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タイギゴ(10)

 今日は午前中お休みをもらうことにした。頭が痛くてしょうがなかった。がんばれば行けなくもなかったんだけど、がんばらないことにした。
 できる限り、自分の欲望には誠実でありたいと思っていて、と言っても自分のわがままが通用する場面なんてほとんどない、ほとんどない、ほとんどないんだよなあ……、一日のうちにどれぐらいだろう、と考えてみても、一個もない日なんて平気である。
 で、今日は休みたいと思った。以前は具合が悪くて一日休んじゃうってこともあったんだけど、今日は午前中だけでいい。ちょっと休みたい。昨日から頭が痛かった。寝たら大体治まるんだけど、今日は寝て朝になっても痛かった。頭がズーンと重たい感じ。
 変な話だが、もし昨日の頭痛が治って今朝は頭が痛くなかったら、言い訳がないから仕事に行かないといけない。
 もちろん変な話だと書いている。
 今日はなんかテンション感がいつもと違う。坂口恭平が「書きたくない日ってのは、今までのやり方では書きたくないって意味」と言っていた。昨日、一昨日と日記を書きたくなくて、書きたくないというより面倒臭くて、一昨日は書かなかったし、昨日は五〇〇文字くらい書いたけど、やっぱり面倒臭かった。それは、今までと同じ書き方で日記を書きたくない、ってことなのかもしれないと思ったけれど、さっき遅刻させてくださいって連絡を入れているときに、
――もし頭痛が脳梗塞とかくも膜下出血とかだったら、それでもし死んでしまったら、昨日書いた日記が最後の日記になるんだな。
 と考えると、ちょっともうちょっとちゃんと書かなきゃな、みたいな気持ちになる。
 そういえば毎日なにかしら文章を書くようになってから、もし今日死んだら、これが、今日書いている文章が遺稿になるんだな、と思った。今書いている小説が遺作になるんだなと思った。いやだな、と思う。もっと面白い小説書きたかったし、書けると思ってたな。でも死んじゃったらどうしようもない。そのとき書ける、コレがいいと思える全ての力を振り絞って書いたのがあの小説だったんだ。あれが全力で、他に書きようがなかったんだ。しかも、評価されている人も、常に、
「自分にはこんなこともできないのか」とか、
「俺ってほんとこういうところ弱いよな」とか、
「いつまで経ってもヘタクソだな」
 みたいなことは、たぶん、村上春樹も思ってる。他人にどんなに称賛されようと、自分は、
「やっぱり違う……」
 とか考えてる。だから俺も今は、
「ほんとヘタクソだな」
 って思ってる。称賛もされてないけどそれは構わない。その分好き勝手書けるから。もしかしたら、小説書くの向いてないな、と思ってる。書くのは好きだけど。でも書くのは好きだから、向いてないんじゃないかってことは見ないようにしてる。しかも、
「小説は、小説の上手い人しか今市場で書いてないんだから、下手な人が書かなきゃダメだ!」
 みたいなことも考えてたりする。そんな評論家気取りの屁理屈はいいからとっとと書け、と思ってる。

 何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんなに力まず、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐ行くのだ。失敗してもいいから。一度失敗したなら、よしもう一度失敗してやるぞ、というぐらいの意気ごみでやることが大切なんだ。うじうじ考える必要はない。すべてマイナスをプラスの面でつらぬけば、マイナスだと思っているものがプラスになって転換してくる。

