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日本語が日本語を超えた。

ずっと何ヶ月も下書き保存の状態になっていた記事。

消してしまうか、公開するか迷って、世に放ってしまうことにした。



わたしが昔、noteでサークルってもんをやってみようかなって思って、まずはどんなサークルがすでにあるんだろうって思って、サークルのページを見ていたときに、たまたま見つけたひと。

今までわたしが出会ったことのない感性を感じたひと。

そしたら向こうもわたしのことも見つけてくれて
想いあふれるうれしいメッセージを送ってきてくれたひと。

わたしが去年はじめたnoteのサークルに
一番にメンバーとして参加してくれたひと。

はじめてわたしがつくったサークルにて
やる意味を、言葉を綴る意味を、
わたしに持たせてくれたひと。

わたしのどんな姿も、どんな感情もただ、
受け止めてくれたひと。 

顔も見たことないのに、
存在だけでわたしのこころを救ってくれてたひと。

まっすぐで、100%の正直さと誠実さとそのまんまで、ことばを贈ってくれるひと。

そんな言葉たちで何度もわたしの胸をあたため、涙を溢れさせたひと。

孤独の香りがする、吸い込まれるような魅力を持つひと。



わたしがやってたサークル内での
コメントのやりとりなど、
彼からわたしだけに向けられる言葉と
彼が公の場で表現される言葉とが
全く違う言語のように感じてて
公の場での彼の表現は
日本語なのに日本語に感じないものだった。


抽象的でいて具体的。
具体的でいて抽象的。
よくわからないけど、とにかく
使用する言語表現が
わたしとは違うって感じてた。

だから、もっとその奥を見たいと思って
わたしも彼のサークルに入った。


でも、そこにはわたしと同じように
彼に惹かれている人たちがたくさん集まっていて、ピュアな愛の言葉たちをやりとりしていて、わたしは、彼への特別な想いがあるが故にそれがつらくてそこにいられなくなった。愛ではなかったんだと思う。自分だけっていう特別感を握りしめたくて、独占欲に苦しくなって。だから離れた。彼のサークルを抜けた。

自分の都合で 
わたしの目に映る彼じゃなくて
彼が主人公として紡ぐ彼の物語・表現
そういった本来の彼
が見れなくなるだなんて
恋か幻想かなんかに酔ってただけだ。

だから、
彼が住む地に足を運んだときに
私が会いたいと連絡したけれど
断られたのだった。


わたしは自分の未熟さに絶望した。


わたしの中では確かに交わし合えていたものが
ずっと胸に残っていて。
いつか会いたいと思っていた。
この広い世界で見つけてくれて出会えたことに、ありがとうを伝えたかった。

でも、それは断られて当然だった。
そんなわたしの中にあったつまらないものを超えて、彼の表現を間近で見てる人、感じてる人は
たくさんいて、そこでかけがえのないものを交わし合えているのだから。

とてつもなく真っ直ぐに正直に
そして誠実に、お断りの文章を
届けてくれた。その中に

まゆちゃんの物語の登場人物として、
主人公に消費されてしまっているような気持ち

と、彼が表現したひとことが
ずーーーっと胸に残って消えない。


的確すぎる。。。と思った。

相手との関係を築くにあたって
じぶんを主体にしてるのか、
相手も主体にできているのか、


と、彼は言っていたのだけど
わたしはこの
じぶんを主体にするのは超得意なんだけど
「相手も主体に」ってのが苦手てっていうか
欠如してる?とか思った。

だって結局わたしが
誰かに惹かれる
誰かを好きになったとき
わたしは
『知りたい』と思う。
でもその知りたい、という思いすら
わたし主体のもので。


だから結局わたしはわたし主体って事実と
知りたいのに未熟さゆえに彼のサークルにいられなくなった事実から、その『彼を知りたい』という想いを、”会って話すことで”とおもったけれどそれは叶わなかった。


残念な気持ちもあったけれど
とてつもなく彼の主張・想いがごもっとも&真摯だったから、わたしの胸はなぜかすごく、あったかかったんだ。そんな彼の誠実なお断りのメールを読みながら、涙が溢れたんだけどそれは決して悲しい涙なんかじゃなくて、こんなにも全力で相対してくれたことへのうれし涙だった。


だからそれでも、
いまからでも、
触れたいと思った。彼の紡ぐ表現に。


そう思い購入した彼の本が届き、
どきどきしながら開封して
わたしは一心不乱に読み進めた。
相変わらず、表面上の日本語はよく理解できなかった。


でも、よくわからない言葉の奥にある彼の「生命」を感じた。
そこにわたしの胸が震え続け、涙があふれた。 

わたしは彼の言葉から何を感じたんだろう。
言葉の奥に存在してた確かなそれは
言葉の奥に見えた確かなそれは
なんと表現できたのだろう。
この突き動かされる胸の感覚は何だったのだろう。

わからないから、彼の「生命」を感じたと表現することにした。



はじめて、日本語が日本語を超えたと思った。


いままで、外国に行ったときに
言語を超えて、こころが通じ合うことたくさんあった。
言葉の奥にある生命と生命が響き合えた。

だけどそれは、言語が「違った」からだ。


でも彼は、日本語という
使っている言語が「同じ」であるにも関わらず
言語を超えたところで、
言語のその奥で響き合えたことに、感動した。


頭の認知じゃないところで
わたしは彼を感じた。
彼の生命を感じた。


そんな愛おしく、尊い、彼の表現。




どうしようもない気持ちなとき、孤独を抱きしめるしかないとき、

わたしはこの本を手に取るんだ。

そして紙の上に並んでいる日本語の文字から彼の生命を感じている。

彼の生命がわたしの生命に、そっと後ろから隣へ、寄り添ってきてくれる感覚がするんだ。


ありがとう。

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とってもよろこびます♡