見出し画像

もはやただカスにはなれぬ



もはやただカスにはなれぬ。

カスとは何かを考えていく度に、私はこういった無力感、独り善がりな見栄や利己心を捨て去れない自分に気づく。

他者の意志や意図を全く汲まぬ、相互作用性の欠如した人格はカスであろうか?なるほどカスかもしれぬが、少なくとも他者を汲まぬことで保持する自己や未熟さがあるだろう。そうした意味を全く失ったカスは表現できぬ。そうした人格ではもう在れぬ。

他者に対して心無い動機に基づき誑かすなりこますなり虐げるなりするのはカスであろうか?なるほどカスかもしれぬが、そうした悪漢の類を何の感嘆の余地も無く振る舞うことはできるだろうかと問われれば、失敗としてそうなることはあったとしても、意図的にそのように装い切ることは到底できぬ。救いようの無いことと説得力に欠けることは違う。

最早私は己の言行に説得を求めてしまっている。己自身の酌量無きままでは生きておられぬ。納得できぬまま意志ある行動はできぬ。必要に迫られ、あるいは悪童じみた歓談の中でまったきカスを行ったとしても、そこには自分に向けた酌量がついて回ってしまう。完全に切り離すことなど到底できぬ。理屈(リィズン)や場(ロケイション)を鑑み己に釈明せねば堂々とカスにはなれぬ。他者の目にも容認し得るものとなるかどうか考えながら、見栄が訴えるだけの説得力と可笑しみが備わるよう言葉を振る舞いをこね回して、最早そういったことが大脳よりも先に小脳が行うに至ってしまった。

果たして、それでもそのカスはまったきカスであろうか。


あるいは、こうした釈明じみた挙動・習性自体をカスだと言うことも可能であろう。否、寧ろ私はこうした私自身の習性を、卑しき、小賢しきものであると断言してしまいたいと考えている。他人にとってなんら関係の無い、己の胸の内だけの事柄に過ぎぬ。『実際の振る舞いはどうなんだ』という問いにも、『その卑しい後付けくさい言い訳もどうなんだ』という問いにも、はっきりと、声を大にして、「まったきカスである」と断言してしまいたい。

しかし、できないのだ。

私が私自身を主観的に断言してしまえば、他者へ抱く主観的酌量の余地も等しく断罪してしまう。私は、他者の言い分にいちいち厚顔だの欺瞞だのと断罪したくなどない。いや、寧ろ他者の言い分に積極的に耳を傾けたい。私が好意を抱いている、私に納得を抱かせてくれる相手ならば尚更である。

私は彼等が自身を苛むために発する言葉全てに対し、机を拳で叩き割りながら私なりに感じた納得を解説し、三半規管に悪影響を及ぼす程の大声量で「君には酌量の余地が大いにある」と訴えて聞かせてやりたい衝動を抱えている。私が感じた納得について、「君からの反論はあるか」と問い質してやりたいという暴力的な飢餓感と戦っている。(これら行為のカス性については議論の余地は無いと断言しても良い。必要性と関係性、即ち上述のリィズンとロケイションが噛み合った時、辛うじて許容されることもある、以上ではあり得ない。)

だが、これは全くの気分の問題に過ぎぬのだが、果たして自身のカスなる習性に酌量せぬ者が、他者を真剣に説得したとして、それは筋が通った説得力のある振る舞い足り得るだろうか?


これは気分の問題に過ぎぬ。いや、最初から全て、気分と主観的道義の話に過ぎぬ。
理屈をこねくり回して、自己の否定を例外処理とし、他者への寛容と両立させることは決して不可能では無かろう。だが、私はそこに真実味を感じ取るだけの理路を未だ構築できぬ。と言うより、主観内の疎通回路に置いて、生々しき短絡が生じてしまうのだ。私自身が自己否定に際して用いる道義や価値観、所謂私自身の骨格たる部分が、短絡部分より通電し酌量の余地を抱いていた筈の他者へ、無損失で否定を印加する。幾つものバンドギャップを経て初めて運用を認められるはずだった暴力的な否定を、生々しき短絡を通じて他者に振り下ろしてしまう。これほど恐ろしいことは無い。私自身が私の振る舞いを納得できないものにしてしまう、その構造が許し難い。その許し難い危機を受容させるに足る説得の言葉や価値観を私は持ち合わせていない!


故に、私は己の釈明を全くのカスとして面罵することはできぬ。その薄汚い罵詈雑言の存在自体をまあまあと宥めて受容してやる他に、納得できる術を持ち合わせぬ。私の中にある他者へ向けた愛が、まあよかろうと不承不承了解してやっても良いものであるためには、つまりそうした酌量を必要としている。そうした、自己が見栄を張れるだけのものでなければ、生きてはおられぬ。


もはやただカスにはなれぬ。

私は自責と他者愛と、巨大な虚栄心の三者が織り成す塗炭の苦しみの中で、みっともなくもこのように訴える他無い。それら全てを侮蔑し、同時に了解してやらずにはおられぬ。

そして、その何れも持ち合わせぬ割に面白くも何ともない、正真正銘の見るべきところ無き恥知らず共、地球上に埋め尽くす人類という種の大部分が、速やかにくたばらんことを痛切に願うばかりである。





尚、カス成分として、早期投稿を以て代えさせてもらう。(私は本当は12月11日の担当だ)
あとはほしいものリストでも貼っとけば、並み居るカス共も誰も文句はいわんだろう。全くこんな泣き言の末尾であれが欲しいだのこれが欲しいだのとはどういった了見なのだ!うん、多分大丈夫だ。


カスベントカレンダー2020 11日目
松戸

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?