システムとしてのメディケア――『ハーモニー』論抄

前置き:
本稿は『蘇る伊藤計劃』(宝島社、9月3日刊)の没原稿です。ファンブックに載せるには硬い内容だったものを、改稿の上で掲載しています。興味が湧いた方は手にとって頂けますと幸いです。また、投げ銭方式の全文公開なため、追加部分はありません。


抄録:
小説『ハーモニー』には「個人用医療薬精製システム(メディケア)」を始め様々な実在のモデルが存在しており、その視点から作品を見ることで読解の端緒とすることができる。本稿では、「作中のメディケア」とそのモデルについてを検証する。

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『虐殺器官』の後、大災厄を経た未来。『ハーモニー』作中の成人はメディケアとリンクするソフトウェア、WatchMeを通じ身体を管理しており、結末ではシステムの「成員を広くカバーする」点が重要な役割を担っている。

 一般には、メディケアとはアメリカの医療保険制度――高齢者と障害者が加入する保険――を指す。けれども作家は、当時のインタビューで「アメリカがモデル?」と訊かれ、「そんなところです」と微妙に言葉を濁してもいる。

 2008年、『ハーモニー』執筆当時のアメリカ医療。それは果たして、『ハーモニー』にどれだけ近かったのだろうか。

 HMO(民間保険)、メディケア(高齢者・障害者保険)、メディケイド(低所得者向け保険)。当時のアメリカには様々な保険システムがあるようでいて、一つ欠けていたものがあった。全員一律加入の保険、すなわち、国民皆保険制度である。

 国民皆保険がない環境、と言ってもピンと来づらいが、端的に言えば「不運も含めて病気の全てが自己責任」である非常に過酷な世界だ。

 営利保険企業には、金銭的にも健康的にも「危険な(保険の恩恵を受けるであろう)」顧客を加入させる動機など無い。と言って前述の(高齢者や低所得者をカバーする)メディケアやメディケイドも、対象が限定されている保険である。

 このためアメリカでは、低所得者に近い中産階級の人々が保険に加入できないでいた。無保険者の数は、2008年当時で約5000万人。盲腸の手術に数百万円かかる国で、だ。

 世界一高額な医療下の無保険(医療費の全額負担)者。しかもアメリカの場合、病院側の請求に「ディスカウント」交渉があるのが通例だ。無論、保険企業・団体と個人とでは大きな交渉力差が存在する。このため、保険に加入できていたとしても職場により価格が上下、仮に失業した場合は保険料が上昇してしまう(やや余談だが、現在進行中の医療保険改革法、いわゆるオバマケアの目的がこの無保険者問題の解消である)。

 例外である無保険者を多数出していたアメリカ医療と、構成員を広くカバーする『ハーモニー』のシステム。こう考えると、両者が真逆の存在であることが分かる

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 では、国民皆保険制度の存在する国、すなわち先進諸国はどうだろう? 確かにアメリカ以外の先進国では、皆保険が一般的ではある。その一方で、「切り捨て」もまた存在している。

 たとえばEU諸国での人工透析への保険適用は、建前として60歳前後迄の年齢制限がある。比較的低めの負担の代わりに、高齢者への医療はある程度割り切られていると言っていい。

 たびたび日本との比較に挙がる英国はさらに厳密、あるいは過酷だ。英国は保険適用の基準にQALY(生存延長1年あたりの費用)を採用しており、年3万ユーロ以上の治療は保険でほぼ行えない。日本で保険内で使える薬剤が、英国では保険外(全額自己負担)である事態は珍しくない。英国は英国で現実的なのである。

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 では、高福祉国家として知られる北欧諸国はどうだろう? 北欧諸国の高福祉と高負担はセットであり、たとえばスウェーデンの消費税は25%(食料品等12%、書籍等6%)に設定されている。

 補足するなら、北欧諸国でスウェーデンの消費税が特に高い訳ではない。北欧諸国の消費税は22~25%であり、なかでもデンマークは一律25%となっている。この高負担を考えると、北欧諸国もモデルとは考えがたい

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 では一体、『ハーモニー』の医療システムのモデルとはどの国だろうか。

 国民皆保険制度下で、幅広い範囲の医療をカバーしていること。にも関わらず、費用負担面で毎月の負担限度額を設定するなど、ユートピア的な側面を持っていること。そして、作家が実際に遭遇したこと。

 以上の点から、『ハーモニー』世界のメディケアは、他ならぬ日本の医療システムがモデルと考えられる。   (了)


主要参照資料
李啓充『アメリカ医療の光と影』、同続編、同連載
二木立『医療改革~危機から希望へ~』
Daily Mail Online "NHS to AXE 21 cancer treatments as part of efforts to cut Cancer Drugs Fund by £80 million"

再掲載
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祭谷 一斗

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