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大学3年の夏休みを台湾で過ごした話➈~日本と台湾、おばあちゃんと私~

【はじめに】この台湾シリーズは私が2014年の夏に台湾で実施した教育インターンシップの記録を、当時の日記やSNSへの投稿を見ながらまとめたものです。マガジン「台湾日和」(無料)で一覧が見られます。

 日本語を教えるという初めての経験に頭を抱えながらも、台湾の温かな人たちに支えられたほのぼのライフをお楽しみください。

―――

 生徒たちがどうして日本語を学びたいと思うのか、私はどうしたらいいのかということに気持ちが向いていた前回の話からの続き。

 間が空いてしまって申し訳ないです。

折り返し地点に書いたまま、誰にも送らなかったメール

 さて、これまで散々三軒のホームステイ先にお世話になったと書いてきました。台湾には約7週間滞在していたのですが、

①:最初の二週間+帰国までの1週間とちょっと→両親が受け入れ先の学校関係者、ホストシスターは教え子(Bonnie)の家庭

②:①のあとの一週間→叔父さんが日本語堪能、両親共働き、ホストシスターは教え子(Angela)の家庭

③:②のあとの一週間→同居している祖父母が日本語堪能、ホストシスターは教え子(Candice)の家庭

 という順番にお世話になっていて、Candiceの家にいた頃に書いていて、誰に送ろうとしていたのかも分からない下書き状態のメールを見つけたので、今日はそのお話を。

 難しいことは分からないけれど、当時の私が見聞きしたものをそのまま書き残したものです。日々の生活と、日本人と言われても違和感がないくらい流暢に日本語を話すおじいちゃんとおばあちゃんと過ごして感じたこと。


――<以下、メール文の引用>――

 先週からホームステイ先が変わって自転車通学になりました。

 バイクびゅんびゅん走ってる中を自転車で走るのはかなり心臓に悪いですが楽しくて好きです。

 朝市の中を駆け抜けると色んな匂いがします。

 朝ごはんの匂いがするとお腹がすきますね(笑)

 台湾にはご飯が美味しいお店がいっぱいあります。

 一年前、台北を訪れた時は苦手だった市場の匂いも今では生活の一部。

 みんな朝からエネルギッシュで色んな人に会います。

 前を走るホストシスターが手を振る方向を見ると大概学校の先生が。

 「おはよう!」と日本語で言ってくれるのは初回の授業を覗きに来てくれた先生。

 朝が苦手なのか目をこすりながら大きく手をふってくれたのは、いつもお世話になっているんだけどまだ名前を知らない先生。体格が良いから体育の先生かなって勝手に思ってます(笑)

 買い物帰りのホストグランマにも会いました。

「朝市の辺りは特に気を付けなさい」

 はい。おばあちゃん。気を付けて行ってきます!

 何かあったらいけないからと一人でサイクリングには行かせてもらえませんが通学の時間が大好きです。

 朝は大体セブンイレブンで食べます。

 飲食スペースがあって、ここで食べたり。学校で食べたり。

 飲食スペースにはいつも人がいて新聞を読んだり、勉強をしたり、色んな人がそれぞれの過ごし方をしています。

 私は大体いつもサンドイッチまたはおにぎりと指定飲料のセットで39元(日本円で約120円くらい)のものを食べています。

 (緑のシールが目印)

 必ず「飲み物も買ってね」と言われるのですがこっちの人は紙パックの飲料を買ってご飯食べながら飲みきってしまうんですよね。

 私はご飯の時はあんまり飲まないで、そのあと持ち歩くタイプなのでこのスタイルに慣れるまで大変でした。

 この間何気なく表示を見てみたら内容量が400mlでした。

 やっぱりその場で飲みきる人が多いのでしょうか。日本より少ないですね。

 ペットボトル飲料を買う人はあまり見ないです。ペットボトルを買ったらみんな繰り返し使うんだよと以前聞きました。

 朝はコンビニか他のお店で買って食べるのが一般的なようです。朝食専門のお店もあってバイクに乗ったまま買い物する人も沢山います。

 学校までは自転車で10分くらい。

 学校に行ったらオフィスで作業。ホームステイ先だと常に子供が側にいて「遊んでー!」とせがんできて作業に集中出来ないので貴重な時間です。授業の準備もありますが翻訳やポスター作りを頼まれることもあります。

 ひたすらパソコンに向かっているので色んな先生が「休憩してる?」、「お昼食べた?」と声をかけてくれたりお茶を差し入れしてくれます。タピオカミルクティーを頂いた時は泣いて喜びます。

 (衝撃の差し入れ被り。ありがたいことです。)

 台湾の人はこういったタイプのお茶をよく飲みます。

 これは20元。日本円で60円くらいでしょうか。ちょっと甘めのお茶ですがベースは緑茶なので美味しいです。もちろん無糖のお茶もあります。

 あ、氷も食べれました。美味しかったです。

 お昼前の11時頃、とある先生がローストした大量のアヒルを持って登場。先生方に振舞っていました。私も頂きました。美味しかったです。

 (ピクルスみたいな野菜を漬けたピリ辛の薬味もあって、結構辛かった記憶が。)

 お昼は出前かコンビニ。

 この間はいつも出前を頼んでいるお店まで自転車で行って食べました。お店のおばちゃんはうちの学校の生徒は一通り把握しているようで食堂のおばちゃんのような存在。生徒の好みも把握しています。

 相場は大体60元~80元。

 チャーハンから麺類まで幅広い品揃え。早くて安くて量が多い。

 私はいつもウーロンヌードル(こっちでいう、うどん)を食べます。具沢山で美味しい!

