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第7回(6/18)新聞読者の作られ方�ー教育の場の利用ー

0、講義内容


1、コメントカード
2、復習:明治初年の新聞
3、明治初年の京都の教育
4、教育に組み込まれた新聞

1、コメントカード

事務連絡
 前回の講義を就職活動が忙しくなかなか視聴することができませんでした。もし可能でしたら、テストまで残していただけると幸いです。

質問への回答
官板バタビア新聞や明治初期の新聞は、情報操作のようなものはなかったのか。
最新のニュースを理解できなかったとありますが、なぜ理解できなかったのでしょうか。自分の生活には必要ないと考えたからですか?
明治3年の京都新聞が、「ものの値段」が羅列されてたのをみて、新聞というより「スーパーのチラシ」みたいだと思いました。 ですが、先生が「新聞は庶民が読むためのものではなかった」と仰っていたので、それでは「誰のための”スーパーのチラシ”なのだろうか」とも思いました。

先生がおっしゃっていたフランスにおける芸術と農業との関係がよくわからなかったのですが、農家の人たちが、生きていく上で必要な「食」を支えてくれるからこそ、発想豊かな芸術家たちが育まれてきた、という理解でよろしいのでしょうか
セポイの乱の写真で、先生は「写真という歴史も始まった」と仰っていましたが、メディアとしての写真には、嘘はないのでしょうか。 有名な風刺画で「It’s media」と書かれた、1人が刃物を持って人を追いかけている絵が、カメラによって反対に写っているものを思い浮かべてしまいました。


知らされないこと
コメントカードで「隠蔽した情報を知らないほうがより良い国づくりや私たちの安全につながることがあるかもしれない」という意見がありました。私は、国民が情報を知らなければ、自由でないことが当たり前になり、それが自由なのだと思い込み、政府という組織の操り人形になってしまうと思います。確かに、政治家の不祥事を次々に公開されれば、国民は不安をおぼえ、混乱に陥ってしまうかもしれません。しかし、むしろ国民全員が危機感をおぼえてこそ、国を、誰もが信用できるものに改革できるのではないかと思います。

都合が悪いこと


勝者の歴史という言葉は確かにと感じましたが、敗者の歴史を知るということは現在治めている勝者にとって都合が悪いため、危険な行為であったり難しいのではないかと感じました。
新聞の読み方
この講義を聞いて親と話し合い、新聞を取ることにしました
大学講義の受け方
私は歴史科の教職を受講していて、将来教師になりたいと思っているのですが、この歴史観の形成ででてくる話は本当にためになります。教科書に出てくるのは勝者の歴史であってその目線だけではダメであること、何気ないところに今の私たちの生活を作る歴史があること、このようなことをきちんと念頭において今後歴史について学習していきたいと思います。また、それを多くの人に伝えていけたらなと思います。
コメントで紹介されるような学生の方々の思考回路が成熟しすぎていて、同じ大学生なのかと思ってしまいます。自分の見識を広げるためにも本を読まなければいけないと思いました。
ここで聞くことではないかもしれませんが、様々な文献をいろんな講義で進めてもらいます。しかし、課題やばいとに追われたりして目を通せないことがほとんどです。どのようんに文献を読んでいけばいいかアドバイスをいただけたら嬉しいです。
農業について
今回の授業で、改めて農民の偉大さを知れてよかったです。
私の両親の実家は農家なので、先生が農業に対して良いイメージを持っていてとても嬉しかったです。正直今までは農家に対してあまりお金にならない地味な職業だと少しバカにしていましたが、とても大事な職業である事にこの授業を通して気付く事が出来ました。農家に限らず全ての職業が掛け替えのない存在であり、無駄な職業など何一つなく、何かしらの形で人々の助けとなっている事にも気づかされました。そんな農家の事をコメントカードで他の生徒が褒めてくれている様子を見て、とても嬉しく思いました。農家や農民、百姓という言葉を聞いてすごいという印象を抱く人は少ないと思います。自分もその中の一人でしたし実際すごさは伝わりにくいと思います。しかし、我々が普段食べている野菜は全て農家が生産したものであり、いわば農家に生かされているわけです。そんな農家の事を少しでも多くの人に理解してもらい、農家の減少が少しでも減れば良いと思いました。
メディア論
例えば、街を歩いているときに前方からスキンヘッドで腕にはタトゥーがびっちりつまった人が歩いてきたとする。こんな状況になったときこのタトゥー男が外見通り怖い人かもしれないし、そうではなくとてもやさしい人かもしれないが、無意識に干渉しないように道の恥を歩いたりと距離多く人が大半であろう。

