2020/12/30(未明-p.104)


 保坂和志の文章はおもしろいところは夢中になって、我を忘れて、文章と自分の距離がゼロにちかい状態になって文章に没入するが、どうでもいいときはどうでもいい。飛ばしてしまう。

 それで、いよいよ保坂和志だ、と思い、保坂和志を読むのにこの身体ではお行儀がよすぎるなと思われ、ソファ席に移動させてもらい、靴を脱ぎあぐらをかいたり、体を横たえて足を投げだしたりしながら『読書実録』を読んだ。コーヒーとチーズケーキもいただきつつ、しかし食べたり飲んだりするタイミングが難しくなるくらいぐ、ぐ、ぐ、と読んでいって、レリスがあいかわらず好きだなあ、しかし読む側としては少しかったるいなあと思ったりして、最後の章なんかはもうずっと喜んでいた。(柿内正午『プルーストを読む生活』H.A.B、p.618)

 きのう初めて『未明の闘争』から引用した。

 引用の度に「保坂和志『未明の闘争(上)』講談社文庫、p.??」と書くのは、面倒くさがってはいけないのだけれどメンドウクサイので、なにか適当な書き方をしようと思った。
 まったく違う本からの引用ならきちんと、著者名、題名、出版社名、ページ番号を書かなければいけないが、『未明の闘争』は毎日、日付の横に「未明-p.??」と書いているので、わざわざ書かなくてもいいんじゃないか? むしろいちいち書いたらちょっとうっとおしいのではないか? そうだ!そうだ! と思った。

 参考に、『プルーストを読む生活』では『失われた時を求めて』から引用するときどうしているのか、と思って調べてみたら、省略なんかしないで、きちんと、毎回、著者名から出版社名まですべて書いていた。
「へ~い……」
 お手本にしている本がそうしているのだからしょうがない。毎回きちんと書くことにする。

 話を戻して、柿内さんが言うとおり、俺も、基本的には『読書実録』は没入して夢中になって読んだが、柿内さんとまったく同じで、レリスについて書かれているところは、かったるいというか、私は退屈して、退屈とは違うか、……意味がわからなくて、つまらなくなって未だに読んでない。

〔夢と芸術と現実〕の3分の1ぐらいまでは文章に印を付けたりしながら読んでいるから、それなりに理解しながら「ふむ、ふむ」と読んでいたんだろうけど、レリスの『ゲームの規則』の書き写しが始まったところでわけが分からなくなった。
 そもそも書かれている内容も何だか私にはよくわからなかったのに、吉増剛造のマネで、ひらがなをカタカナに変換して書いているから、文章そのものが純粋に読みづらくて投げだした

 そのあとは書き写しではない「地の文」まで飛んでそこから読み始めた。3ページほど読み進めると、また、ひらがなをカタカナに変換した『ゲームの規則』の書き写しが始まったので飛ばした。
 4ページほど飛んでそこからまた「地の文」を読み始めたが、もうなんだかよく分からなくなっていて、それでも書き写しは飛ばしつつなんとか、昔の私は読み進めている。

 ところどころに印を付けているから、書かれている文章の意味をある程度わかった上で「なるほど」と思ったから印を付けているんだろうし、145ページの「小説的文章というのはつながっていなくてもそう書いてあれば(作者がそう書いてしまえば)とりあえずつながる、これは大事なことだ。」には赤いペンで線を引っぱっている。

 でもそのあとは印が付いていなくて、147ページを最後に、その後は読まれていない。

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