映画備忘録「百花」

今何本か書き途中なのだがこの映画を見た衝撃と、原作と2回目を観る前に残しておきたいので夜中の3時に書き始めている。なので誤字とか日本語おかしいところは見逃してほしい。(2022/10/9時点)
間に合わなかった原作を読み始めてしまった。(2022/10/10時点)
読み終わったし、2回目を観に行ってきた。(2022/10/12時点)
…こういうこともある。原作との比較も含める長くなりそうな気がする。
もしかしたら分けるかもしれない。
相変わらず、好きなところを好きなように書いたので読み返したらとても読みづらかった!!まあ。いいか!!(2022/10/22時点)

※この感想文にはネタバレが含まれているので観てない方はお気をつけいただきたい。

映画概要

監督
川村元気(映画プロデューサー・小説家・監督など)
主な作品「モテキ」「世界から猫が消えたなら」など企画・プロデュース
本作「百花」においては原作者であり、監督でもある。
脚本
川村元気・平瀬謙太朗
原作
川村元気
キャスト(役名)
菅田 将暉 (葛西 泉)
原田 美枝子 (葛西百合子)
長澤 まさみ (葛西 香織)
永瀬 正敏 (浅葉 洋平)
神野 三鈴 (工藤 恵)など

あらすじ

今回からは映画の流れを確認できるようにあらすじを引用していくことにした。
私の説明だと分かりづらい!

レコード会社に勤務する葛西泉(菅田将暉)とピアノ教室を営む泉の母・百合子(原田美枝子)は、過去のある「事件」をきっかけに、わだかまりを感じながら時を過ごしていた 。そんな中、不可解な言動をするようになる百合子。不審に思った泉は百合子を病院に連れていき、そこで認知症だと診断される。その日から、泉は<記憶を失っていく母>と向き合うことになる―― 。百合子の記憶がこぼれ落ちていくスピードは日に日に加速し、大好きだったピアノでさえも、うまく弾けなくなり、泉の妻・香織(長澤まさみ)の名前も分からなくなっていった。それでも今までの親子としての時間を取り戻すかのように、泉は献身的に支えていく。ある日、百合子の部屋で一冊のノートを見つけてしまう。それは、泉が知らなかった母の「秘密」、そして泉にとって忘れたくても忘れることのできない、ある「事件」の真相が綴られた日記だった…。心の奥底にしまい込んでいた記憶を、徐々に蘇らせていく泉。一方、百合子は失われてゆく記憶の中で、「半分の花火が見たい…」と何度もつぶやくようになる。「半分の花火」とはなにか?なぜ百合子はそこまで「半分の花火」にこだわるのか―― 。その言葉の「謎」が解けたとき、泉は母の本当の愛を知ることになる――― 。

「百花」公式HP ストーリーより

長くて読みたくない人と、これから観る人は次のポイントだけ押さえてもらえたら嬉しい。

  • 主人公 泉とその母 百合子の過去には重いわだかまりがある

  • 百合子は認知症で記憶をなくし始め、生活にも支障をきたす状態。

  • 百合子と対照的に泉は、過去の記憶を思い出していく

  • 泉と香織のあいだにはもうすぐ子供が生まれる

大体ここをおさえれば観れると思うし、知らなくても観れる。
あとは映画か原作を読んでほしい。

感想文

映画の第1印象

 第1印象は「ちょっと怖いなこの映画」だった
百合子が記憶を忘れていく描写にセリフがないことが怖かった。
この映画は人の記憶についてとても丁寧に描写している。それは認知症の進んだ百合子がスーパーで何度も同じものを手に取ってしまったり、このあと掘り下げるが数十秒前までは流れるように演奏できていた曲が次のシーンでは弾けなくなっていたり、一人の人間がだんだん自分の生きてきた記憶を失って変わっていく様をかなりリアリティをもって描いているので、初見の時は恐ろしく感じた。いつか自分や家族に降りかかるかもしれない光景を目の当たりにしているような、漠然とした怖さがあった。

タイトルシーン〜冒頭

 このシーンでまず引き込まれたのでおぼつかない記憶から書かせてほしい。
 映画が始まり、どんな映像が出てくるのかと構えていると、最初の数十秒はピアノの音が流れるごく普通の家のリビングが写っているだけだった。画面端の机のうえには枯れた黄色い花が一輪添えられている。そこにそっと出現する。「百花」のタイトル。
 そこからカメラが動き違う部屋にいる一人の女性がうつされる。女性はとても美しいピアノを弾くのだが、ふと弾くのをやめてこちらに向かってくるカメラはその女性を追ってまた動き出す。その後の細かい動きは忘れてしまったが、女性が視線を動かしその視線の先を追うと先ほどと全く同じ部屋、同じ女性がピアノを弾いているシーンになる。(家の中を一周してきたような感じ)一つ違うのはその演奏がたどたどしいものになっていることだ。この数秒の間に時間がながれてこの女性、葛西百合子の認知症が進みできていたことができなくなるその光景が映されている。この際セリフは一切ない。役者の演技とカメラワーク、演出でその時間経過を不思議と自然な流れとして観客に見せてくる。