 上に書いた言葉は岡本太郎が言ったらしいけど、引用元が分からないので本当なのか分からない。「岡本太郎(@okamoto_taro_bt)」というTwitterのアカウントがつぶやいていて、もちろん本人は亡くなっているし、プロフィールの欄には「芸術は爆発だ。」としか書いていなくて、岡本太郎の関係者が運営しているとか、公式のアカウントですとか、そういうことは一言も書いていないから、岡本太郎を好きな人が勝手にやっているものなんだと思う。
 この手の有名人の名言botってたくさんあるけど、これは法に引っかからないんだろうか。
 今朝点いてたニュースで、YouTubeでファスト映画という、「映画を10分程度に編集し、字幕やナレーションでの解説を加えた動画」(yutura「“ファスト映画”投稿のYouTuberが逮捕される「ファストシネマ」か」2022年2月15日、https://ytranking.net/blog/archives/69564)を投稿した男が逮捕されたというニュースをやっていて、男は逮捕前にインタビューを受けていて、
「これは“引用”の範囲内」
「裁判をしても負けないように理論武装をしている」
「だから負けないと思う」
 と言っているのを聞いたが、その男の話はあくまでも前フリでしかなくて、俺がしたいのはTwitterのbotの話だ。あれは“引用”の範囲なのか。一応文章の世界では、引用はしていいけど必ず引用元を提示しないといけない。石原慎太郎の『再生』という小説について斎藤美奈子は、
「「文学界」三月号掲載の『再生』には下敷き(福島智『盲ろう者として生きて』。当時は書籍化前の論文)があると知り、両者を子細に読み比べてみたのである。
 と、挿話が同じなのはともかく表現まで酷似している。三人称のノンフィクションを一人称に書き直すのは彼の得意技らしく、田中角栄の評伝小説『天才』も同様の手法で書かれている。これもまた「御大・石原慎太郎だから」許された手法だったのではないか。」(東京新聞、2022年2月9日)
 と書いていて、でも岡本太郎のTwitterのbotは、岡本太郎の言葉を他人がまるで自分の言葉のように発信しているわけではないから問題はないのかもしれないけれど、ファスト映画も自分で作った作品として公開しているわけではない。もちろんファスト映画を肯定しているわけじゃなくて、ファスト映画がダメなことぐらい分かるし、他人に著作権がある作品を、勝手に流しているのが問題なんだけど、岡本太郎の言葉だってどこかから切り抜いてきて、勝手に流しているんじゃないのか。言葉には著作権はないんだろうか。たまたま話題にあげているのが岡本太郎のTwitterなだけで、中の人を批判したいわけではなくて、その辺ってどうなっているんだろう、って気になった。
 たとえば小説家でも、インタビューの発言をbotがツイートしたり、小説の中の言葉をツイートしたりしているbotはたくさんある。俺も好きで読むし、リツイートしたり、日記に入れたりしちゃってる。言わない人は言わないのかもしれないけど、だから問題ないってことでもないし、知らないだけで、抗議している人はいるのかもしれない。

 なんども書いたけど、なんども書かないと忘れてしまうので、なんど書いてもいい。伊藤比呂美が親友の枝元なほみの言葉を講演会で言ってた。相談の内容は、
「自分のやりたいことが分かりません。どうしたらいいでしょうか」
 というものだった。

