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先天性心疾患持ちミドサーの急性骨髄性白血病治療⑤

先天性心疾患持ちミドサーの急性骨髄性白血病治療記です。
前回はこちら。


一時帰宅

前回のエントリの通り、心内膜炎の疑いがあるため一泊しか一時帰宅が許されなかった。

夫に迎えに来てもらい、タクシーの後部座席で夫の手を握ると暖かくて、「夫が画面越しじゃなくて目の前に存在しているんだなぁ」と思ったら涙が出そうになった。

お互いメンタルが底辺なので、二人でめそめそしながら家で過ごした。

11月16日

家族に向かって「病院行きたくない」とLINEを送っていた。
言ってもどうしようもないのだが、この時ばかりは心の底からそのまま脱走してしまいたかった。
入院しなくて済んでいる世の中の全ての人が恨めしかった。

病棟の1Fで夫と別れる時、エレベーターが閉まる直前で「開」ボタンを押してしまったりした。

わたしの入院していた病院の無菌室は「化学療法用」と「移植用」の2種類に分かれている。
6月に入院してから何度かの一時帰宅をはさみつつもずっと同じ部屋に入院していたが、この度「移植用」の部屋に空きが出た(入院していた方は無事に退院していったらしい)ということで、キリが良いのでこの日から移植用の部屋に移ることになった。
やっぱり移植するんだな…と何とも言えない気分になった。

そんなこんなで一度病室に入れた荷物を再度移動させるために師長さんやヘルパーさんに部屋に来ていただき、
「もう入院も随分長くなってきたね〜」
などと話していたところで
「いや〜まじ長いっすね〜さすがにメンタルに来ますね〜ははは」
と通常通りヘラヘラ会話していたはずが、突然プツッと何かが切れてしまい、
「もう無理です、限界です」
「面会も出来ない、誰にも会えないのにこれ以上ここに1人でいるなんて耐えられない」
「入院が長いこと自体はまだ耐えられるけど、夫に会えないのが耐えられません」
と泣いてしまった。
師長さんもヘルパーさんももらい泣きしていた。

「脱走しないでよく戻ってきてくれたね」
と師長さんが褒めてくれた。

そして、師長さんから「主治医の先生に旦那さんの付き添いを許可してもらおうか」と言っていただいた。
その後やってきた担当医にも自分自身から直接「もうメンタルが無理です」と泣きながら話し、夫に付き添い入院してもらうことを許可してもらった。

夫も病気で休職している状況でありながらその病人に付き添いをさせるんだから病病介護じゃん、と思わなかったわけではなかったが、夫は
「洗濯物を運ぶだけより役に立てるから行く」
と言ってくれた。
つくづくわたしにはもったいない人だ。

付き添い入院について

コロナ禍でなければ無菌室に入院していても面会が出来る。
ただし現在はコロナ禍で全ての面会が禁止されている。

本来、入院患者への付き添い入院というものは原則として存在しない。
形式上「患者が病院に家族の付き添い入院を許可して欲しいと申し出て病院長がそれを許可する」ことになっている。
わたしが幼かった頃、心臓の検査や手術の入院の時にずっと母が付き添いをしてくれていたし、現在も小児科に入院する患者さんに付き添い入院するご家族も多いと思うが、当時といまが同じ仕組みかは分からない。

今回は
「わたしのメンタルが限界なので夫の付き添い入院を許可いただきたい」
旨をわたし自身が申請書に書き、
「患者のメンタルが限界なのでやむを得ず付き添い入院を許可する」
旨を主治医にも一筆書いてもらい、病院へ提出することになった。

わたしが入院していた病院では、夫が付き添い入院するにあたって以下の条件があった。

  • 付き添い入院開始日にこの病院で自費でPCR検査を受け(4万円程)、陰性が確認されること

  • 一度病棟に上ったら通常の入院患者と同じ扱いを受けること(病棟の外には出られない。行けるところは病棟内の洗濯場と入院患者用コンビニのみ)

