蝉 (二)
六日目、ベランダをのぞくと蝉はいなくなっていた。
どうしようかと思った。これでは小説が書けない。どうしようかどうしようか、とずるずる気持ちを引きずったまま机にむかって一時間が経った。
一日は憂鬱でありやくそく、叱責でありときどき逢瀬であり、自分と同じでかさ質量のずだ袋を引きずって、ずーるずーる歩く行為であって、それがわたしのコーヒーの飲めやん癖とどう関係してるんかということはまったく考えたくないなあ。(川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』青土社、p.8)
四日目に書いた話をふくらます案も考えたが気分が進まなかったからやめた。体が「書きたくない」と信号を発している。その信号がどういうもので、どんな作用があったのか分からないのだけど、とにかく書きたくないと言っているから書かない。あと、四日目に書いた話を膨らませようかとか言っているけれど、私の貧困なアイデアでどうにかコントロールできるものではない。ただでさえ無駄な話なのに、これ以上膨らませようがない、あれが私の今の全力で、これ以上言葉を足したら不自然になるし、書いててつまらないから、体が「短い話で終わってもいいから、とにかく今日考えていることをそのまま書きなさい。小賢しいことをしようとするな」と言われたのでそうする。それでもまだぐじぐじ踏ん張って(いつまでやってんだ)打開策が浮かんでくるのを待ってみたけれど、観念した。いつまでもこうして立ち止まっているわけにもいかない、締切は刻一刻と迫っているし、今日だって午後から予定があるから午前中に書き終えないといけない。まずその締切のことを考える。その締切しかない。
観察の対象がいなくなってしまったというのに、この小説をどう進めるというのだ。もう一度ベランダをのぞいてみた、もしかしたら見落としていて、物干し竿の死角に隠れているのかもしれない、そういえば昨晩も雨が降っていたような気がするし、雨水に流されたのかもしれないと、さっきよりも念入りに探してみたが、やっぱりいなかった。
四日目、この小説の冒頭文を書いたあと、家を出て自転車を走らせていた。仕事に向かう最中だったと思う、たしかにその日も暑かった。でも本当に暑かったのはその前日の十日と、前々日の十一日であって、四日目はそれに比べたら暑くなかった。とくに十一日は最高気温を37.5度を記録していた。四日目も同じように太陽もカンカンに照っていたけど、外に立っているだけで頭が焼けてくるような、そこまでの陽ざしではなかったはずだ。今日の天気もそうだ、太陽は元気に出ている、雲ひとつない快晴、どこに行っても太陽につねに睨まれているそんな空、でも湿度が低く、風も絶えずやわらかく吹いているから過ごしやすい。二階の部屋で今書いているけれど、部屋の二つの窓を全開にして、ドアも全開にして、風の通りをよくして、扇風機を一台回しているだけでクーラーも何もない部屋だけれど、十分快適に過ごせる。暑さのためにまったく集中できないなんて事はなくて、汗もほとんどかいていない。快適に執筆できている。
すべて忘れてしまう。たとえばさっきも、今シーズンの最高気温を記録した日は、今日から数えて三日前の十一日だったのに、私の記憶では、ベランダに落ちていた蝉を観察しようと思い立った日の二日後が、私の住んでいるR市の、今シーズンの最高気温を記録した日だと思い込んでいた。だから気分の記憶のまま、「本当に暑かったのはその翌々日の六日目のことだった。四日目も太陽が照っていたが過ごしやすい一日だった。今日も四日目と同じように過ごしやすい。」と書こうとして「あれ? おかしい」と思った。六日目は今日だ。私の記憶のままに書いてしまうと、R市の最高気温を記録した日は今日、ということになってしまう。何遍も書いているように今日は太陽は出ているけれど湿度が低くて、風も気持ちよく吹いていて、部屋の中にいる分には汗もかかない、快適な日なのだ。