 この映画ではこうしたカメラワークやシーン展開することで過去と現在を行き交っていく。その描写は記憶が混濁し始めた百合子の視点でもあり、母と向き合う中で忘れていた記憶がフラッシュバックする泉の視点でもある。

記憶を辿って描いた絵なんか怖い

①だれもいないリビングと一輪挿しの刺さった黄色い花
(色つけたらうるさくなったのでモノクロにしてしまった)
②カメラは動きピアノのある部屋に移動する。
しかし中には入らない。引いた画でピアノを弾く女性を写している。
③部屋から女性が出てくる。
この後、家事や花を入れ替えようとするのだが中途半端のまま先ほどの部屋に戻っていく。
そしてもう1度、②と同じ画になると先ほどまで弾けていたピアノが弾けなくなっているのだ。



余談
自分で脚本を考える時、どうしてもセリフに頼りたくなるのだが、映像のすごいところは言葉にしなくても伝わるものにあるのだなと改め思った。

ワンシーン・ワンカットを知った

パンフレットを読んでから確かに!と思ったが、この映画はワンカットまでが長い。川村監督いわく、ワンシーン・ワンカットという撮影手法にこだわって撮ったらしい。パンフレットのインタビューがとても腑に落ちたので引用させてもらう。

私たちが生きる現実にはカットがかからないのと同様に、時間は割愛されずに進んでいく。けれども現実を生きる中で、ふとしたきっかけで記憶が蘇ることがある。

「百花」公式パンフレット監督インタビューより

冒頭で言ったようにこの映画は人の記憶の描写をとても大切にしている。
思い出したり、忘れたりその繰り返しをこれでもかと見せてくる。
過ぎた時間が戻ることはないし、どんなに願っても時間は止まることなく流れていくけれどでもその中で私たちは過去を振り返ったり、ふとした瞬間に立ち返ったりしているのだ。振り返っている時は、その場でとまっているようにまたはその時に戻ったような感覚になることはあっても、時間は確実に進んでいる、この当たり前の描写を、カットをかけない、時間を割愛しないことで行っている。だからこの映画にはどこか不思議なリアリティがあるのだと思った。

(言葉にするの難しい!!!映画監督とか脚本をやる人の頭の中なんて宇宙!!それぞれで考えるのが楽しいと思うから観てください!!)

泉と百合子 母と子供

人は記憶を失う=忘れることを繰り返し見せられる
忘れることの恐ろしさと愛しさ

どんなに大切な思い出も、大切な人も、忘れたいこともいつか人はわすれてしまうことを繰り返し見せられる。しかし、だれかが忘れていく一方で誰かが思い出すその繰り返し、言葉で聞けば当たり前のことをこの映画は見せてくる。友達との会話で思い出す学生時代、いつの間にか捻じ曲げていた子供の頃の思い出。その記憶に対しての自分の感情。どこかでまちがえているかもしれない、けれどそれでも記憶はこうして続いていく。
 昨日まで自分の名前を読んでくれていた人が今日になって全てを忘れていたらどう思うだろうか?きっと怒りや悲しみ、困惑、いろんな感情が湧き出てくる。

「半分の花火がみたい」という百合子を花火大会につれていった泉。気づくと一緒に花火を見ていた百合子の姿がない。探し回ってようやく見つけるも「半分の花火がみたい」と子供のように駄々をこねる百合子に泉は思わず声を荒げる。その中で百合子はとうとう泉のことも忘れてわからなくなってしまう。シーンについて

泉は自分を忘れた母に対して「こっちは全部覚えてるのに…」と言う。捨てられた時の悲しみも、愛情を注いで育ててくれた日々も全て覚えているのに、その感情をくれた本人が自分のことを忘れている。目の前の男は息子ではなく、見知らぬ人だと怯えた視線を向けてくる。

