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旅に出た人に

エディタを開いたまま、しばらく何もしないで画面を眺めていました。
何かを書きたいけど、言葉にならないから。
無理をして書くものではないよと、言ってくれる人もいて。
ぼくも、そう思うんです。
それぞれの、寄り添い方でいい。
それぞれの、受け容れ方でいい。
そう、思うのだけれど。

ふみぐらさんの文章をはじめて目にしたときに、なんとまあ、「ゼロから掘り起こす」人なんだろうと思いました。
ふみぐらさんはプロであってぼくは素人であって、そんな感想は失礼以外の何ものでもないのですが、とにかくそう思ったことを、よく覚えています。
確かなものと、不確かなもの。
それらをつなぐ、それは0と1かもしれないし、天と地かもしれないし、意識と無意識かもしれないし、現実世界と並行世界かもしれないし、そんな橋渡しのような、どこからともなく現れた、まるでそう、言葉の上で世界を自在に旅するような、そんな存在なのだろうと、同じ世界の人であって別の世界の人であって、どこか、憧れか畏れかわからないけれど、ぼくには、そんな感情があったんです。

『ふみぐら小品』をパラパラとめくっていました。
みんなの言葉があって、ふみぐらさんの言葉がありました。
いきいきとした言葉のやりとりがあって、装丁や校正や、これを形にするために努力してくださった方々のお名前があって、アイコンのふみぐらさんと、猫耳のふみぐらさんがそこにいました。

日常が非日常になって
新たな日常がはじまって
そもそも異世界の人なのかもしれないけれど、
どこか現実味がなくて、どこか
遠くの出来ごとで、悪い冗談かなにかで
でもそれは今日、確かに現実だったのだと、不意に受けとった便りで、知ることとなりました。

ぼくはふみぐらさんにお会いしたことはありませんでした。
コメントで、何度かやり取りをさせて頂いた程度でした。
一方的にかもしれないけれど、でも、あったんですよ。
いつも決まった時間にnoteをひらいて、今日はどんなことを読ませてくれるのだろうと、楽しみにしていたときが、あったんです。
読み終えていつも、ため息が出るんです。
このお話は、どこからつくるのだろう。どうやって生まれるのだろう。
日ごと電車に揺られながら手のひらで躍る言葉たちが、とっても好きでした。
感嘆と畏敬と感謝と嫉妬の混じったスキを、押していました。

いつかどこかでお目にかかれるだろうかと、思っていました。
寂しいです。
とても、そう思います。
でも、思うけれど、今はきっと、ふわりと、ゆらりと、元からいろんな世界を自在に行き来する人だったかのように、旅に出られたことを、
確かなものと不確かなものをつなぐ、長い旅に出られたことを
寂しいけれど、行ってらっしゃいと、声をかけられたらいいな。

ありがとうお疲れさま、他にももっと、伝えたい言葉がある気がするけれど、月並みかもしれないけれど、
ほんとうに、お疲れさまでした。
ありがとうございました。







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