映画マリオの評価・感想

初稿

当然ネタバレとかは一切気にしない。
そういうの嫌なら自分でなんとかするように。
俺からアドバイスするとしたら、SNSを閉じてゲームとかユーチューブとかに集中しておけ。


まず、映像や音響はけっこういい。
ピクサーとかがやりそうなモチモチツルツルしたカートゥーンキャラクターが飛んだり跳ねたりする絵面は、とても心地よいものに仕上がっている。
プロモーションビデオでも流れてた眉根を寄せて怯えるルイージは見事なハマり方だし、凄まじい数のノコノコやカーチェイスでマリオが投げる緑甲羅の動きも素晴らしい。
吹替版で当てられている声の演技も結構好みで、効果音や音楽は遊び心に満ちた楽しいものだった。


脚本やキャラクターの動かし方は正直退屈だ。
映画にするための翻案行為自体は悪いことではないが、いつかどこかで見たような展開をマリオの皮を被せて適当に進めてるように感じられる。
兄弟は周りから下げられまくってるくせに夢見と諦めの悪さだけは人一倍の典型的なコメディ主人公だし、ピーチはバキバキに鍛えられたディズニープリンセスが一人だけ続編に出てきたような感じで終始マッチョでホットなベイブの振る舞いだし、マリオブラザーズやRPG、64とかを想定して読み込むと思いっきり乖離してて気が遠くなる。

じゃあそういうキャラクターが最高にゴキゲンなお話を見せてくれるかというと別にそうでもない。
マリオはムーランそのものみたいなBE A MANパートをやった次のシーンではもう赤キノコと青キノコの区別もつかない間抜けになっているし、粘ってたらいつの間にか降って湧いたネコマリオでドンキーを倒した!やったね!と言われても、別にそこに座って心配ヅラしてる2周目ディズニープリンセスでも同じくらいの真似はできたんじゃないの……?という気持ちで全く興奮できない。何のための修行パートだったんだよ。
そもそもこのコングジャングルパート自体がマリカーとマリカーに出て来ない2周目ディズニープリンセスのプリケツバイクをやりたいがために適当に突っ込まれたとしか思えない。カートの前フリのためにコングの王国はキノコ王国の十世紀先くらい発展した機械文明になっているし(実際ドンキーコング世界はタル飛行機で空を飛んでるくらい技術が発展しているのだが……)、その割にアステカめいた野蛮なスタイルの軍隊を並べてイキっている。コメディタッチの大げさな表現といえばそれまでだが、そうやって出てきたコング達のほぼ全てがクッパ城に囚われるだけで特に話を動かさない。何のために駆り出されたんだこいつらは。
2周目ディズニープリンセスはもうひたすらマッチョなムーブを繰り返して一人でクッパを戦闘不能に追い込んだけど、他の足手まといに気を取られてるうちにマグナムキラーを撃たれてキノコ王国はブルックリンまでふっとばされている。お前は余計なことしないで速攻でクッパ城に乗り込むべきだった。ブルックリンのダサいヒゲ男に発情している場合じゃないんだよ。というかなんでブルックリンでイタリア語なんだ。この世界ではブルックリンはイタリアの属領なのか?


ついでにお話を整理してみると、
うだつの上がらん兄弟が異世界に迷い込む→弟が魔王に囚われ兄がヒロインの国に迷い込む→超強いヒロインに鍛えられる→ヒロインが強いとウワサの隣国に対魔王同盟を結びにいくから兄もついてく→兄がドタバタして隣国で認められる→魔王と戦って同盟軍壊滅→超強ヒロインが民を人質に取られて魔王に投降→投降したと思ったら一人で魔王軍をぶっ壊す(???)→死んだと思われた兄と隣国王子が駆けつけ人質解放→魔王の最強兵器で戦場が現世にふっ飛ばされる→魔王の持ってるパワーアイテムを兄弟が回収して全部やっつけてヒーロー誕生