  • 一度でも病棟の外に出たら自費PCRからやり直し

  • シャワーを浴びられるのは消灯後

  • 夫からわたしへのいかなる感染も防ぐため、基礎化粧品・歯磨き粉等は一切シェアしない

本当につらいのは今回の入院ではなく移植入院の時のはずなので、今回の入院での付き添いは「移植入院の予行演習」と捉えてもらうことにした。

ラインの取れない腕

今回は心内膜炎疑いのため一泊しか一時帰宅が許されておらず、再入院したこの日からまた抗生剤の点滴が始まった。
看護師さんに2度ライン取りを失敗され(しかも2度目は漏れた)、「いやまじで勘弁してください」と言って師長さんにラインを取っていただいた。
看護師の中で一番ライン取りの上手な方が夜勤明けで不在だったのだが、師長さんに入れていただいたラインは大丈夫そうだった。
3度目の正直である。

先天性心疾患のために赤子の時からずっと外来で採血されているが、採血を失敗された経験は殆どないし、むしろ「取りやすい」と褒められることの方が多かった。
小児科に入院すれば、皆細い血管にラインを取るのも上手だから、今回の入院で初めて「もしかしてわたしの血管ってライン取りにくいんだな」と察した。

11月17日

昨日師長さんに入れてもらった点滴のラインがやはりどうしても痛い。

前回の入院時は左右両方の手首にラインを取っていたが、片方は主治医が、片方は一番上手な看護師さんにやっていただき、特に主治医が取ってくれたラインは痛くもならずに3週間保っていた。

ということで「主治医に点滴してもらいたい」旨を主張した。

主治医は
「いつでもわたしがやってあげられるわけじゃないんだからね!」
と言いながらラインを取ってくれた。
うちの主治医はいわゆるツンデレである。

主治医について

主治医は随分と若い女性だった。
「随分と若い」と思っていたが、病院のホームページで調べると医学部を卒業したのが2010年とあり、わたしが大学院の修士課程を修了した年と同じだ。
ということは、主治医が浪人や留年をしていない限り、主治医はわたしと同学年なのだ。
しかし主治医は自分の班を率いており、研修医への指導をし、自分の見立てに自信があり、随分とプロフェッショナルで、同じ社会人として「わたしってどうなの?」と自分を省みる結果となった。

束の間の休息

しばらくの間は、化学療法もなくただ一日に1〜2回抗生剤の投与があるだけなので気楽だった。
凝血もヘパリンではなくワーファリンで管理していたため、一日のほとんどの時間を点滴棒から離れて過ごせるのは本当に快適だった。

朝起きて、朝食を食べ、うたた寝して、理学療法士さんが来たらリハビリをし、お掃除のおばさまと雑談し、シャワーを浴び、昼食を食べ、昼寝をし、どうぶつの森をして、夕食を食べ、どうぶつの森をして、フロア内を散歩し、小腹が減ったらおやつを食べ、画面越しに夫とおやすみを言い合いながら寝る。

病院食も苦手な食材以外は完食出来ていたし、この期間の間に、発症時に落ちた体重を割と取り戻すことが出来、また実際に自分で触ってみても脚や尻の筋肉が少し取り戻せたなということが分かった。
(移植でこれが全部パァになったのはまた別の話だ)

抜けていた髪の毛や眉毛がまた生えてきて、「抗がん剤治療が終わると毛が復活するというのは本当なんだなぁ」と思った。

12月2日:経食心エコー

経食道心エコーの日だ。

結果としては、「感染性心内膜炎ではないだろう」というものだった。
6週間抗生剤を投与し続けて、前回怪しいと言われた何かに悪い変化がなかったため、特に問題ないというのが最終的な所見だった。

ただ白血病の治療をするだけならこんなことはいちいち気にしなくて良いのだろうが、やはり命に関わる病気を既に一つ持っているので、何かにつけてそれが治療の足を引っ張ってしまうんだなとシンプルに感じた。