 お昼の時間になると生徒が迎えにきてくれます。

 「せんせー、何食べたい?」

 この質問に毎回悩まされるのですが(笑)

 今日はいつもと違うお店に連れて来てもらいました。

 ここのお店もうちの学校の人がいつも利用しているお店らしく、生徒も店長のようなおばさんに気軽に話しかけています。

 私が台湾語読めないのでおばさんに英語のメニューがないか尋ねた生徒たち。

 不思議な顔をするおばさん。

 でもすぐに事情を理解してくれたのか「一番おすすめで美味しいのを出してあげる」と言ってくれました。

 こういう紙に記入して注文するタイプのお店でした。飲食店でバイトをしている身としては、これめっちゃありがたいなって思います。

 勿論日本のようにお冷は出てこないので普通に皆飲み物は持ち込んでいます。生徒も注文してからすぐ隣のお店にお茶を買いに行っていました。

 (やたらと見かけたお茶のチェーン店、茶の魔手。)

 出てきた料理はこんな感じ。

 美味しかったよ!おばさん!

 帰り際も笑顔で見送ってくれたおばさん。また来ます!

 私達と入れ替わりで先生方も来店。帰りにお茶買って職員室に届けておいてとお使いを頼まれる生徒。日本とはまた違った関係性が見えますね。

 授業が終わるのは16時。学校が閉まる時間なのですぐに帰宅。

 帰ったらすぐにシャワーをあびるように言われます。シャワーを浴びたら洗濯をしたりして夕食も6時くらいには食べます。

  就寝時間はホームステイ先によりますが日本より早い傾向があります。一番早いところで「10時にはみんな寝るよ」と言われたので驚きです。

 部屋が個室じゃない限りはそこの家のルールに従わなければならないのでちょっと辛いです。授業以外で頼まれた仕事があると中々進められないので。

 夜は暑いのでエアコンをつけたまま就寝。

 朝は大抵横で寝てる生徒が二度寝するのを阻止するところから始まります。(これを放置するとホストマザーの雷が落ちます。私はお咎め無しなのですが生徒に申し訳ないので最近は生徒起こすのに必死)


日本語が流暢なおじいちゃん、おばあちゃんと過ごした一週間


今日帰ったらおばあちゃんが夕飯の支度をしていました。

「ただいまです!」

ただいまって言うのがなんだか失礼な気がして変な感じになってしまった…。

「おかえんなさい。さ、そこに座って。あずきを食べましょう」

(おばあちゃんの煮てくれた小豆と、お味噌汁が美味しかったなあ)

おばあちゃんがそう言うとおじいちゃんもやってきました。

「おお、帰ってきたんか。今日は暑かったろ」

そう言って扇風機をつけてくれます。

今のホームステイ先のおじいちゃんとおばあちゃんは80歳後半。

日本統治時代を生きた方々です。

だから日本語が喋れるのです。

色んなお話を聞きました。

これは多分日本にいたら決して知ることのなかった話。

戦争中、おじいちゃんが宮崎にいたこと。

成績の良い同級生はみな軍隊に仕官していたこと。

多くの級友が特攻隊に動員されて命を落としたこと。

終戦の時に泣いたこと。

色んな話をしてくれて

でも最後におじいちゃんは終戦の時を振り返りながらこう言いました。

「台湾に帰ってこなければよかった。日本にずっといたかった」

短い会話の中のこの一言。

どんな想いで放った言葉なのか私にははかり知れません。

でもね

おじいちゃん、おばあちゃん。

私、二人に会ってこの話を聞くためにここに来たのかもしれない。

そう思ったんだよ。

沢山の写真や本も見せてもらいました。

ありがとう。

インターンの内容には直接関係ないけれどここにこれて本当に良かったと思えた時間。

教科書の向こう側を垣間見れた時間。

金曜日になったらお別れだけどそれまでもっと沢山お話聞かせてね。

――<引用終わり>――


 おじいちゃんは「日本は良いところだ」と繰り返し話していて、それはきっと教育とか経済の発展のことだったのかなと、今になって思っています。

 授業をしていた学校も聞いた話では日本統治時代に建てられたものらしく、校門を入ってすぐのところには大きな木があって、それは日本人が植えたのだということも教えてもらいました。

 教育だけではなくて、治水の技術が日本から入ってきた地域もあるらしく、そういう面からも「日本は進んだ国」と思われているのかも。

 「先進国」とか、そういうくくりがどうなのかはさておいて、私は実際にこういうお話を聞いて、歴史の流れの上に自分が存在しているのだと深く思い知らされて、

 戦争はとてつもなく大きな悲劇だし、責任問題とか勿論しっかり受け止めていかなきゃいけないのだとは思ったのだけど、

 それ以上に、この手を離してはいけないのだと思いました。

 単純に日本語で話せることが嬉しくて、毎日学校から帰るとおじいちゃんたちと何気なく話していたけれど、

 一週間のホームステイを終えて、最初の家に戻る時にぎゅっと手を握られて

 「頑張んなさいね」

 と言われた時は、何よりも先に涙が出て、止まらなかったことが忘れられなくて。

 過去の積み重ねの上に自分たちがいて、悲劇だったかもしれないけれど、だからこそ私はおじいちゃん、おばあちゃんと繋がることが出来た。

 もしかしたら一生出会わなかったかもしれない点と点が繋がって、とても深く思いやってくれた。

 それだけで胸が一杯で、だから絶対この手を離しちゃいけないんだって、ちゃんと向き合って、一緒に歩いていかなきゃって思った。

 先人が繋いでくれた糸を、未来に紡いでいかなきゃいけないと思った一週間の話でした。

 異国の地で、あんな風に手を差し伸べてくれる人がいることを、忘れてはいけませんね。

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