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タイギゴ(14)

 おばあちゃんの納骨の日の話の続きを書きます。
 不思議なんですが、もう会えないってことは分かってて、僕があなたと、居酒屋に飲みに行くとか、どっかイベントで会うとか、そんな感じにはもう会えないって頭では分かっているんですが、悲しいとは思えなくて、もちろん悲しいって思わなくてもいいんだけど、生きていたときと今を比べてみても、あんまり変わった感じがしない。それどころか、おじいちゃんおばあちゃんが生きていたときよりもたくさんおじいちゃんおばあちゃんのことを考えていたりして、それは行事が多いってこともあるのかもしれない。初七日とか、月命日とか、納骨とか、納骨はもう二ヶ月も前のことで、今度は七月の中旬に初盆があります。お坊さんを呼んでお経をあげてもらうそうなのですが、月命日ってのが面白くて、誕生日はそうは言いません。
「今日、月誕生日だね。おめでとう」
 とかって風習はなくて、もしかしたら家庭によってはやってるのかもしれないですけど、僕ん家ではまったくありませんでした。でも命日は月命日があって、お墓参りに行ったりします。なので毎月思い出すから、おじいちゃんおばあちゃんが生きていたときよりも思い出す機会が多いからあんまり悲しくないのです。
「OVER THE SUN」というポッドキャストでジェーン・スーが、
「いちばんキツかったのは、最後お棺が閉じられるときで、もう本当に会えなくなるって」
 去年の夏、おじいちゃんを見送ったときはあばあちゃんがいちばん泣いていました。ずっとおじいちゃんのそばを離れないで、お通夜、告別式のときもずっとおじいちゃんのところにいました。おじいちゃんが入院してから亡くなるまでおばあちゃんはおじいちゃんに会えませんでした。最後の二ヶ月間おばあちゃんはおじいちゃんに会えませんでした。普通なら病院に行って面会できたのだろうと思いますが、コロナだったので会えませんでした。一度、おじいちゃんが亡くなる一ヵ月前に病院の出入り口のガラス越しに面会することはできました。それが生前のおじいちゃんを見た最後になってしまいましたが、そのときはおじいちゃんはこちらが話しかけても反応せず、下あごの重さに筋肉が支えきれないのかずっと口が開いていて、まばたきもせず、虚空を見あげていて、こっちが、
「おじいちゃん! おじいちゃん!」
「お父さん! お父さん!」
 と大きな声で呼びかけてもこちらを見ませんでした。僕はあのおじいちゃんの顔が忘れられません。怖かったです。こんな言い方をしたら罰が当たりますが、もうこの世の人ではないというか、孫の僕が祖父に向かってこんなことを思うのは失礼なんですが、もうそんなに頑張らなくていいよ、おじいちゃんはもう十分生きたじゃないか、と神様に訴えたのか、おじいちゃんに訴えたのか分かりませんが、そう思っていました。おばあちゃんは病院の出入り口のガラスにへばり付いて、しがみついて、ちょっとでもおじいちゃんに近づこうとしました。あんなに泣いているおばあちゃんの姿は見たことがありませんでした。呼びかけというより叫んでいました。たぶん、あの年になれば、自分が死ぬことも、夫や妻が死ぬことも受け入れているはずなのですが、それでも受け入れられないというか、それはそのときにならないと僕には分からないと思います。
 おばあちゃんはよくおじいちゃんの顔とか額を撫でていました。二人は本当に仲の良い夫婦でした。認知症の症状の一つでもあるようなのですが、おじいちゃんは最後、すこし攻撃的な性格になりました。自分に気に入らないことがあるとおばあちゃんに当たりました。でもおばあちゃんは「はい、はい」と言って、顔を撫でて笑っていました。ようやくおじいちゃんの顔を撫でられるようになって、おばあちゃんはずっとおじいちゃんのそばにいました。僕は葬儀の場でおばあちゃんがおじいちゃんと対面している様子しか知らなかったのですが、八月二十五日の朝早く、おじいちゃんの入院している病院から電話がかかってきて、父とおばあちゃんが行きました。そのときどんな様子だったのか、僕は父の口から聞くこともなかったのですが、父がそのときんおおばあちゃんの様子を四枚写真に収めていました。写真なので声は聞こえませんが、やっぱりそのときどうだったのかは僕には分かりません。
 僕が知っている限り、おばあちゃんが一番泣いていたのは出棺の直前の、棺の中にお花をたくさん飾っているときだったかもしれません。
「転ぶな。ちゃんと天国へ行けよ」
