2021/02/05(未明-p.12)


『推し、燃ゆ』を読んでいるから『未明の闘争』はまったく読んでない。『推し、燃ゆ』は、今読まなきゃいつ読むんだ! と思った。今が旬だから今読まないと、あとで読んでもしょうがない。僕個人のことだから、読みたい人は好きなときに読んだらいい。

 アイドルとのかかわり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、ファン同士の交流が好きな人。
 あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。(宇佐見りん『推し、燃ゆ』河出書房新社、p.17-18)

 沢田研二の人気が大絶頂を迎えているとき、
「沢田研二がお父さんだったらいいなぁ、とか考えてたよ」
 と、これはネプチューンの原田泰造が言っていたような気がしてるんだけど、本当に原田泰造が言っていたか分からなくて、「誰だっけ? 誰だっけ?」としばらく考えていたら、放送作家の高須光聖だったと思いだした。松本人志とのラジオ「放送室」で話してた。
 多くの人が好きな有名人にはこういう感情を抱くのかもしれない。と考えてみたけれどやっぱり俺は自分の好きな有名人がお母さんやお父さんであったらいいな、とは思わない。俺は椎名林檎のファンだけど、「椎名林檎がお母さんだったらいいな」とは思わない。ただライブに行きたい、テレビに出ると聞けば見たいし、西加奈子風に言えば「目撃したい」。
 でもみうらじゅんはそうじゃなくて、沢田研二の人気が絶頂のとき、たしか『太陽を盗んだ男』の話をいとうせいこうとラジオでしていたときだったと思うけれど、
「俺は、沢田研二本人になりたかった!」
 と言ってて、いとうせいこうが「みうらさんはそこが変だよね」みたいなことを言っていた。
 でも戦隊モノとか仮面ライダーを見ているときの気持ちはどうだろう。さすがに今は『魔進戦隊キラメイジャー』をみて、「俺もキラメイジャーになりたい!」とは思わないけれど、でも子どもは「キラメイジャーになりたい!」と心の底から思うんじゃないか? 新しいヒーローの放送が始まった月の「てれびくん」は、なりきりセットが付録としてつく。変身するおもちゃを親に買ってもらって、「へんしん!」と決める。テレビの中のホンモノは変身しているけれど、テレビの前にいる子どもたちは本当に変身しているわけじゃない。太郎くんは太郎くんのまま。変身前も変身後も同じ姿のままだけれど、頭の中では変身していて、一緒になって戦う。
 みうらじゅんはボブ・ディランになりたくて髪を伸ばし始めた。でもあるとき鏡を見て、
「ああ、俺の顔は日本人の顔だからボブ・ディランにはなれないや」
 と悟った。いとうせいこうはその話を聞いて笑っていたし、俺も「そんなの当たり前じゃん」と思って笑ったけど、本人そのものになりたいっていうファンの気持ちはべつに変じゃない。

推しの世界に触れると見えるものも変わる。あたしは窓に映るあたしの、暗いあたたかそうな口のなかにかわいた舌がいるのを見て音もなく歌詞を口ずさむ。こうすると耳から流れる推しの声があたしの唇から漏れでているような気分になる。あたしの声に推しの声が重なる、あたしの眼に推しの眼が重なる。(p.32)

『推し、燃ゆ』の主人公〈あかり〉は「推し」になりたい/一体化したいのか? それともただ同じ世界を見たいだけなのか。この2つの疑問が違うことを言っているのかどうかもよく分からない。「同じ世界を見たいってことは、推しと一体化したいってことじゃないか?」とも思う。推しを推して、もしくは、推しと同じ世界を見てあかりはどうなりたいのか? と思ってしまうけれどそれは愚問だ。推しを推すってこと自体が目的なんだから、その先に目的はない。そう考えてたらちゃんと書いてあった。

 愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから、顔、踊り、歌、口調、性格、身のこなし、推しにまつわる諸々が好きになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、着ている袈裟の糸のほつれまでいとおしくなってくる。そういうもんだと思う。(p.29)

 でもあんまり主人公には「我を忘れる」みたいな瞬間はないように見える。

 今回の件は例外だった。知る限り、推しは穏やかな人ではない。自分の聖域を持ち、踏み入られると苛立つ。それでも湧き上がった感情を眼のなかに押しとどめて、実際には見苦しい真似はしない。我を忘れることはないし、できない。他人とは一定の距離をとると公言する推しが、どれほど気に障ることを言われたところで、ファンを殴ったりするとは思えなかった。(pp.22-23)

 もしかしたら、この場面は推しの性格について書いていると思っていたけれど、あかり自身のことを言っているのかもしれない。あかりは「自分の聖域を持ち、踏み入られると苛立つ」。あかりは「我を忘れることはないし、できない」。でも推しが事務所からでてきて、報道陣に囲まれている映像を見ているといつの間にか汗をかいていて、「口ぐちに暑いと漏らす教室の誰よりもシャツの内側に熱気が溜まっている」(p.23)と感じる。

