2021/02/26(未明-p.22)


 古文と漢文は受験で使うほかに学ぶ理由がないから、必修科目から外した方がいい、選択科目にしたらいい、みたいな意見があって、もっと激しいのになると「不要論」みたいな話になってるけど、これだけ長い間(日本が漢文を使い始めたのがいつからなのか知らないけど)、漢文というか、中国から文字が伝来してから現代まで学ばれつづけているってことは、残ってるだけの理由が、なにか“ある”んだと思う。
 古文じゃないけど、古典文学もそうだ。『源氏物語』が現在も読まれていて、角田光代の現代語訳がつい最近でた。それを入口に読んでいる人が現代にいるってことは、『源氏物語』にもなにかが“ある”んだと思う。

「使い道がないんだから、要らない」
 って意見を聞くと(それは古文・漢文に限らず)、使い方を知らないだけじゃないか、と思う。
 たとえば大学で文系に進むとき、
「将来なんの役に立って立つの?」とか、
「文系は就職の役に立たないからね」とか、
「国語の先生になるの?」
「いや、ならない」
「ほかになれる仕事ある?」
 とかって言われた。親にも言われたし、国語の先生にも言われた。
 山下澄人の『しんせかい』の冒頭を、山下澄人本人が朗読してる動画がYouTubeにあるんだけど、面白い。たしか、
「山下の小説は目で読むよりも、耳で聞いた方が面白い」
 って言ってたのは保坂和志だと思うけど、『しんせかい』のなかで〈天〉が、
「なんやそれ?」
 って言うんだけど、そのイントネーションが面白い。そこを読んでとき山下澄人本人もすこし笑ってるみたいに見えた。
「国語の先生になるの?」「いや、ならない」の会話が『しんせかい』の会話っぽくて思い出した。

 高校のときの僕は、文系に進んで将来なんの役に立つのかわからなかったし、将来の仕事のために文学や文化を学ぶというより、好きなことの延長で大学で文系に進んだようなものだった。そのときはミステリをよく読んでた。
「なんか好きな作家いるの?」
 高校の国語の先生、U先生が訊いてきた。U先生はさっき「文系は就職の役に立たないからね」と言ってきた先生ではなかった。もしかしたらU先生はそういう「文系は役に立たないからね」みたいなステレオタイプに抵抗する先生かもしれない。そのときはミステリを読んでたから、
「伊坂幸太郎とか道尾秀介が好きです」
 と答えた。U先生は、
「文学部はそういうのを勉強するところじゃないんだよ。いままでは趣味で読んでたかもしれないけど、もうそういうのじゃなくなる。「研究」なんだから」
 と言った。そんときは馬鹿にされたみたいで腹が立った。でも部活の顧問だったから何も言わなかった。そのあと森鴎外の『舞姫』のある部分の解釈で教室で1対1の議論みたいになって、勝った。

 古文・漢文も使い道があるはすで、じゃなかったらとっくに無くなっているはずだ。現代まで残ってるってことは、なにか“ある”はずで、それを探しもしないで「要らない」なんて言うのは乱暴じゃないか。
「じゃあ、お前は使い道を知ってるのか?」
 と訊かれたらまだ分からないけど、
「将来なんの役に立つの?」
 と言われつづけた文系は学ぶ意味があったと確信できる。その大人たちは文系を学ぶ意味を考えた上で「将来なんの役に立つの?」と言っていたのかと言えばそんなことはない。出直してこい。

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