何にせよ、これでまた化学療法を再開することが出来るし、化学療法を休んでいる間も寛解を維持出来ていたし、また引き続き移植を視野に入れることが出来るようになった。
良いことである。

12月4日

またPICCを入れた。
早速ヘパリンとの生活が始まった。またこれだ。

12月6日

看護師さん達がみな
「旦那さん来てくれることになって良かったですね!」
と言ってくれる。

12月7日

今日から最後の化学療法だ。
そして夫が付き添い入院しに来てくれる日でもある。

地固め療法4クール目

地固め療法4クール目では以下の2種類の抗がん剤が使われた。
・キロサイド: 通常の70%量を24時間連続投与×5日間
・エトポシド: 30分×5日間
・オンコビン: 8日目に30分
・フィルデシン: 10日目に30分
また、5日間は毎日吐き気止めの服用と点滴がある。

本来であればキロサイドも今までと同様の量を投与するはずだったのだが、心内膜炎疑いを起こしたせいで化学療法のスケジュールがずれてしまったこと、化学療法を行うたびにわたしの血球量の回復が少しずつ遅くなっていっていること、年明けの移植を見据えて年末は自宅で過ごせるようにと主治医が考えてくれたこと、とはいえ地固め自体はしっかり行いたいこと、以上の様々な理由からキロサイドの量を70%に抑えて今回の地固め療法を行うこととなった。

12月8日

あまり吐き気はないが、ただただ怠く、食欲がない。
寝ていても起きていても怠いので、寝たり起きたりを無意味に繰り返しては時間が経過していないことにがっかりしていた。
手持ち無沙汰なので、夫にお願いしてコップにお茶を入れてもらってばかりいたら飲水量と排尿量が記録欄からはみ出しそうになった。

12月13日

化学療法が終わるのを待っていたかのように突然生理が来た。
元々治療中は血小板も少ないし大量出血を防ぐために薬で生理を止めるのだが、その薬を服用していても生理が来たのでびっくりしてしまった。

婦人科に診てもらい、服用ではなくリュープリンというホルモン剤を注射することによって生理を止めることになった。

化学療法の最中は「なんだかだるいなぁ」で終わっていたのだが、いざ5日間終わってみると嘘のように体が軽くなり、「量が加減されていたとはいえ抗がん剤がきつかったんだな」と痛感した。

12月15日

先週末にドナーの方の最終的な意思決定の面談があり、現時点で破棄の連絡等が来ていないのでそのまま確定と見て良いだろうという話があった。
ドナーの方の体調によるが、移植はおそらく1/19あたりになるのではないかという話だった。

1/20が結婚記念日だったので1日惜しい。

骨髄移植について

「移植」という名前がついているため、手術を受けると思われることが多いのだが、そんなことはない。
実際の移植自体はドナーさんにいただいた造血幹細胞をカテーテルから体内に投与するだけで終わる。
骨髄移植なら輸血のようなパックに骨髄液が入っているし、臍帯血移植ならシリンジ1〜2本分の臍帯血しか入れるものがない。

前処置では今までの化学療法よりずっと強い抗がん剤を投与したり、放射線を当てることで自分が元々持っている骨髄を破壊し、白血球の数を限りなくゼロにする。
この前処置の副作用として、化学療法と同様に吐き気や倦怠感、下痢や口内炎といった粘膜障害が起きる。
前処置が終わったらドナーからいただいた骨髄の細胞を輸注し、10日〜2週間後には生着、つまりドナーの細胞が自分の骨髄に根付くとされる。
生着までの間は白血球がゼロの期間が続くため、皮膚に付着した常在菌といった些細な菌やウイルスから感染症を起こすリスクがある。
また、生着する際には38度〜40度程度の発熱がある(生着熱と呼ばれる)。
「生着不全」と言ってドナーの細胞が生着しないケースもゼロではない。
生着後はGVHDと呼ばれるいわゆる拒絶反応、合併症が起きる。
GVHDはドナーの造血幹細胞によって作られた白血球が自分の体内の組織を「敵」「異物」と見做して攻撃してくることによって起き、体のどこに起きるかは医師にも分からない。
GVHDには急性のものと慢性のものがあり、だいたい移植後100日以内に起きるものを急性GVHD、それ以降に起きるものを慢性GVHDと呼ぶ。
GVHDには命に関わるレベルで重篤なものもあるため、仮に生着してもGVHDによってその後のQOLが下がったり、体に新たな不具合が生じることもある。
ただしGVHDは100%悪とも言い切れず、ドナー由来の白血球が自分の組織と同時に(仮に残っていた場合)白血病細胞のことも攻撃してくれるため、白血病の根絶にも繋がることになる(GVL効果)。
このため、GVHDは「少しはあった方が良い」と言われる。