どっかで見たような展開の雑なパッチワーク感がひどい。
まあ筋書きがヘンテコでもキャラクターの魅力が引き出されるなら何の問題も無いのだが、上述したようにこの作品で描かれているキャラクターの振る舞いはさして魅力的ではない。兄弟愛ゴリ押ししつつ諦めの悪さと幸運をフィーチャーするばかりで、葛藤や奮起に至る過程を丁寧に描く気がまるで感じられない。


総評して、ダラダラと面白ムービーが流れているばかりの「楽しい絵面と演出効果目白押しだが、退屈な展開の映像作品」だと感じた。





ここからはもう少し突っ込んだ批評をしてみよう。
原典(マリオシリーズ)を引用翻案し製作した総合芸術としての作品の、個人的評価だ。

先述したように、俺は既存の作品の映画化に当たって、映画ならではの形に翻案すること自体は悪いとは思っていない。ゲームの体験をそのまま映画に持ち込むことは不可能だ。作劇上の添加や削減は仕上がりを良くするために行われて然るべきだし、描きたい要素にフォーカスした新たなストーリーや描写を展開する試みは素晴らしい。ゲームとアニメのポケモンがそれぞれ違ってそれぞれ好ましく思うのと同じだ。

翻って、この映画スーパーマリオブラザーズはどうかと思うと、良い翻案が為されたとは思わない。
元より長いゲーム作品群の中で、新機軸を開拓する試みは幾度となく繰り返されてきた。初代ドンキーコングを倒すために登っていくゲームが、ブラザーズとしてノコノコを蹴散らしたりクッパに攫われた姫を助けに行ったり、果てはクッパ城に異世界の悪党が乗り込んで世界を荒らし始めたりと新展開を広げていった結果として今のマリオシリーズという集大成がある。
それらの中で全てに共通している要素というのは殆ど無いと思う。ただ、そのシステムや表現、展開によって、楽しくて面白いものを作り上げるという試みは共通している。でなければ新作が出ても金と時間を出して遊ぼうとはしない。

そういう偉大な先人の遺産を踏まえた上で作られたものが、適当なダサい仕上がりに感じられた時、「でも豪華な映像で原作再現されたからオッケーです!」と言える気質であればこうはならないかもしれない。
俺はそうは思わないし、ましてやわざわざ既存のシリーズタイトルを引っ張って「ムービー」とケツにつけるからには、そのタイトルを遊んだ人が唸るようなニュアンスの汲み取りなり映画だからこその物語展開なりをやって欲しいと思う。

ゲームで表現されたニュアンスといえば、「ジャンプして踏みつけると敵を潰せる超人を操り、何度もやられながら進む過程で彼の能力に慣れ、狂ったように連続する敵や落とし穴を学習して克服し、ゴールに到達する」といったニュアンスがある。
そこに幸運にも降ってくるスターなんて代物の介入する余地は無いし、そもそもピーチが大暴れするなら兄弟が砦を城を越えて助けに向かう必要は無いだろう。この作品は原作でプレイヤーの体験したストーリーやゲームプレイのニュアンスを表現することは半ば放棄している。

となると、この冴えない兄弟のお話は、ゲームとは全く別軸のマリオブラザーズのお話として魅力的にしなければならなかったのではなかろうか。この場合、兄弟愛にフォーカスするなら「弟が危ない!」と言葉で主張するばかりでなく、兄弟愛それ自体に周囲が反応をして認めたりといった展開を重ねて、兄弟愛のための物語を美しく仕上げるべきだった。やはりピーチが大暴れする必要は薄い。というか、ピーチに求愛したがるクッパの存在自体が過剰だ。このお話の中で一体何をしっかり描きたいのかがブレまくっている。別に絞ればいいというわけでは無いが、いくらなんでもこれが最後に「マリオブラザーズ!俺たちのヒーロー!」と叫べるような仕上がりではないだろう。ヒーローはピーチだ。彼女は熟練の戦士だ。マリオブラザーズは巻き込まれキャラがイヤボーンした以上のことは起きてないではないか。