 と言いました。葬儀場に併設している火葬場にみんなで歩いて行って、告別ホールと名づけられた場所で本当に最後のお別れになるのですが、そのときは一番泣いていたのは父だったような気がします。
 今年の三月におばあちゃんを見送るときは父が一番泣いていて、普段泣かない人ってことでもないんですけど、嗚咽するほど泣いている父の姿は見たことがありませんでした。分からないけれど、自分の母親が亡くなるのと、父親が亡くなるのは違うのかななんて思ったんですが、分からないです。僕はそのときの父に、いずれ見送ることになる両親を見送っている自分の姿を重ねていました。
「転ぶな。ちゃんと天国へ行けよ」
 ってすごくいい言葉だなって思います。
 おじいちゃんは認知症が進行し始めたころ、徘徊をしました。長年のクセで両手をポケットに突っ込んで歩きました。まだ元気で、家族六人で旅行に行ったときなんかも、ずっとポケットに手を突っこんでいるので義理の娘(僕の母)が、
「お父さん、ポケットに手ぇ入れるの危ないよ」
 と言っても直りませんでした。その習慣で徘徊するときもポケットに手を入れていたので、足がもつれて、顔からコンクリートの道路に転倒して、顔にキズを作っていました。骨は丈夫で折れたりはしませんでした。骨壺にお骨を収めるときも穏防さんが、
「立派なお骨ですね」
 と言った。警察や病院のお世話になって家に帰ってくるとおばあちゃんに叱られました。おじいちゃんがすこししょぼんとして居間のこたつのところに座っています。おばあちゃんはタオルでおじいちゃんの体を拭くなどしてやって、最後に、
「ったく!」
 と言って、額をペチン! と叩きました。
「ごめんね。ありがとうね」
 と僕たちに言いました。

 自分の罪悪感に触れたくないから書きたくないのかもしれないのですが、次に書くのは祖母の納骨が終わって、家族四人そろったから昼ご飯でも食べに行こう、と、うなぎをみんなで食べに行った話を書こう、と頭では思っているのですが、昨日から書こうとしているけれどなかなか重い腰が上がらず、昨日の夜にヨコイジュウさんという方がTwitterに新しい絵を投稿しているのを見て、みんなどんどん作っているんだから、お前も言い訳してないでさっさと書け、と今日は自分に言いきかせて書き始めてみました。
 じっさいに書き出してみると大したことじゃないと思っているんですが、前置きが長くなるとどんどん重たくなってしまうのでさっさと言った方がいいですね。大した話じゃないです。うなぎを四人で食べに行ったんです。僕の住んでいる町ではけっこう有名なうなぎやさんらしくて、こんな風情のあるお店には来たことがありませんでした。うなぎは何度か食べたことはあったけれど、親がスーパーで買ってくるうなぎをレンジで温めて食べていました。でもそのうなぎもものすごく美味しいのです。うなぎって美味しいですよね。小さい頃穴子が好きではなくて(今は大好きです)、穴子と似ているからうなぎも美味しくなさそう、と食わず嫌いをしていたのですが、初めて食べたら美味しくて、穴子も試しに食べてみたら美味しくて、それから大好きになりました。うなぎは毎日食べたいのですが、スーパーのうなぎも一六〇〇円ぐらいします。なかなか頻繁に買えるものではありません。それで納骨のあとのうなぎ屋さんも両親が払ってくれたので食べられたのですが、そのときうな重を初めて食べました。四角いお重に入っていて、上にうなぎが三切れ、三切れってことは三匹でしょうか?(豪華!) パカッと蓋を両手で開けたときには、憧れのうな重(うな丼よりやっぱりうな重だと思います)を目の前にして興奮しました。その前にも白焼き、うざく、う巻き、どれもそのとき初めてこんな料理があるのかと知って、初めて食べました。どれも美味しくて、それでいよいような重が四人分到着して、料理でテーブルの上がいっぱいいっぱいになっているのを、みんなでどう上手く置こうかってお重持ったり、白焼きの長方形のお皿を持ったり、この小鉢を下げてもらって、焼酎のグラスをメニューの方に避難させて、とかって試行錯誤している瞬間が幸せな瞬間で、黒柳徹子が永六輔のお葬式のスピーチで、
「永さんと渥美さんと私たち何人かで中華を食べに行ったときエビチリが運ばれてきて、私がサッとエビの数を数えて、『一人三つ!』って言ったときに渥美さんが、『そんな風に数えなくてもいいように、みんな食べたいだけ食べられるように売れるよ』と言ったら永さんが、
『なに言ってるんだよ。今が一番幸せなんじゃないか。おじいさんになって食欲がなくなって、目の前にご馳走がたくさんあるのに食べられない方がよっぽど不幸じゃないか。それよりも「一人三つ!」とか言っている方が幸せじゃないか』っておっしゃったんです」