改めて移植の前処置や生着までの期間の感染リスク、生着熱、GVHDなど色々なことを聞くとビビり散らかしてしまうのだが、ビビり散らかしたところでどうにもならない。

たまに「自分だったら耐えられる自信がない」みたいなことを言う人がいるが、「耐えられる自信があるかないか」ではない。
死にたくなかったら他に選択肢はない。
辛くても耐えるか、死んで文字通り灰になるかの二択を迫られて「耐えられる自信がないので治療を受けずに死にます」と言う人の方が少ないのではないかとわたしは思う。

12月20日

ちょうど2週間で夫は家に帰っていった。
本番は移植入院時なので、その前に無菌室がどういうところで、わたしがどのように過ごしていて、主治医や担当医や看護師さんやコメディカルの方々がどんな人達で、わたしが抗がん剤でどのようにやられているかを直に見てもらえてとても良い機会だった。

看護師さん達からは
「旦那さんがいると表情が違いますね!」
と口々に言われ、自分で思っていた以上に夫の存在がメンタル面で大きいことを知った。

12月24日

クリスマスイブに入院しているのは生まれて初めてだと思う。

チキン

病院食にチキンが出た。
だいたい運ばれてくる頃にはもう冷めているのだが、それでもこうやってイベントを感じられる食事は良いものだ。

一度生えかけてきていた髪の毛がまた抜け始めた。
最早ショックはないが、枕に散らばった短い毛を見るとテンションが下がる。

12月27日

骨髄移植の前処置のひとつに、体に放射線を当てるというものがある。
30分間ほど微動だにしてはいけない時間が続くため、事前に体の型をとってもらう。
この日は体の型を取る日だった。
実際に放射線が当たる時も特に痛かったり暑かったりするわけではないそうだが、いよいよ移植が近づいてきているのだと思うとどきどきする。

12月29日

病院の最終営業日だ。
担当医は今日までしか病院に来ない。
医者にも年末年始はあるのだ。

翌日から一時帰宅をして良いと言われた。
化学療法のクールを重ねるごとに血球の回復が遅れており、この日もまだ白血球が一時帰宅出来るような数に達していなかったのでわたし自身はずっと懐疑的だったのだが、とはいえ血球が回復傾向にあること、ここで一度帰宅しないと年明けにそのまま移植に突入してしまうこともあり、主治医は
「わたしはきみを帰す!」
と一貫して言っていて、予定通り年末年始を家で過ごせることになった。
とはいえ白血球の数が少ないので、くれぐれも家でおとなしく過ごすように、とのことだった。

実は年末年始を家で過ごせることに賭けておせちのお取り寄せを予約していた。
主治医に確認すると「工場で加工されていて火が通っているなら食べても良い」とのことだったので、やはりお取り寄せにして正解である。
制限がある中でもイベントを感じられる食事を取れるのは幸せだ。

12月30日

病院としては冬休みに入ったが、たまたま主治医が当番で出勤しているので血液検査をした。
一時帰宅の日の朝になって見事に白血球の数が一時帰宅OKの値を超えたようだった。
主治医はこの上なく得意気にドヤ顔をして「だから帰すって言ったでしょ」と言った。

PICCを抜いてもらい、荷物をまとめ、迎えにきてくれた夫と合流した。


続きます!


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