こうした稚拙な脚本で無闇に原作要素を再現して散りばめたばかりの映画作品を、俺は心底軽蔑している。
最新の映像や音響の技術で往年の名作を表現するのはいいが、それならザ・ムービーなどとせず、大したストーリーも無くおいしいシーンだけを細かく切った映像と音響だけのショートムービーでもいいではないか。(実際PVは非常によくできている。)
わざわざ一時間半もの映画にして視聴者をシアターの椅子に縛り付けて連続して視聴させるためだけに、名作のタイトルを引っ張って名作の表現を現代化したものを適当につなげてるようにしか見えない。
というか、原作のシーンや要素が再現されればそれで満足なのか?こんなカートゥーンアスレチックやカーチェイスなんて、ピクサーとかが素晴らしいオリジナル作品を腐るほど出しているのではないか?それがマリオとノコノコの皮を被ってるというだけなのでは?

これは名作に見劣りしないだけの1時間半の体験なのか、それとも原作再現シーンを連続させた1時間半の映像なのか。
後者にくだらない物語は果たして必要だったのだろうか?
シアターと尺を埋めるという興業のために仕込まれたしょうもない展開は、かつての名作が残した体験や興奮と紐づける必要があったのだろうか?
俺はそういうのがとても嫌いだし、好きだった名作にそういう興業と馴れ合って欲しくないと思う。他の人はそうではないとしても。




追記したくなったので追記


くだらない・しょうもないについて若干表現したいことが思いついた。

予備知識とかスキーマ理論の活用についての話だ。
マリオの話で言うと、はてなブロックを叩くと何かが出てくる・敵や弾に接触するとダメージを食らう・パワーアップの無いところでダメージを食らうか足場の無い奈落に落下するとライフを失い巻き戻される、大体この辺りは「スーパーマリオ」のシリーズに接したことがある人にはもう意識するまでもなく認識できる事柄だろう。そういうスキーマ(schema、構造化された知識)が刺激されると、疑問に思ったりつっかえたりせずスムースに物事を飲み込みやすくなる。
何の説明もなくマリオとルイージが街中を走り出した時、緻密な画面の諸要素に混乱することなくマリオが何かを踏み台にしたんだなと飲み込めたと思う。これは日常的な重力の概念というスキーマ、スーパーマリオブラザーズでは定番の「横から見た画面で足場を飛び越えていく」というスキーマが刺激されて、マリオが自身の身長よりも高いところでジャンプした時に「そこに足場となる何かがあった」というのを飲み込めたのではなかろうか。(そもそも重力とか余りにも普遍的で常時刺激され続けている認識をスキーマの内に含めていいかはともかく。)

まあざっくり言うと、「共有できている認識は、殊更説明されなくても暗黙の内に同意してもらえる」という現象だ。

映画を思い出してもらえると、序盤はシリーズファンにとっては既知の内容をちょこちょことゆっくりと尺を取って説明・描写していなかっただろうか?
土管によるワープのこと、赤キノコは生食できて食べると巨大化すること、浮遊しているちくわブロックは上に立つと浮力を失い落下すること、ファイアーフラワー……数え上げればキリが無い。
これらの表現は、未知の世界に迷い込んだマリオの戸惑いをより面白く描きつつ、シリーズを知らない視聴者にも「そういう不思議なことが起きる」ことを伝え、更にはシリーズファンの既存のスキーマを刺激することで映画と既存の作品とのギャップを飲み込みやすくさせる……等々、無数の効果を見込める良い表現だ。エンターテイメントでは、幅広い視聴者・読者・プレイヤーを取り込んで離さないために、作中序盤の描き方として様々な媒体で広く活用されている。

ところで中盤のシーンだが、映画ではマリオは何を取ってネコマリオに変身したか覚えている人はいるだろうか?


