2021/01/30(未明-p.345)


 遠藤周作の『悲しみの歌』が好きで、この小説の中にも末期のガンの痛みに苦しむ患者が、勝呂という医者に、
「殺してくれ」
 と訴える場面が何度も出てきて、勝呂はこの患者の痛みがわかるからラクにしてやりたいと思うんだけど、でも「自分のおじいちゃんは恢復する」と信じて勝呂を信じている、患者の孫娘のことを考えるとそんなことはできないって葛藤する場面が何度も出てくる。勝呂も患者が治るならもちろん治すための努力をするだろうけれど治らないことは分かっている。モルヒネで痛みを一時的に取るしかない。助からない。だったら早くラクしてやりたい。
 僕は医者ではないので、こんな状況に自分が置かれたことはないし、よく本の感想で言ってしまう、
「考えさせられる小説でした」
 みたいなことは言いたくないけど、でも『未明の闘争』のこのチャーちゃんが死に向かって行っている場面と一緒に考えるとすこしは分かるというか、延命治療とは言えあの小さな体にこんなにたくさんの注射を打ってしまってかわいそうだとか、そもそも延命したのってチャーちゃんのためだったの? 自分がチャーちゃんとお別れするのが怖くて、自分のためにこんなに注射を打たせてしまったんじゃないかとか考えると苦しいし、じゃあ今度は現実の僕の身近な人がそうなったときに自分はどうするのかって考えると、わからない。

「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側に主体を置くかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。(保坂和志『ハレルヤ』、「生きる歓び」新潮社、p.155)

 なんとなく言っていることは分かるような気がする。コロナのことで言えば、僕はもともと家にいて本を読んだり文章を書いたり、ずっと家にいても苦じゃないインドア派だから「ステイホームで、自粛をお願いします」と言われても大丈夫だし、むしろ、「コロナのせいでどこにも行けないからさ!」ってことを言い訳にして堂々と家にいて自分の好きなことをしていられるけれど、看護師の母にとっては緊張がまったく抜けない一年間だったし、それは仕事面でも自分の身体の面でも、本当にピリピリした一年だったと思うし、コロナがなんとかなるまではずっとこんな状態だと思う。だから、
「この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側に主体を置くかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、」
 と言われて、コロナに関しては、テレワークが増えてよかったと言っている人もいれば、とてもそうとは思えない人もいるからたしかに「簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えない」けれど、でも文章は「そうではなくて、」とつづく。母は去年一年間、行きたかったコンサートにもミュージカルにも旅行にも行けず、コロナと隣り合わせの状態で仕事をしていて、でも「「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ」。分かるような気がするけれどでもやっぱり分からない。

 そこが世界の不思議というか謎というか、言葉による理解の及ばない層(または相)だ。そしてもしも本当に鈍感ゆえに天敵から捕まらずに老衰死するまで生きたウサギがいたとして、それは天寿をまっとうしたとは言わない、それは間違いない、そのウサギは何物とも触れることなく何事とも触れることなく、つまりどんな世界もそのウサギには開示されず、死がくるまで動いただけだ、それを生きたとは言わない。(保坂和志『読書実録』河出書房新社、p.113)

 ふたつともこの文章には印をつけているけど、未だにどう考えたらいいのかよく分からない。保坂和志の言葉だけを頼りに考えるのはむずかしい。スクラップアンドビルドじゃないけど、どう自分なりの言葉に考え直していったらいいのかまだよく分からない。

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