一度メンバーのミナ姉がふざけて推しのアカウントで呟いたときにも〈なんかいつもと違いますか? 真幸くんぽくない……〉とリプライを送り、ミナ姉に〈お、正解。真似たつもりだったんだけどな笑〉と返事をもらった。彼らから反応をもらえるのはごく稀なことだった。今思えばあたしが真幸くんの「ガチ勢」として有名になったのもあれがきっかけだったかもしれない。(p.22)

 我を忘れないのは、ブログを通じて知り合っている他のファンのなかでもあたしはちょっと有名人、みたいなアイデンティティーがあるように見えるからかもしれないし、今のところは「推しは推し」「あたしはあたし」みたいな区別が付いているように見える。だからみうらじゅんや、ヒーローを見ている子どもたちのような、本人そのものになりたいという推し方ではないのかもしれない。ただそう見えるのはブログの中のあかりであって、ファンの集まりの中では多少影響力のある、〈ブログを書いているあかり〉は推しとの距離というか区別があるように見えるけれど、自分を「あたし」と呼んでいる内面の部分では本人そのものになりたがっているように見える。
 

 まだ何とも言えない。何度もSNS上で見かけた大多数のファンと同じことを思う。怒ればいいのか、庇えばいいのか、あるいは感情的な人々を眺めて嘆いていればいいのかわからない。ただ、わからないになりに、それが鳩尾(みぞおち)を圧迫する感覚は鮮やかに把握できた。これからも推し続けることだけが決まっていた。(p.23)

「まだ何とも言えない。」と言うときの相手は自分自身なのか、それともブログやSNSを見ている人々なのか。僕は後者だと思う。あかり自身この事件をどう受けとめたらいいのか分からないという意味での「まだ何とも言えない。」ではなく、ファンの中で「ガチ勢」として有名な「わたし」としてどう振る舞ったらいいのかまだ分からないという意味の「まだ何とも言えない。」だと思う。
 ただ、「これからも推し続けることだけ」は決まっている。べつに、本当は我を忘れて怒り狂いたいのに「ガチ勢」として有名だからそうできない、とあかりは思っていると解釈したわけではなくて、我を忘れて怒り狂うということは、もしそうなったら推しを嫌いになるしかない。嫌いになったら推せない。推し活を辞めるしかない。でも推しを推すってこと自体が目的だから、どんな不祥事を起こそうが推しを推しつづけることには何の変わりもない。
 立川談春がラジオで、師匠の立川談志を殺したいと思ったことはあったけど落語家を辞めたいとは思わなかったという話から、
「落語辞めてもほかに行くとこないんだもん」
 と言ってた。あかりも推し活やめてもいいけど、やめても他に行くとこがない。

 俺にも推しっぽい人はいる。大小の差こそあれ誰にでもいると思う。有名人だ。あかりほど熱心ではないし、その人のブログを書いたり、「ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聞き取り書きつけたものは、二十冊を越えるファイルに綴じられて部屋に蓄積している。」(p.17)と書いているところに思わず、〈相当な推しだな…。〉とメモしているけれど、ここまでの推し方ではないけれど、この人めっちゃ好きやわ! と思う人はいる。
 でも俺の感情って、かわいいとか、ステキだとかで、怖ろしさとか厳しさではない。

彼が船の先端で船長を海に叩き落として顔を上げたとき、その子どもらしくない視線の冷たさに武者震いのようなものが背筋を走った。うええ、と間の抜けた独り言が出る。やばい、えぐい、とわざと頭の中で言葉にした。たしかにこの子なら船長の左手を切り落としてワニに食べさせるな、なんて思う。(p.12)

 あかりはこの「子どもらしくない視線の冷たさ」にグッときてる。高橋源一郎はNHKの「飛ぶ教室」というラジオ番組で、「あかりと推しの関係って宗教っぽいというか、神様との関係に似てるんだよね」みたいなことを言っていたけれど、神様は冷たい視線を持っていないと「神様」になれない。俺と推しの関係みたいに「かわいい」だけでは、神様と民の関係にはならない。だからといって神様と民の関係になっていない推しとの関係はぜんぶニセモノだと言いたいわけではなくて、今のところは俺はそこまで熱烈に推さなくてもなんとか生きていけてる。

ふとした瞬間に見せる眼球の底から何かを睨むような目つきは幼い頃と変わっていなかった。その目を見るとき、あたしは、何かを睨みつけることを思い出す。自分自身の奥底から正とも負ともつかない莫大なエネルギーが噴き上がるのを感じ、生きていることを思い出す。(p.15)

「その目を見るとき、あたしは、何かを睨みつけることを思い出す」ということは、推しの「睨む」という行為と、あたしの「睨む」という行為が重なる。「自分の聖域を持ち、踏み入られると苛立つ。それでも湧き上がった感情を眼のなかに押しとどめて、実際には見苦しい真似はしない。我を忘れることはないし、できない。」(p.22)と書かれているのは推しの性格の描写のようであって、あかり自身の性格のことではないか、と書いたが、推しの行動の一つ一つが「正とも負ともつかない莫大なエネルギーが噴き上がる」スイッチになってるのかもしれない。推しが何かを睨むことで、あたしが何かを睨みつけることも許されるような。

