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鎌倉鵠沼時代

20代の後半からしばらくの間鎌倉は腰越というところと鵠沼海岸というところに住んでいました。とても環境の良いところですが、やむに止まれぬ理由で住むことになったので当時はあまりその素晴らしさに気がつくことができずとぼとぼしていました。(そういいつつも美味しいカフェに行ったりもしましたし、なんかのんびりしていました)1月から住んだのでとても寒く、今ほど人もいなかったので人気のbillsなんかも平日は一人だった時もあって贅沢だったかなという気もしますが、とにかくどうしようかなと日々考えていた気がします。

ほんの少しイベントの司会をさせてもらったりだとかはしていましたが、鎌倉はコミュニティが独立共和国くらい独立しているので知り合いを作るとかそういったところからしなければならず手探りすぎて悩んでいましたね。何より私は鎌倉と言いつつもモノレールの駅の方が近かったので都内の最終が9時台だったような記憶もあって、案外何もできないという感じでした。

ヴェーダーンタのことも忘れていた時期だったので、ダヤナンダジの顔を思い出すこともありませんでした。当時は、江ノ島にあるヒーリングカフェにお世話になって休みの日なのにコーヒーを出してもらったり(お世話になったみっちゃんはもう亡くなってしまいましたが時々その笑顔を思い出して懐かしくなります)、いろんな話をしたなぁと。

時々歩いている時にふとそんなことを思い出して懐かしくなり、終のすみかを決められるなら鎌倉もやっぱりいいなあと思ったりします。(京都もいいですが寒いですもんね、冬)

ヴェーダーンタでプララーブダカルマを学びました。これがあるから肉体があるともいえますね。プララーブダカルマがあるかぎり生き続けるのですが、無くなったらおしまいなのです。膨大なサンチタカルマの中からほんのひとつまみのプララーブダカルマがつままれてこの世にきます。いわゆるプンニャ・パーパはアーガーミ・カルマで、知識によって破壊されます。

ヴェーダーンタを学ぶようになり、エゴを促進させるカルマの流れから少しずつ逆に自己尊厳を身につけるサイクルに回りつつあるように思いますが私の人生って何回か同じことを繰り返すシーンが現れる傾向になるなと俯瞰してみた時に感じるんですよね。時にパーパを消化するために私の人生はあるのかなーとぼんやり考えてみたり(そんなことはないのですが 笑)

もうサムサーラは(永遠と繰り返されるサイクル)いいでしょうと思うのですが、人間は記憶から選択肢を選ぶことが多いので結局同じことを繰り返してしまいます。そしてそのサムサーラは本当は外側にあるわけではないので自分の内側が作り出しているものでカルマともいえます。

祈ることと与えることで少しずつ自由意志が生まれてほんの少し形を変えていきます。(時にそのプンニャがものすごく働いてくれる時もあったりして)結局はそこに戻っていくのだなぁと思いつつ。

明日も祈ったりカルマヨーガを含めてヨーガができること、誰かに何かを与えられることに感謝します。



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