:gallery hydrangea@曳舟に、ご縁で出逢った日本画家・谷村涼子さんの作品を観に行った帰途にて、見上げた隅田川の上の大空
(本展の会期は終了し、新しい展覧会が開催されています)
祈る姿、その想いの生きている時間、波動を、そのままに伝えてくれる作品でした。自分自身にとって、祈るとは、信じるとは、自分の手のひらに掬える”信じた証”とはと、重心点を確認させてくれる展覧会でした‥🦋
棚田・里山・田園風景:2018年9月中旬 大地の芸術祭@越後妻有/新潟県十日町市にて
(参考1)
「お入らずの森」について
原因と言及されている「気候変動」なる現象の、捉え方には多角的分析が今後求められるかと考えられますが、現況として切に受け止めたい内容でした
(参考2)
人間である自分/我/自己と、他者との境界について
・【第3回】出口康夫教授「⾃⼰とは何か:「われわれとしての⾃⼰」とアフターコロナ」#哲学
↓再生リスト:
オンライン公開講義"立ち止まって、考える"
↓全体観:
【オンライン公開講義】“立ち止まって、考える” | 京都大学 人社未来形発信ユニット
・【第3回京都こころ会議シンポジウム】④講演3「われわれ」としての自己、「われわれ」としての生き方」(出口康夫)
・【第1回京都こころ会議シンポジウム】④講演1「こころの構造と歴史」(中沢新一)
(参考3)
祈りについて
(参考4)
世界の現況へ向けて
『波動の法則』足立育朗 電子書籍版
第八章 病気の本質 p.195~より(≪≫※は筆者)
※1:この部分、読みながら私には、葉室頼昭先生(★医師で、後半生春日大社宮司にもなられた方)の『<神道>のこころ』のエピソード(→もう完全に死の一歩手前で、最期のひと時をご家族と過ごされるために、東京のご実家へと、関西から夜行列車に戸板に寝かせられながら乗っていた時、することが無さ過ぎてある本を読んでいたら、死を前にするあまり無我の境地になっていて、その本の内容に無心で感動して、泣けて来てたまらなくなって、感謝の気持ちだけがただ溢れてきて泣き続けていたら、東京についたら治っていたという…)が思い出され、自然と納得されたのです
※2:見方を替え、"感謝をする"というここの部分、ミソではないかと思うのです。私は従来(今この瞬間も)、要は前近代までの知の活かされている医療の方にこそ人の心身を本当に生かす力があるという立場(=現状のパラダイムのアンバランスさを省みれば、バランス保つ方向へハンドルを切ってこそと志向したい姿勢)で、世界を捉えておるのですが、ここの
“人間の顕在意識が作り出した人間の病原菌の、その原子核の集合体(EXA PIECO)に感謝をする”という姿は、
目下世界を巡る、悪役にされている物質(←視座によってその対象は色々‥何だって、同じなのかもわかりません。夫々が試されていて)にも、言えるのではと気づいたのです
【意識の書き換え】
“人間の顕在意識が作り出した人間の〇〇の、その原子核の集合体(EXA PIECO)に感謝をする”・・・
🐝何とか最後に🦋
🌸和ハーブを学び活用していくことの意義🌿
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