2021/01/22(未明-p.270)


「高橋源一郎の飛ぶ教室」に芥川賞を獲った宇佐見りんさんが出ていて、この番組はradikoのタイムフリーでは聴けなくなってしまうからリアルタイムで聴いたんだけど、正直なにを言っているのかわからなかった。
 カンタンに言ってしまうと「会話の内容のレベルが高すぎて」ってことなんだけど、21歳でそのとんでもなく高い境地に達しているのもよくわからんし、何を食べたらそんなことになる? 今日バスで帰りながら、
「人間そんなに大きく成長できないよ。だから小説を1作2作書いてもダメで、100作書かないと景色が変わらないんじゃないか?」
 みたいなことを考えていて、だから俺は100作書かないといけないという結論だったんだけど、宇佐見りんさんはたぶん俺より、俺と比べるのはおこがましいけど、凡人が100作小説を書いてやっと到達できたところに、もっと少ない数で、もっと早く到達できる。日進月歩、小さい一歩でちょっとづつちょっとづつ進むのではなく、グオングオンと大きな一歩で進んでいく。巨人。

 そもそも積んでるエンジンが全然違う。馬力が全然違って、桁違いとかっていうレベルじゃなく、比べるまでもないぐらいに違う。
「あんなもん見せられてどうしたらいいんだよ……」
 と心が折れそうになる。でも書いていこうとも思ってる。いつ届くかもわからん小説を、端っこで。高橋源一郎が、
「ぼくも精進しますから、一緒にがんばりましょうね」
 と言っていた。そういう仲間がいることはすごくいい。高橋さんは今70歳で、宇佐見りんがこれからどういう小説家になっていくかは見届けられないと言っていた。「70歳になった宇佐見りんがどこに立っているか僕はそれを見れない。」高橋源一郎は見れないけど俺は見れる。から見ようと思う。

 風によって人は正常な心を失う。動物はまさに大気に左右されながら生きている。雨の日やからっと晴れない日がつづくと急にナメクジがたくさん出てくる。
(中略)
 ナメクジはすごくねばねばしたもので体が包まれているから割り箸でナメクジをつまむとその部分にものすごいねばねばが付いて洗って取る気もしないが洗っても取れない。だからもう箸でつまみ取る気にもなれない。猫もナメクジをうっかり踏むとあわてて足をあげる。もっとじくじくした天気がつづくとべっ甲色の蛭(ひる)が出てくる。ぐにゃぐにゃしているから正確な長さはわからないが二十センチか三十センチはるかもしれない。私は蛭の動きは早くないが気持ち悪いから動きの速さをどうこう言えるほどちゃんと見たことがない。そして蛭は翌日晴れて乾燥しているとゆうべ見た場所で干からびて死んでいる。ナメクジは干からびて死ぬようなことはない。湿っているから出てきて、乾燥したら帰らずに死ぬというのはどういうことか。しかしその蛭が地球上でずっと古くから生きている。蛭のような生き方の方が種として長く生きている。強いということなんだろう。(保坂和志『未明の闘争(上)』講談社文庫、pp.265-266)

 宇佐見りんの話とはとくに関係ないけど、今日読んでおもしろかったところ。

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