菅田将暉演じる息子 泉と、原田美枝子演じる母 百合子の次第に見えてくる微妙な親子関係は見ていてこちらも辛くなる。認知症になった母の世話や生まれてくる子供と嫁を守ること、仕事も。泉の前にはたくさんのすべきことがあり、次第に自分の知る母ではなくなっていく百合子に対して、厳しい言葉や態度をとってしまう。そこには親子ゆえの甘えと、少年時代に百合子が自分を一度捨てて家出をしたことへの消えない怒りがあると思った。
 インタビューの中で川村監督はこの二人の関係はどこまでも対等でフィフティフィフティだといっていた。自分を捨てた母を許せない泉と、家を出たことを後悔していないと告白した百合子の関係について対等だと言ったこの部分がなんとなく印象に残っている。
この映画が優しいファミリー映画だったなら、百合子、あるいは泉のどちらかがごめんなさいと反省して、わだかまりはなくなってめでたしめでたしに持っていくこともあったかもしれない。だが、本作はそれをしない。上手く言えないが、そんなところがこの映画を良いと思った理由でもある。全てを許す必要も、許される義務もないのだ。

見出し回収してないの思い出した。

忘れることの恐ろしさ→
忘れる側
これまで大切にしてきたもの、愛してきた誰かのことを忘れてしまう。
それだけでなく自分が誰なのか、どこにいるのか分からなくなっていく恐ろしさがあると思った。
忘れられる側
目の前にいる大事な人の自分を見る目が変わってしまうこと。
今回は母が子を忘れていく。親の記憶や抱いた感情は良くも悪くも、道端に転がった酔っぱらいよりは多くあるだろう。そんな人物からある日あなた誰?なんて言われたらやりきれない。また、自分を覚えている人が一人いなくなる。これも恐ろしいにちがいない。

忘れることの愛しさ→
私たちはたびたび記憶によって結びつき、記憶によって敵対もする。あの人はこんなことをした、他人への自分の感情は時に人を幸せにしてまた不幸にもする。
愛しいと言う言葉はプラスなものにばかりつかわなくて良いと思う。いつか失うとわかっているから大事にするそんな愛しさがこの映画の描く記憶にはあると思う。
多分!!

余談
 ・実はこの映画は母と観に行った。どう考えても親子でみるにはリアリティがありすぎるのだが、今この隣にいる母が母でなくなった時自分はどうするのだろうと素直に思った。だから冒頭で言ったように恐ろしいと感じただろうか。
 
 ・映画のキーワードでもある「半分の花火」
この意味や意図についてパンフレットに書いてあるのでそちらを見た方がいいかもしれない。自分の言葉で話すのが難しい。
しかし、感想文なのでパンフレットのインタビューを見て思ったことだけ書いておきたい。
→人の記憶はその人間だけで出来ているものではない。
自分の記憶と関わった人たちとの記憶、同じ映画を見ても、同じ場所にいって同じことを体験しても人によって覚えていること、感じたことは違う。
例えば作中では泉は百合子といった釣りの思い出を何を釣ったかその時どう思ったかは覚えていた。しかしどこに釣りに行ったか、釣った魚をどうしたかそれは百合子しか覚えていなかった。泉の中で湖は海になり、釣った魚をどうしたのかは消えている。百合子の記憶があってはじめて完成した思い出になっている。これは幼少期の健忘だけでなく大人になってからも実感することだと思う。記憶は決して一人では完成しない。もう半分を持った誰かが、なにかがいたはずなのだ。

・忘れること
ここまで書いてきて自分への確認も含めていっておきたい。
この映画は決して忘れることを悪いことだと捉えていない。また、覚えていることを美徳ともしていない。そう感じた。忘れることも、覚えていることもどちらも同じくらい悲しくて、きっと幸せなことだ。

百合子と香織 母と母

長澤まさみ演じる泉の妻、香織。このキャラがいて本当によかった。

母とこれから母になる人というのが印象に残っている。母である百合子に対して泉がそっけない態度を取るときに香織が百合子をフォローするのを見て、香織はこの作品の中で唯一百合子に共感?理解どっちで言えば良いのかわからないが公平な人なんだと思った。

泉と百合子どっちに対しても深く聞かないけど、映画の中だとこの人のバランスがとても良いと感じた。見る人によってはそっけなく見えそうだがここで夫の泉、義母の百合子どっちの味方になるわけでもなくずっと中立の立場で態度を通すのがとても映画の中でバランスが良いと思った。

百合子の住む介護施設からの帰りバスの中で話す泉と香織。
百合子が過去に自分を捨てて家出したことを話す泉と、妊娠時の不安や百合子へ母親として同じ女性としてわからなくもないという香織に泉は。