 おばあちゃんと最後にみんなで一緒に食事をしたのはお正月のおせちでした。その後にももしかしたらみんなで食べたかもしれないけれど憶えていないし、たぶんみんなで食べる機会はなかったと思うので、お正月が最後でした。その前のお正月まではおじいちゃんもいたので六人でしたが、昨年夏におじいちゃんは亡くなったので、おじいちゃんの遺影を置いて食べました。おじいちゃんは晩年、おはぎ(おじいちゃんとおばあちゃんは「ぼた餅」と呼んでいました)を好んで食べていたので遺影の前におはぎを置きました。もしかしたらおばあちゃんは遺影を見てさみしく思うんじゃないか、と思ったりもしたのですが大丈夫でした。僕が見ている限りは大丈夫そうでした。みんなでご飯を食べましたが、なんとなくおばあちゃんは、蚊帳の外、というわけではないけれど、五人みんなでわいわい食べるというより、私たち四人の食事に同席している感じと言ったらいいのでしょうか、何というか、そんな感じで、僕はおばあちゃんに疎外感を与えているんじゃないか、と途中から思うようになりました。
 三、四〇分食事をした後、おばあちゃんは、「眠いから寝る」と言って、自分の部屋に帰っていきました。今思うと、おばあちゃんは癌だったのですが、椅子に座っているだけでもしんどかったんじゃないかと思います。寝ている姿勢が一番マシで、おばあちゃんは最後ずっと寝ていました。本人は「痛くはない」と言っていたので激痛に耐えて寝ているというわけではなかったのかもしれませんが、ずっと寝ていました。
 おばあちゃんはよく、
「みんなでご飯を食べに行こう」
 と言っていました。僕たちは体力的に無理だと判断して連れて行かなかったのです。食欲ももうあまりありませんでしたから、どこかに連れて行っても食べ切れないし、もったいないとも思っていました。でもそんなことどうでもよかったです。残そうがなんだろうが、とにかくみんなでご飯に行くことが大事だったんじゃないか。正直に書きます、面倒くさいと思っていたのです。なのでいろいろ言い訳をして、行かないよう行かないようにしていたのです。
 おじいちゃんの納骨が秋口ぐらいにありました。納骨を終えて帰ってくるとおばあちゃんは、
「みんなでご飯を食べに行こう」
 と言いました。でも僕たちはそれを断りました。スーパーで買ってきた惣菜を食卓に並べて、
「これを食べて」
 と言って帰りました。妹は仕事の関係で地元から離れています。だから家族四人久しぶりにそろったのです。僕たちの自宅に帰ってきて、
「お昼どうしようか」
 みんなでどっかに食べに行こう、ということです。
「焼肉? 寿司? イタリアン? ステーキ?」
 いつもだいたい四人揃ったときは焼肉に行っていましたから、その日も焼肉に行きました。昼でしたが父と妹はビールを注文しました。私はハイボールを注文しました。母は運転でノンアルコールビールを注文しました。みんなで乾杯しました。お疲れさまでした、と父の労をねぎらいました。肉が届いて、みんなで食べました。わいわい騒ぎながら食べました。
 そのときおばあちゃんは一人でスーパーの惣菜を食べていたのです。
 今になって申し訳なかったと思ってもしょうがない。
 死ぬってどういうことなのか、と考えても、問いが大きすぎて分かりません。しかも僕はまだ死んでいない。たぶん。というか一応世間的にも生きているということになっているので、なんでこんな回りくどい言い方をわざわざしたのかというと、自分で「生きている」の定義が分からなかったからです。心臓が動いているから生きているってことなんでしょうか。でも心臓が動いていたって死んでいるのと変わらない、と自分で思う人もいると思います。僕の好きな言葉で、
「死にたいときは生きろとは言わん。生きているフリをしろ」
 ってのがあります。誰の言葉なのかは分からないんですが、そんなことは重要じゃないし、たぶん有名な言葉なので検索したら誰がどの作品で言ったセリフ(たしかセリフだったと思います)かがすぐ分かると思うのですが、検索したら正解に当たってしまうので検索しません。たとえば何かについて書くときも僕はあんまり検索しないで、だいたいで書いてしまいます。それが対象の物を悪く言うような場合には、何も分かっていないのに悪く言うのは失礼だって気持ちはあるので調べたりするのですが、でも考えてみても、どこまで何を知っていたらそれを知っていることになるのか、それについて発言していい資格がもらえるのか分からないので、結局調べても調べなくても同じなんじゃないか、って気持ちが、こんなことはあまりおおっぴらには言えないのですが根っこのところではそう思っています。あと考えていることは今日と明日では変わってしまうし、山下澄人と今野祐一郎がYouTubeで対談を日曜日にやっているのを聴いていて、そこで山下さんが、発言の整合性を求めるみたいな仕事は、