そのまま嘘を書こうか、どうせ分かりゃしない、そういうことにしてしまおうか。でもそれで日付の計算が分からなくなって、結局こんがらがってしまうのは私のような気がした。それで調べてみると「二日後」ではなく「二日前」だと分かった。書こうとするときにいちいち全部調べて書いたりはしない。今のこの日付のことに関しては書きながら自分の計算が合わないことに気がつけたから調べたけど、まったく気づけないままスルーしているものもあるはずだ。これは勝手になってしまうもので、どうせわかりゃしない、と書いてしまったけれど、そんな風に初めからだまそうとして書いたわけではない、書き換えられた記憶のまま、記憶に振り回されるように整合性なんかまったく無視するために小説を書いているし、作り替えられることに抵抗するために小説を書いているような気もして、矛盾しているけれど私としてはまったく矛盾していない。
七月中はずっと梅雨だった。日本にも雨季が来るようになったんじゃないかと思うほど長い梅雨だった。しかし八月になった途端に、パキン、と晴れた。それこそ十一日に最高気温を記録した日のように太陽がカンカンに照って、入道雲がぼっこり現れて、蒸し暑い、夏らしい、八月一日の天気だった。
しかし七月は毎日雨が降っていたか? 七月中はずっと梅雨だった、と書き出したおかげで、毎日雨が降っていたような気持ちになっているけれどそんなことはない。記憶が作り替えているというより、こうして言葉に直すときに、どんどん簡略化して、分かりやすい状況にしてしまっている。
ベランダに落ちている蝉の観察をしようと思い立った話を書こうとしたらいつの間にか天気の話になっていた。四日目に、仕事に向かうために自転車に乗っていたら至るところで蝉を見つけて、たかだか蝉の観察の小説を書こうとしただけで、それまで目に付いていなかったものがよく見えるようになるんだなあ、とすこし感動した話を書こうとして、それは四日目ではなく一日目の話だったことを思い出した。
たいていの小説家は長い小説を書くとき、はじめから終わりまでぶっ通しで書くことはなくて、毎日毎日ちょっとずつ書き溜めていったものが長篇になる。村上春樹もそうで、村上春樹は「一日に十枚しか書かない」と書いていた。本当かどうかは分からない。小説家に「その話は本当ですか?」と訊く方が野暮だと思い始めた。本当だからなんだ。でも本当の話(だと思える)のものの方がなぜか読みやすい。だから、小説よりエッセイの方が好きだった。小説家になりたいくせに小説があんまり好きじゃないなんてダメだと、コンプレックスを持っていたけれど、エッセイも小説みたいなもんだし、小説もエッセイみたいなもんだと思えば、多少は読めるようになった。リアリティーがあるとかじゃない。書いてるその人の身体性みたいなものを感じると読める。村上春樹だって「一日十枚しか書かない」と余裕ぶっこいているけれど、実際は飲んだくれて自堕落な生活をしていて、いつも締切に追われていて、でも村上春樹の小説は売れるから金に目がくらんだ編集者が人間で綱引きするみたいに村上春樹を奪い合っていて、レコードがたくさん棚にならんでいる部屋も本当はハウススタジオで、あんなところは本当はなくて、そもそも村上春樹なんて人はいなくて、ほとんど神話のようになった神宮球場で野球を見ていたら「ぼくにも小説が書けるかもしれない」と思って書き始めたというのは真っ赤な嘘で、実際はファールボールが頭に当たって死んだ青年の幻影に尾ひれはひれを付けたのが『風の歌を聴け』だった。
本当は、何百ページにもなる長篇小説を、数日間で、一気に、飲まず食わずで、編集者に睨み付けられながら、ヒーヒー書いているのかも知れない。でもたぶんそんなことはなくて、本に書かれていたとおり、毎日毎日十枚ずつコツコツ書き溜めているんだろうと思う。