鈴!と答えられた人は、滅茶苦茶記憶力が良いか、ネコマリオのスキーマに汚染されていてそこにスーパーベルを紐付けずにはいられないか、のどちらかだろう。少なくとも俺はスクリーンに鈴が映された瞬間を記憶に思い起こせなかった。どんなアイテムによってマリオがネコマリオに変身したか、認識できなかったのだ。

直前にはてなブロックを映す尺が取られていたので、何かはてなブロックから出たアイテムなんだろうなとは想像できる。想像できるが、そこにあるはずの相互作用(アイテムAを取得→パワーアップAが発動)の描写が非常に浅くなっていると感じた。
映画自体で既に示した描写(赤キノコ→巨大化、ファイアーフラワー→炎)があるから削減されたのかもしれない。しかし、ここで何が起きたか(鈴→ネコ?)を削って想像に任せることにどういう効果があったのだろうか?
(ネコマリオに鈴なんかついてないから、表現考えるのが面倒くさくなったんじゃないかと邪推もできるが……)

この辺りから、映像的な映えを重視して相互作用や因果関係、シチュエーションの飛躍をバシバシやるようになっていった。
せっかく同盟を結んだコング軍団がひとまとめに掃除されるシーンは、絆の力のか細さとクッパ軍団の強大さばかりが際立っている。直前のシーンで描いてきたものにツバを吐いて投げ捨てて、展開も視聴者も置き去りにし始めてしまった。

別に、完全に登場人物に起きた変化を描写してシーン同士を結びつけた退屈な画面を映すべきと思っているわけではない。でも映えない登場人物やアクションはバシバシカットされて、絆?が生む奇跡のパワーが事態を自動的に動かしていき、その度が過ぎているんじゃないかと感じると「そんなことよりピーチのケツをスクリーンに映せ!それがマネタイズだろ!」という幻聴が浮かんでくるのは俺だけだろうか。(断っておくが、ピーチのケツはすごく良かった。


ちょっとまとめてみよう。
作中で本来為されるべき説明や描写を省略することは、事前の丁寧な手続きによって十分OKなものになる。
だが、そのために詰め込む手続きや省略を重ねていくごとに、そこにある抵抗・ギャップは大きくなり、要求されるダイナミズムのハードルは増していく。
最終的に、シリーズファンでも全くの初体験者でも訳のわからない(あるいはわかってもつまらない)ものに仕上がっていってしまうことだってある。その都度認識をジャンプさせることに付き合い切れるかは、作品がどれだけ興味深いか(意識するまでもなく揺さぶるものを構成できているか)に依存している。
そして、作品にどれだけ意識を揺さぶられるかは、定量化不能な受信者毎の要求する興味の持ち方(例えば映像か物語どちらに惹かれるかや、どちらがどれくらい稚拙でも許容できるか)に依存する。

何が言いたいかというと、映画マリオは映像が面白過ぎて脚本・展開の拙さに対してルーズになっていると感じている。一個の作品として見た時、マリオシリーズ自体の持つ強固なスキーマや求心力に甘えて映像以上の映画としてのスーパーマリオを放棄しているんじゃないかと感じているのだ。

お話をもっとわかりやすくすることもできたはずだし、もっとゲームで描かれてきたニュアンスを取り上げることだってできたはずだ。この作品はもっともっと面白くてファンもそれ以外も惹きつけるものにできたはずだ。飛躍のギャップを狭めたり、解釈の余地を残したり、郷愁を引き起こしたり……
その結果として、失われてしまう映像の映えもあるかもしれない。無いかもしれない。かえって理解不能でギャグみたいな色が出てくるかもしれない。尺が2時間になってしまうかもしれない。予算、人員、技術……何が必要なのか、そもそもできるのかすらわからない。

だが、スーパーマリオブラザーズを冠するものとしては、もっとうまくやって欲しかった、と俺は思う。
これはキャラクターシリーズの求心力に甘えたビジュアル映画の範疇を出ないし、体験した者を突き動かそうという野心やテーマに欠けた映像音響技術作品じゃないのかって感じる。
たかがゲーム映画に求め過ぎだろうか?たかがゲーム、たかが映画に求め過ぎだろうか?
でも、そのたかがゲームに突き動かされてきた身としては……今も突き動かされている身としては、くれぐれもうまくやって欲しいと思うのである。
スーパーマリオRPGなんて全然スーパーマリオじゃないのに完全にスーパーマリオのRPGだったじゃないか。100年以上の歴史を持つ映画、人類史と区別がつかないほど続けられてきた物語という技術の積み重ねに、それっぽっちも求めないでいられるものだろうか?

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