「裁判所に任せておけ。そういう仕事をするために裁判所はあるんだろ」
 と言っていた。文章でも、そういうのは論文に任せておけばいいんじゃないかな。俺は今すごく極端なことを書いているのは自分でもよく分かっていて、極端なことを書いたり言ったりしている人のことは信用しない方がいい。だからといってなんでもかんでも書いていいなんてことはないってことは分かっているつもりで、「表現の自由」とはよく言うけれど、表現の自由ってあるようでないもののような気がするし、たとえば「自由に書いてください」と言われても自分は自分の言葉ででしか書けないし、その言葉も今までに習ってきた、吸収してきた言葉ででしか書けないし、俺のまったく知らない言葉とか興味がない事柄って俺の文章には出てこない(知らないから出てきようがない)から、「自由に書いてください」と言われても自分の身体性みたいなものがある時点で「自由」ではないし、最初の一文を書き始めたらもうその一文に縛られるというか、本当の意味で錯乱している(「本当の意味」の意味も分からないけど)文章は書けない、ずうっとレールの上を走っているって感じがする。行く先は決まっているというより、そのレールの上しか走れない。その道しかない、というか、そういう文章しか書けない。それは生きるってことももしかしたら同じで、
「真実なんてもんはとっくのとうに
 知っていること知らないだけでしょう」
 じゃないけど、行く先が決まっていたというより、行ける道が決まっていたから必然的に行き先も決まっていたんじゃないか。
 でも、じゃあ、どう頑張ってもどうにもならないんだから頑張らなくてもいい、ってことではなくて、その時々、すこしでもマシな方を選びたい。それはアリストテレスが『ニコマコス倫理学』で言っているらしい。まだ「100分de名著」で観ただけだからなんとも言えないけど、だからこれもそうで、本を全部最後まで読んだからと言ってそれは『ニコマコス倫理学』について発言していいって資格になるのか。そもそも誰から与えられる資格なのか。結局自分で自分に与えているだけなんだから、そんな信用ならない賞状いらないじゃないか。

 じゃあ死ぬじゃなくて生きるってことについてなら考えられるかなと思っても、やっぱり生きるってことも問いが大きすぎて分からない。「なんで生きてるんだろう」「なんで生まれてきたんだろう」は問いが大きすぎるから、問いを因数分解しないといけない。大きいから考えなくていい、というわけではない。答えはないんだけど考えなきゃいけない問題で、でもどうせ答えはないから、「こういうことなんじゃないか?」って仮説を立てていくことしかできなくて、仮説だから、誰かに「それ間違ってるよ」とか言われる筋合いはない。その人がそう思えればそれでいいんだから、そういう問題を考えるのは楽しい。
 生きるってなんだろうって考えてみると、その前に死ぬってなんだろう、って話に戻っちゃって、蛇行している。死ぬって何だろうって考えてみると、日常生活の中で死に近いものは「睡眠」で、寝ているあいだはまったく意識がない。記憶は忘れたり思い出したりするけれど、忘れるのは、本当に頭の中から情報が消去されてしまったわけではなくて、脳みそは今まで見てきた、聞いてきた、触ってきた、とにかく五感から入ってきたすべての、今まで触れてきた世界のすべての情報は頭の中にちゃんとあって、それは思い出せないだけで、全部知っている、憶えているらしくて、言葉を知る前の赤ちゃんのときの記憶はどうなっているのかは分からないけれど、とにかく全部憶えているらしい、って話は聞いたことがある。だから憶えていないことでも、俺は消去されてしまったのではなくて、思い出せない、頭の中から外に出すことができないだけらしいんだけど、寝ているときの記憶というのはそういうレベルではなく、無い。昨日も私は寝ていたけれど、そのときの記憶は、憶えていないとかじゃなく、「無い」。
