2021/02/27(未明-p.22)


 14時から、髙橋源一郎と伊藤比呂美の中原中也についての対談があって、申請をすれば無料で見れたのでメールを送ってzoomの部屋のコードとパスワードを入手して見た。

 中学時代の高橋さんにとっては、耳に入りやすくてカッコいいのが詩だった。
 深夜ラジオを明け方5時まで聴いて、その話を友達としながら、途中にいきなり中也の詩を言う遊び(?)が流行ってた。

 伊藤さんは1人で中也と出会う。
 写真を見て「なにこのいい男!」と思って詩集を買った。
 12〜3歳のときに初めて読んだがよく分からなかった。でもいつもポケットに入れていた。
 高田馬場の駅前にエロい銅像があって(今はない)、産婦人科があって、なんか悶々としてて、電車の窓から外を眺めていたら突然「秋」が分かった。それから次々と中也の詩が分かるようになった。
 季節がどんどん巡っていき、一瞬たりともそこに留まっていないことに惹かれた。
 中也は「どこまで行っても落第した劣等生」。

 高橋さんの中学時代の遊びは、友達が詩を言ってきたら違う詩で返す。(なんだその高尚な遊びは!)
 ノギくんが授業中に「ああ家が建つ、家が建つ」と耳元で言った。
「僕の家ではないけれど」に感動する。
 中也から見たらどの家も「僕の家ではないけれど」、そんなことに構わず家はどんどん建てられていく。
 社会にとって有益なことをしている人のことを外から見ているしかない。

『帰郷』「ああ おまえはなにをして来たのだと……」「吹き来る風が私に云(い)う」
 なにかある度に「ああ おまえはなにをして来たのだと……」と自分に言ってみると可笑しくなる。
 そういう意味では中也の詩は「実用的」。
「どっどど どどうど」は嵐の日に言いたくなるけどそれぐらいしかない。実用的ではない。
 早稲田の学生に『サーカス』の英訳をやらせた。面白い英訳もあったが、学生はコロナに対する不安を中也にぶつけていた。

 中也の詩は懐が深い。
 答えが返ってくるようなきがする。
 正解かどうか分からないものが返ってきて、無意識から引っ張ってくる。

『曇天』をときどき読んでる。
 この詩を朗読するにはリズムが大事だからメトロノームをずっと聞いてきた。(伊藤比呂美さんの朗読はラップみたいでめちゃくちゃかっこよかった)

 中也の詩は魂のところまでたどり着いちゃう。

『盲目の秋』のⅱ、
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

 救われる。

 親とか先生に正しいことを言われると僕らは抵抗したくなる。
 中也の詩と同じことを小説では太宰治がしているかもしれない。

「トカトントンゆやーんゆよーんゆやゆよん!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?