車に乗りかけた推しの背中に「反省しているんですか」と怒鳴るようなリポーターの声が掛かる。振り向いた目が、一瞬、強烈な感情を見せたように思った。しかしすぐに「まあ」と言った。(p.16)

「神様」には「救い」とかだけでなく、「視線の冷たさ」とか怖ろしさとか厳格さとか、そういうものも必要だと思う。あかりは「推しは穏やかな人ではない。」(p.22)と分かっている。しかし、『ピーターパン』の舞台で「子どもらしくない視線の冷たさ」を見たときは、「うええ、」「やばい、えぐい、」と自分の反応を言葉にしていたが、「反省しているんですか」というリポーターの声に向けられたように見えた「振り向いた目が、一瞬、強烈な感情」についてはあかりは何も言っていない。「推しが何かを睨むことで、あたしが何かを睨みつけることも許される」という解釈が成り立つのであれば、『ピーターパン』のときの舞台の演技ではない、推しの「素」が垣間見えた(ようにあかりには見えた)「強烈な感情」はどう作用するのか。

   ○

 恋愛映画『ステンレス・ラブ』で推しは急激にファンを増やした。主演ではないがヒロインの後輩役の一途かつ不器用な演技も絡めて人気が出たから、今回の報道は特に痛手だろう。(p.30)

 沢尻エリカの「別に?」を思い出した。これは大学の授業で聞いた話なんだけど、沢尻エリカが舞台挨拶で「別に?」と不機嫌そうに答えて大バッシングを受けた映画のタイトルは『クローズド・ノート』だった。東宝の映画紹介によると、「映画『クローズド・ノート』は一冊のノートの存在が、ヒロインの恋を、人生を大きく変えていく運命的なラブストーリー。(中略)
風変わりなラブストーリーのようでいて、物語のラストに向かって、「人を愛すること」「誰かと絆を結ぶ意味」「命の輝き」といった深遠で普遍的なテーマが観客に用意されている。これまでの純愛映画とはまったく異なる、人間ドラマに正面から向き合う新たな「愛の物語」が誕生する。」と書かれていて、沢尻エリカが演じるヒロインの〈堀井香恵〉については、「教師を夢見ながらも、日常に埋没していた女子大生が一冊のノートによって人生を大きく変えていく等身大のキャラクター(後略)」と書かれている。
 映画のポスターの中にいる、〈堀井香恵〉を演じている沢尻エリカは、いわゆる清純派っぽい感じというか、慎ましくておしとやかな感じがするけど、舞台挨拶の沢尻エリカはそのイメージとはまったく違う、黒ギャルみたいな感じで、そのギャップに笑ってしまうぐらいなんだけど、そのギャップのせいもあって大バッシングを受けたのかもしれないけれど、でもその大学の教授が言うには、舞台挨拶で「別に?」と答えてしまうマインドを持つ沢尻エリカが、あの清純なキャラクターを演じられるということは、沢尻エリカの演技力は相当高いってことじゃないか。六角精児もそうだと思う。「ダウンタウンなう 本音でハシゴ酒」でクズエピソードが紹介されていたけれど、『相棒』の〈米沢守〉にはそんな一面はまったく見えない。役と本人は別物だと言うかもしれないけれど、それは頭では分かるけれど、本当に別物としては見ていない。きれいに半々に分かれているわけではないけれど、沢尻エリカが演じる〈堀井香恵〉とか、六角精児が演じる〈米沢守〉として見ている。役に本人の人物像を重ねてしまう。NHKの朝の連続テレビ小説で悪役を演じている人が街をプライベートで歩いていると、
「ナニナニちゃんをいじめないで!」
 とか言われるみたいな話もバラエティー番組で聞いたことがあるけれど、冷静に考えればこれは役柄なんだから本人が本当に意地悪しているわけじゃないことぐらい誰でもわかることだけれど、その境界線は曖昧になる。俺も子どもの頃にやってた『女王の教室』を毎週見ていたんだけど、放送終了後もしばらくは、天海祐希は本当に〈阿久津真矢〉みたいな人なんだと思って、天海祐希がどんなにやさしい役を演じていてもそのやさしさのうしろに悪魔みたいな一面があるんじゃないかと感じずにはいられなくて、その癖が抜けたのはほんの最近、つい4、5年前とかのような気がする。
『推し、燃ゆ』の話に戻すと、推しの演技力の話をしてもしょうがないんだけど、推しは相当高い演技力なんだろうなと思うし、これは僕も含めてそうなんだけど、観客が物語を観るときって変なバランス感覚で観ているなとも思う。ぜんぶ嘘かと言えばそうじゃなくて本当も混じっているし、じゃあ物語は本当かといえばフィクションだから嘘だし、虚と実を蛇行している感じ。変なバランス感覚で物語に触れている。日常生活では使わないバランス感覚で物語に触れている。だから「フィクション」なのか。

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