2021/05/13(ガープ-p.24)


 仕事にむかう車内で「佐久間宣行のオールナイトニッポン0」、ジェーン・スーゲスト回を聴いた。『生きるとか死ぬとか父親とか』の話になったんだけど、
「あれはエッセイだから、今のスーさんが書いているから達観してるから、成長がない。
 だからエッセイはドラマにしづらかった」
 と言ってて、昨日小説とエッセイの違いはなんだろう、もしかしたら時間が流れているかどうかだろうか? と書いたけれどアナガチ間違っていないかもしれない。「ストーリーはキライだ」と言っていた保坂和志の『カンバセイション・ピース』にどうしてストーリーを感じるかと言えば、そこに時間が流れているからで、論文には時間の流れは感じない。
『カンバセイション・ピース』は、noteで検索するといろんな人が、
「面白い小説」とか、
「保坂和志の小説のなかでいちばん好きな小説」とかいろんなことを言っていて、べつにそれで期待値が上がってつまんなかったらどうしよう……とか思っているわけではないけれど、どうせ何度も読むにちがいないからって理由で、野球について語っていたり、主人公が球場に出向いて観戦しているところばっかり読んでいて、あとのところは、面白ければ読むけど「あんまりだな……」と思ったところがドンドン飛ばして読んでいるんだけど、『カンバセイション・ピース』にストーリーを感じるところはまさに、主人公が球場で観戦している場面で、あそこには時間の流れがある。じゃあ時間の流れがないところ、主人公の内面の吐露というか、ひとりでブツブツ自問自答しているようなところはつまんないかというとそんなことはなくてめちゃくちゃ面白い。でもどうだろう。自問自答しているような場面、ああいう場面はなんて言うのか分からないから「自問自答」と言うしかないんだけど、ああいう場面でも時間の流れを感じるのはどうしてだろう。作者(保坂)がそのつど考えているからか? 事前に決まったプロットをなぞるように書いているのではなく、その瞬間考えていることを書いているから時間の流れを感じるのか? でも、保坂和志と俺を比べるのはおこがましい(何がおこがましいのかよく分かっていないくせに「おこがましい」なんて書いている。「おこがましい」と書いておけば問題ないだろう、ぐらいの気持ちしかない)けれど、俺が『蝉』でそれと似たようなことをやってもああはならない。保坂和志ほど鮮やかにできない。(「鮮やか」ってなに?)その瞬間の思考の流れをそのまま書けば勝手にああいう小説になる、なんて安易な結論はダメで、そんな結論で書かれた小説はつまらない。俺は早く、偉そうぶってるアマチュア作家から抜け出したい。アマチュアでも真摯に文章を書いている人もたくさん知っているけど、頭でっかちなアマチュア作家にはなりたくない。でも、岸波龍も書いてたけど、アマチュア作家の小説は読もうとは思わない。でも「プロ」の作家の小説は読もうと思う。その違いは何だ。「プロ」と「アマ」ってどこで線引きされている? 有名な出版社から本が出版されてる。その人のWikipediaがある。そういうところだ。

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