学生さんのコメント
セポイの乱より、「1857年はどういった年だったか」を調べてみました。 当時イギリスは、対清とのアロー戦争(第二次アヘン戦争)中でした。またアメリカは、イギリス出兵を示唆し、幕府に圧力をかけています。(日米通商修好条約) このことから、当時の官板バタビヤ新聞が、「攘夷派の抑圧」のためにあったものではないことにも納得できました。尊王攘夷運動は、不平等条約が結ばれてからさらに活発化しましたが、1857年はまだ条約が締結されていないからです。どちらかと言えば、幕府は「国内の脅威」よりも「国外の脅威」を案じていたでしょう。 そういうわけで、少なくとも官板バタビヤ新聞は、政治的道具ではなかったと感じました。(参照:国際子ども図書館「幕末・明治の日本の歴史辞典」https://www.kodomo.go.jp/yareki/chronology/index.html)
学生さんのコメント
先生がおっしゃったマハトマ・ガンジーの七つの社会的罪の一つ、道徳なき商業からこんな話を紹介します。
1922年、モーリー・マッジャさんという女工が見る間に体が腐り落ち、しまいには顎全体が落ちる症状に陥った。彼女はその年に死亡した。すると、ほかの女性たちも同じような症状に苦しみ始めた。その女性たちには共通点があった。それは、彼女たちはアメリカで腕時計の文字盤に発光するラジウム塗料を塗る仕事をしていたということだ。文字盤を塗る作業は、「貧しい労働者階級の女性たちにとって、エリートの仕事」だった。賃金は平均的な工場の仕事の3倍以上で、幸運にもその仕事にありついた女性たちは、全米の女性労働者の上位5パーセントに入るほどの報酬をもらい、女性の権利が発展していく時代の中で、経済的な自由を得た。
ラジウムの発光も魅力のひとつだった。文字盤を塗る女工たちは、すぐに「ゴースト・ガールズ」として知られるようになった。というのも、勤務時間が終わるころには、彼女たち自身が暗闇で光るようになっていたからだ。
女工たちはラジウム塗料を塗る際、唇でくわえて筆を整え、先を細くするよう教えられた。彼女たちは最初に体に害はないのかと聞いたところ、「危険なものではないから安心していいよ」と教えられた。だが、それは真実ではなかった。この光る物質が発見されたときから、体に害があることは知られていたのだ。しかし、当時ラジウムが放つ光は健康や生命力と同一視され、薬品や化粧品に使われた。新聞では、「ラジウムで長生きができる」と報じた。モーリー・マッジャさんが24歳でこの世を去り、医師たちは死因を特定できずに、死亡証明書には「梅毒」という誤った病名が書かれた。会社は専門家による彼女たちの死とラジウムとの関係性を調査結果を金でもみ消した。彼女たちが症状に苦しむ写真を見て、会社の非道な行為を書くのが精神的につらくなったので、ここまでにします。自身で彼女たちの勇姿をご覧になってください。
この話から会社は元々ラジウムが体に害があることを知っていたから、高い賃金で女性を雇っていたのではないかなどいろいろなことが考えられます。情報を知らせないことは罪であり、人生を奪う商業も罪だと思います。

士農工商
私たちが、百姓たちの存在を誤認しているのには、「勝者が歴史を作っている」ことが関係しているのではないかと考えました。江戸時代というのは明治政府にとっては敵対する組織が治めていた時代なわけで、江戸時代にマイナスなイメージ付けをすることで、新しい時代に向かうことにプラスなイメージ付けしていたと考えます。そこで、百姓一揆など百姓が政府に貧しい生活を強いられていたというイメージ付けをし、それが現在の時代にも常識として残っている、と考察をしてみました。
私は高校で日本史を受けていなかったが、士農工商という歴史的事実とは異なる事柄が世の中に出回ったのは、明治政府のプロパガンダだったのではないかと思う。これによって、新体制である明治政府は四民平等などの理念を打ち出して善の立場となり、旧体制である江戸幕府の統治体制を差別的な悪の立場として陥れる。したがって、明治政府は自身の統治体制を、国民に正当化しようとしていたのではないか
講義の受け方
ガンジーの「七つの社会的罪」を声に出して読んでみました。。たった7つの言葉が生涯を通じた罪を的確に表しているなと驚くと同時に怖くなりました。
この授業で一番身になるのは、コメントの動画を見ることなのかと思った。

2、復習

各自動画を見るか、前回noteをご確認ください。

3、明治初年の京都教育


明治初年の近代教育
<日本>明治5年…明治政府、学制公布(学区制度)
<京都>
近世期…教諭所・私塾(学者による)・寺子屋・読書会(近世出版)
明治元年… 京都府小学校の誕生「市中組会所兼小学校」 の発案・小学校の雛型提示
明治2年…京都市内で小学校が全63校できる
 →日本で最も早い
 →町内の集会所と教育が同一場所で行われる。
町組会所兼小学校図面
下京第11区の小学校
町内の風景

京都の学区
福沢諭吉『京都学校の記』
「学校の内を二に分ち、男女ところを異にして手習せり。すなわち学生の私席なり」「別に一区の講堂ありて、読書・数学の場所となし、手習の暇に順番を定め、十人乃至十五人ずつ、この講堂に出でて教を受く」
日中は「小学生徒の数、毎校少なきものは七十人より百人、多きものは二百人より三百人余」の子どもたちが上階へ下階へと学問に励む様子が窺える。また「学校の内、きわめて清楚、壁に疵つくる者なく、座を汚す者なく、妄語せず、乱足せず、取締の法、ゆきとどかざるところなし」
「学校の傍にその区内町会所の席を設け、町役人出張の場所となして、町用を弁ずるの傍に生徒の世話をも兼ぬるゆえ、いっそうの便利あるなり」

小学校御取建御趣意書写
并ニ組長又ハ町数ニ御取調書共(明治元年9月28日)
      


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