お義母さん、ずっと謝ってるよね。いつまで謝らせるつもり?
過去に幼い泉を置いて家出したこと、シングルマザーで苦労をかけたことを認知症が進んでも百合子は泉に謝り続けていた。その謝罪へ和泉が許す言葉は一度も出てこない。それに対して香織が言った言葉…だったかな?(この言葉は原作にはなく、おそらく映画に追加された言葉だ。)同じ女性としてそしてこれから母になる香織だからこそ出た言葉だと思う。

泉にとっての香織はちょうど良い距離感のパートナーで、そして泉が気づいていないあるいは隠していることに気づきながら自分から突かないそんな人なんだと思った。
百合子にとってはもう序盤から誰か忘れ始めているが、自分の過去の過ちについて後悔してないと告白できる人物だとは捉えていたのではないだろうか。

百合子と香織の二人で介護施設の庭を散歩しているシーン
 演技を見ていて自分に言い聞かせるのではなく、隣にいた香織に対して過去に泉を置いて家出したことを後悔していないと言い切るところの原田さんの演技がすごかった。認知症が進んでいく中で、現代の百合子と過去の百合子が代わる代わる登場する。ここですごいのはそれを全て原田さん一人で演じていることだ。シングルマザーとしての不安を抱えた時、息子を残し恋をした時、最後には全てを忘れて子供のようになった時それらをワンシーンで演じ分けているのがすごかった。それまで幼い泉と遊んでいるような態度をとっていたかと思えば、ふとまっすぐな視線で「でも私、後悔してないわ。」の一言が印象に残っている。

半分の花火

予告編でも本編中にも度々登場する「半分の花火」という言葉。
本当に映画の序盤にぽろっと登場する。その後は終盤近くまで登場しない。
ほぼ登場しないのにも関わらず、この正体が分かって、映画を観終わった後にもらっておいた映画のチラシとか、公式HPとか、ポスターに書いてある「そして、愛が残る。」この言葉が沁みるのだ。記憶を失っていく百合子と対照的に目を背けてきた記憶と向き合った泉に何が残ったのか。親になる泉と香織の手にあるものと同じそれはなんだったのか。これは是非映画見てなんならパンフレットと原作も読んでほしい。

後日談:2回目の視聴までにやったこと

観てから1週間は余韻が冷めなかった。
まだちょっと残っている。そのくらい衝撃的な作品だったということだと思う。
すぐに2回目を観にいく予定を立て実行した。数日空いたのでその間にやった映画にもっと没頭する方法を載せておきたいと思う。

原作小説を読んだ

1回目の視聴を終えて、分からないことが多かったのと面白かったので原作小説を買って読み切った。そんなに長くないのですぐ読めるし映画では描かれなかった部分があったので気になる人が読んでみてほしい。

「エレファント」(ガス・ヴァン・サント)を観る

「エレファント」を観る。これはどこからきたのか。
元々観る予定はあったのだが、他にも観たいタイトルが山積みだったのですぐ観るつもりはなかった。その考えが変わったのはパンフレットのインタビューでスタイリストの伊賀大介さんと何より川村監督が「この映画(エレファント)に影響を受けた」と明言していたからだ。映画のルック、色の使い、全てではないが様々な場面で影響を受けたという。これを読んで、

観るなら今だ!!

その衝動に任せて後日TSUTAYAに駆け込んだ。
意識してみると確かに色の使い方、カメラワーク、ワンシーン・ワンカットの流れこれはやりたい!!参考にたい!!になる!!
ただ、そっくりそのままというわけではなかった。「エレファント」と「百花」では作品として求めたいポイントが違う(当たり前か)。大雑把に言うと「エレファント」ほど観衆にストーリーや映画そのものの視点を任せてはいない。ただそのシーンにおいて今話しているあるいは主観になっている登場人物または物以外を極端にぼかしたり、窓から差し込む光などの光の表現、登場人物の着ている服の色などここ参考にしたのか、なんでだろう?どんな意味があるんだろう?これを考えるのはストーリーを追うのとはまた別の楽しさがあった!
なので興味がある人は是非観てほしい。(もう観てる?最高です。)

終わり

(映画の感想文ちゃんと書くのむずかしい!!
もっと書きたいシーンとか色々あったはずなのに書ききれない!!
そんなもんだ!!)
まだ円盤にもなってないし見返しながら書くというのができないのでどっか間違ってる気もするけど、面白かったことには変わりない。

「エレファント」については違う記事で書こうと思う。
今のところ「はじめてのガス・ヴァン・サント」みたいな感じで「MILK」と一緒に2本立てで初見勢感想を書けたらいいなと思っている。



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