小説にいちいちその日の天気の話を書き込んでいる小説家はいない、いなくはないのは知っているけれど、すくなくとも村上春樹はそんなことしない。村上春樹の小説読んだことあったっけ? 書いているその日の天気と書かれている小説の内容はまったく関係のないもので、はじめに疋田先生の論文を引用したけれど、作者は小説の中に登場しないことが善とされている。村上春樹の小説は村上春樹が書いているのに村上春樹が書いている、もしくは語っているものとして読んではいけないことになっている。それは法律ではなくて、教科書にも書かれていなくて、親から子へ代々語り継がれているものではないのだけれどなんとなく共通認識として、無意識の集合体としてみんなもっている「お約束」で、分かりやすく法律になっていれば「小説は自由なものじゃないのか! そんなこと誰が決めたんだ!」と反対しやすいのかもしれないけれど、みんながなんとなく、誰に教えられたわけでもないのに気づいたら持っていた価値観というか認識ほどぶっ壊しにくいものはない。
別に私は、この小説を書いているそのときの天気の話をわざわざ書くことで、そういった価値観に抵抗したいとか、「打倒、村上春樹!」とか、そういうことをスローガンに掲げて小説を書いているわけではなくて、別に村上春樹に恨みがあるわけでもないし、そもそも会ったこともないし、知らないところで勝手に名前を出されてブーブー言われているのもかわいそうというか申し訳ないんだけど、たまたま浮かんじゃったのが村上春樹だっただけで、具体例として挙げるのはだれでもよかったんだけど、小説の中に作者の身体性を感じさせるようなことを書いてはいけませんという価値観に対抗するためにわざわざ天気の話を書いているわけではない。読む人によっては、
「そういう小賢しいことをして他の作家との差別化を図ろうとして、ぼくはちがう人間ですよ、と言いたいのかもしれないけれど、所詮ズブの素人の考えることで、そんなことをしている作家は何年も昔からいて、別に新しいことでもなんでもない。むしろ、自分でこういう書き方を発見したような顔で(実際に私の顔が見える訳ではないだろうけれど)これみよがしに書いていて、こいつは勉強できない恥ずかしい奴だ」
と思う人もいるかもしれないけれどそんなつもりはなくて、ほぼ毎回天気の話からその日の執筆をはじめるのは、その日はじめて誰かに会ったら「おはようございます」と言うのと同じで、とくに初対面の人と会話をしなきゃいけないときは当たり障りのない天気の話を「だいぶ、暖かくなってきましたねえ…」なんてはじめたりするけれど、それと同じことで、アイドリング程度に書いているぐらいの気持ちしかない。村上春樹にもアイドリングをした、小説作品として形にするときには、いの一番に消されてしまうようなアイドリングの文章を書いているのか。もう何年も書いているからそんなもの書く必要がないのか。昨日書いた原稿を読み返して、内容を思い出したら即、書けるのか。さすがプロだ。私は前日書いた小説は読まない上に、朝起きたら日課(カーテンを開ける、伸びをする、トイレに行く、手を洗う、歯を磨く、水を飲む)をおこなったら机に向かって、一息ついてから「さて、書くか…」と、今日の分を書き始めてしまうのでアイドリングがないと書けない。村上春樹は一日十枚だが、私は五枚にしている。五枚ぜんぶアイドリングで終わってしまう日もあるし、いきなり本題を書き始められることもある。一応、日課をしているあいだに「なに書こうっかな~」と多少は考えたりもするけれど、頭の中ではっきりとした文章にして考えているわけでもないし、机に向かったら「あれ? なに書こうとしてたんだっけ?」と忘れてしまうことばかりだから、ほとんど考えていないようなものだ。チョウチョウハッシで書き始めてしまう。丁々発止は音でしか聞いたことがなかったから「チョウチョウハッシャ(発車)」だと思っていて、語感から、体勢が整っていないのにスタートを切ってしまうマヌケな感じの意味だと思っていたけど、辞書で調べたら「盛んにやりあうさま。▽もと、刀などで打ち合う音を表す語。」(岩波国語辞典 第八版)とあってまったく反対の意味だったからカタカナで書いた。
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