 だから、たとえば現世が苦しくて自らそういう選択をしたとしても、楽になれるかどうかは分からない。今日イヤなことがあって、「もう寝ちゃおう!」って寝ればその苦しみからは寝ている間は開放されるときもあるけれど、かならずいい夢が見られるわけではなくて、悪夢にうなされる場合もある。私はまだ死んだことはないのであくまでも仮説でしかないけれど、解放されるつもりであの世に行ったらもっとエラい目に遭うかもしれない。天国とも限らない。山下澄人がTwitterで就活生の質問に答えていて(これは日記に書いたけれど、大切なことなので何度も書く)、
「人生はあなた(質問者)の言うとおり生き地獄ですが、その中で小さな天国を見つけるしかない。でも天国は天国で退屈なので、小さな地獄を探している」
 と言っていて、みうらじゅんが「人生は修行である」って言っているのとかも一緒に考えると、修行なしにあっちの世界に行ってしまったら、エラい目に遭うんじゃないかって思うんです。年齢を重ねていくとだんだん余裕が出てくるのは、むこうに行ったときに余裕を持てるようにする修行で、現世で余裕を持てれば川のほとりでちょっと一服ぐらいできるだろうし、「天国にメガネ持っていけないんですよ!」って門番に言われても動じない。もちろん向こうに行ったら全部忘れてて、リセットされてて、現世に生まれてくるときもリセットされているから、リセットされてしまうのかもしれないけれど、多少は武器を買い込んでから向こうに行きたい。パンツ一丁で地獄はキツい。
 そんなことを昨日書いていたら友だちもTwitterにそんなようなことを書いていた。同じような意見ってわけではないんですけど、「死ぬってなんなんだろうね」って話をTwitterに書いていました。私は、「私は」ってまた自分のことばかり書いているのがイヤなんですが、それは今のうちだけのような気がするので、本当な書きたくないんだけど、書くことでどんどん自分の色を薄めていきたいというか、透明になりたい。いなくなりたい。自分のことを書かなくてもいいようになりたい。自分のことを書いているのはやっぱり自分が一番かわいいからなんだけど、自分研究の一環でもあるので自分のことはたくさん書いてもいいんだけど、できたら書かないのがいちばんかっこいい。爆笑問題が「なんで政治をネタにしているんですか?」って情熱大陸のインタビューで、
「ビートたけしがやらなかったことだから」
 と答えていて、
「本当は政治について語らない方がかっこいいんです。でもしょうがないよね」
 って答えているんだけど、そんな感じ。でもしょうがないんですよね。横尾忠則は、
「日記に自分のことをどんどん書いていけば自分がなくなっていく」
 って書いてたし、それを目指して書いていく。自分で自分が消そうとしても消えないくらい強烈な個性を持っている人間だ、って思っているわけではなくて、たしかに日記書いてて「いいこと言うな~」って自分で自分に思うこともあるけれど、俺の個性なんて大したことじゃない。今日、オルタナ旧市街『一般』に収録されている「バス停、顔たち」という散文を読んで、これはすごいって思った。こんなの書けない。同じ土俵に立ったらみっともない。「ここはお前の来る場所じゃない」って弾き飛ばされた感じがしました。また別のところを探す。で、また蹴飛ばされる。その繰り返しで、そのうち自分の居場所ではないけれど、そういう場所が見つかればいいな、と思っているんです。
 別に死に惹かれているわけではないんですが、仕事中に、厳密には自分の机から離れてトイレに行っているとき、ちょっと前まではほぼ毎日のように死にたいと思っていたけれど、今は死にたいとは思わなくなった。そう断言すると「いやいや、それは違うんじゃない?」と思うのですが、死にたいよりも、今日死ぬかもしれない、明日死ぬかもしれない、と考えることの方が多くなりました。だから会いたい人には会いたいし、やりたいことはできる限りやっておきたい。そのどれも大したことではない、大きな事を成したいってものではなくて、日常の、ほんとに些細な、食べたいものが食べたいとか、見たいものを見たいとか、読みたいものを読みたいとかその程度のことなんだけれど、木曜日は半年前まで吉増剛造のYouTubeが更新されていたので、あんとなくそういうことを考えている、「そういうこと」ってなんなのかよく分かっていないのですが、でも仕事始めに今日の日付を書くのですが、そのたびに、毎週木曜日は「キンタフェーラ」、木曜日はポルトガル語で「Quinta feira」と言うらしいので、今日の日付、2022年6月16日(木)の(木)と書くときに、キンタフェーラ、と毎週思っています。

(次回につづく)

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