2023/10/9 兄の結婚のこと、あれこれ

ふと思ったことをつらつらと書く。投稿履歴を見返してみたら前回更新がちょうど一年前だった。
結婚してから長い間渋っていた兄がとうとう十二月に式を挙げるのだと、電話越しに母から聞いた(兄は私と直接そういった話をすることはなく、決まって母や祖母伝いにまるで近所の家の噂話のように聞く)。ずいぶん急だけれど、その家族に対する無頓着さも含めて兄らしい。
私の兄は今年の四月頃に入籍の届け出を出した。兄は長いこと今の奥さんと同棲していたがなかなか踏み切らず、奥さんが意を決して説得したらしい。兄は奥さんの方の父母へは何度も挨拶を済ませていたのにこっちには一度も来なかったのだから、同棲の事実を聞いて母は面食らったという。きっと、兄は恥ずかしかったのだと思う。いつかの食事の席で、兄の奥さんが笑いながらそれを糾弾する間、それが私の立場でも私はそうしてしまっただろうなと思うと何も言えなかった。私は今まで誰かと付き合った時もデートで外出する時もその事実と外出の理由も全てを(二泊三日の旅行に行く時でさえもだ!)家族に嘘偽っていたし、きっと自分なら結婚なんてできなかっただろうと兄の覚悟を心の内で褒め称えてすらいた。私と兄は幼い頃、こっそり見ているアニメを親に知られることすら恥ずかしいと思うくらいシャイだった。私と兄はよく似ていて、でもちょっとばかり兄の方がよくできている。
しかし、よく目と鼻の先の十二月に式場の予約が取れたなと思う。私の会社の一つ上の先輩が年度末に式を挙げるらしく、いつかの飲みの席で涼しい季節はすぐ予約が入ってしまうのだと言っていた。式の日は平日なので、やはりそれが関係しているのだろうか。
交友関係が狭いせいか、結婚式(披露宴は除く)というものにあまり行ったことがない。二十年以上の昔、世紀の境目に叔父の結婚式があり、それから社会人になって一度小学校来の友人の式に行ったきりだ。でも、ひっきりなしにご祝儀を包んで大変と口々に言う会社の後輩を見ていたら幸せな方かもしれないと思ったりもした。兄はこの前、奥さんと一緒に叔父夫婦とディナーを食べに行ったらしい。前撮りすらやろうとしなかった兄夫婦も、そこで式を挙げる後押しをされたように思う。
叔父は母とあまり年が変わらないおじさんだけれど、一回りも年の離れた女性と結婚した。その義理の叔母は美人だった。小学校になった私は、まだ大学を出たばかりの若い叔母を見る度に叔父のことを内心軽蔑していた。未熟な私にとっては、それはまだ赤ちゃんの年の女の子に性的な目を向けているみたいに思えたからだと思う。おまけに、叔父夫婦が子供を作ろうとしないことも大きな要因だった。その時は社会の授業でやれ少子高齢化が問題だとか教師の口から聞かされていて、それに大人というのは高齢化でのしかかる重荷(これは税金のこと)をはねのけるくらいに社会に貢献しなければならないものだと思っていたから、当時まっとうだった私は叔父にいい思いがしなかった(子供の作り方を知って酷く陰鬱な気分になったのはその数年後の話だ)。でも本音を言えば、弟で立場の弱かった私は(双子に兄も弟もあるものか。生まれる前の頭の位置で生後の優劣が決められてしまってはたまらない)、年下の姪や甥がほしかった。
叔父にあれこれ口を出すべきではないけれど、今ならそれなりに理解ができる。経験の差はあれ、二十歳になったばかりの人間と四十になる人間の間に精神的な面で明確な差があると言えば、多分ない。それらはだいたい「個人差」の一言で片付いてしまう。二十代で立派に社会と家庭を支えている人もいれば、三十手前で「こどおじ」みたいな生活を続けているのもいる(私は兄の奥さんから「こどおじ」と揶揄されたことがある)。実際、私自身、自分の感性や考えは二十歳になる前から早々変わっていない気でいる。私は社会という堅物が好きではない。それが私自身の生活を形作る構造で根本だと理解し片足を突っ込んでいながら、全身で浸かる気にはなれない。即物的な現代人の話より物語の中の登場人物の心境の方がまだリアリティ(これは人間味か)を感じられる。……現代の人間はアニメばかり見ていて幼稚だと誰かが言っていたことを思い出す。たしかにアニメは小説より薄いかもしれない。でも小説も物語だ。新書を読めと言うのならそれも「現実」という具体的な一世界を舞台にした物語だ。その指摘は痛いところを突いていて、本質は突いていない気がする。
話が飛んだ。
叔父が一回り年下の人と結婚したという昔の私にとっての一大事は、大学生になった時に解決を見た。友人が、付き合っている四十近いおじさんについて自分達と精神年齢は変わらないと話したのがきっかけだっと思う。私はその時大人になりきれない大人に対しがっかりしたし、それと同時に「そんなものか」と諦めを覚えた。それは理想の大人に対する諦観だった。他人に対しての、あるいは未来の自分に対しての。立派な大人になり切れない人間がいるというのはショックだったけれど、それを自分に当て嵌めた途端間違ってないような気がしてきたものだ。私は自分がこれからまともな大人に成長するとは到底思えなかった(その憂いは社会人になって見事?実現を果たす)。
ただ、考えや感性が幼いというのは悪いことではないと思う。感受性が乏しくなってしまっては作品や様々なコンテンツを楽しむこともできなくなってしまうから。何か新しいものが出る度に文句を垂れるより「こんなものもあるのかー、よく考えるなー」と驚かせ続けられる方が幸せだと感じる。私は年を経って世界の時間の進みが物理的にも精神的にも早くなる現象を「ウラシマ効果」になぞらえて理解している。「ウラシマ効果」とは物体が限りなく光に近い速度(=亜光速)で動く時(あるいはブラックホールなどの強い重力下にある時)、静止体と比べて時間の流れが遅くなる現象のこと。70~80年代にはそれを用いた悲劇的(感動的?)な物語が国内外で数々作られたりした。SFでよくある、宇宙旅行から帰ってきたら地球が数百年後の未来になっていたみたいな話。これは大げさな例だけれど、地球の周りを周回する人工衛星も地上よりわずかに時間の速度が遅いという話はよく知られている。それと同じように、人は年を経るとウラシマ効果に晒されるのだと思う。次第に世界の時間が過ぎ去るのがどんどん早くなって自分自身の精神が老けないまま年を経っていく。感性の若い人間ほど精神に強力なロケットエンジンを備えていて、心と現実で時間の流れる速度が乖離していく。心だけは亜光速で飛んでいるのだと思えば、立派な大人になりきれなくてもいいんじゃないかと思える。

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