 一旦、話が変わるが、小説の面白さってなんなんだろう。小説が運動していること、が大切なんだと聞く。よく分かる。運動してる、駆動してる、現在進行中……、あの感じ。でも自分の文章、小説は運動しているのか自分では分からないし、どう書いたら運動しているのかも分からない。
 今もそうだけど頭の中に浮かんだことを書いているだけだ。子どもはそうやって書くんだと思う。運動してるとかしてないとか考えない。内容以前に、とくに作文がニガテな子はとくにそうかもしれないけれど、内容うんぬんじゃなくて、とにかく、原稿用紙一枚埋めなきゃいけないなら、原稿用紙一枚キッカリ埋めることに全力をそそぐ。読書感想文なんかも自分の意見とか、読みながら考えたことなんかどうでもよくて、とにかくマスを埋めて形をそれっぽく•••••、提出しても怒られない形にするために、それこそ引用をたくさんしたりしてマスを埋める。内容は関係ない。でも読書感想文を例に出してしまうと俺の書きたいことから離れてしまうような気もするけれど、子どもは作文を書くときに、ニガテな子も得意な子も、あんまり内容は考えていないんじゃないか。得意な子であっても、何か「書きたいこと」が先にあって作文を書き始めるのではなくて、授業の課題とか宿題としてまず作文を課せられる。テーマがあって、これについて書きなさい、と言われて初めて内容を考え始める。子どもによっては小学生の時点ですでに、文章を書きたい熱量があって、自由帳に書いている子もいるのかもしれないけれど、俺は自分が小学生だったときを思い返すと、作文を書くのは嫌いではなかったし、好きだったけど、自発的にノートに作文を書いたり、日記をつけたりはしていなかった。いつも先生に、
「書きなさい」
 と言われて初めて作文を書いていた。
 大人になると、わざわざ作文、文章を書くんだったら、それに足りる内容がないといけないと思ってしまうし、内容がないものは書いちゃいけないような気がする。
 子どものように、内容を第一に考えるのではなく、とにかくマスを埋めることに全力をそそぐ書き方が、小説や文章の「運動」や面白さにつながるのかは分からないけれど、なにかしらのヒントはある気がする。
 それにしても小学生のときの作文は内容で笑わせようなんて考えてないのに、なんで面白いんだろう。最強じゃん。
 高校の部活で吹奏楽をやっていたとき、
「自分たちが楽しんで演奏をしないと、お客さんを楽しませられない」
 とよく言われた(〈自分たちが楽しい=お客さんも楽しい〉とか〈書いてて楽しい=読む人も楽しい〉って等式じゃない、もっと全然違う角度から考えないと進展しないんだけど)。高校生同士が反省会で言うその意見は今思えば的外れなことも多かったけれど、一理はあると思う。俺もそうだと思う。でもそのために準備しなきゃいけないことがたくさんある。
 演者と聴衆の関係のことを考えると、ヘタクソなカラオケのことを考える。音痴な人が、
「自分が楽しんで歌わないと、聞いている人を楽しませられない」
 と言って楽しそうに歌っても、楽しい以前に音痴だから聞いてられない。吹奏楽も同じで、
「下手な学校はいきなり、この曲をどう表現するかって話を始めちゃうんだけど、表現の前に、音程、音色、音形を整える練習をしないといけない。それができて初めて表現の話ができる」
 立川談春も、林修のテレビのインタビューで、
「人を泣かせたり、感動させたりする話し方の技術ってのは、あると思います」
 つまり人を泣かせるのは内容や感情ではなくて、話し方やイントネーションや声などの“技術”なんじゃないか。
 たぶん文章にも人を感動させる技術はあるんだと思う。表現を考える前に技術を追求しないといけないんだと思う。それもハウツー的なやり方ではなくて。この辺はすごく言うのが難しいんだけど、まっすぐ技術を追求するんじゃなくて、頭では表現を追求しつつ、体は技術を追求してる感じ。「俺は技術なんか追求しねぇよ」という顔をしながらこっちをやる、みたいな感じ。俺は技術は持っていないから、こういうことを考えると、
「そんな技術を求めるなんてダメだ! そんなのウソじゃないか!」
 と思うんだけど、じゃあ内容だけで書いているのか?と訊かれたらさっき書いたように、作文は内容じゃない、と俺は言っている。結局技術もない、内容もないのを正当化したいだけなんじゃないか。それも含めて、面白い小説ってなんなんだろうね、って考えることなのかもしれないけれど。

 伊藤比呂美が「自分のやりたいことが分かりません」って相談に、
「これは友人の枝元なほみが言ってたんですけど、彼女はね、朝起きた途端に『今日は何を食べたい?』って考えて、たとえば『どこどこの鰻が食べたい』って思ったら、その日のうちに必ず鰻を食べるんですって。
 それで私もその話を聞いて、なんとなく自分の欲望が枯れたように思ってたときに、朝起きて『何食べたい?』って訊いて必ず食べるようにしたら、だんだん自分のやりたいことが鮮明になってきた。
 だからこれおすすめです」
 と言っていた。
 今どきの若者は自分のやりたいことすらも分からない、と言われるがそんなことはない。自分の中で「社会」が肥大化してて、自分が純粋に考えているやりたいことは「社会」にとっては仕事にならない、必要とされていないことだから、やりたいことが分からないと言っているだけで、やりたいことが分からないわけじゃない。「社会」が求めていることの中にやりたいことがないだけだ。
 子どもに将来の夢とか、やりたいことは何ですかって訊いたときに、答えが「なりたい職業」とか仕事の話しか出てこないのはなんなんだろうと前から思っていて、俺は子どもにそういう質問はしたくない。そんな答えも聞きたくないし、言ってほしくない。

 十四枚ほど書いてみて、この文章に運動があるのか、面白いのかどうなのか。一箇所、おもしろいなあというか、なるほどなあ、と思ったところはあったけど、他のところは分からない。
 起爆剤になればいいと思う。自分にとってもそうだし、身の程知らずも甚だしいけれど、誰かが「自分も書いてみたい」「書いてみようかな」とか、文章じゃなくても前からやりたいと思ってできなかったことを始めてみようかな、と思ってくれたら、こんなに幸せなことはない。次の文章を生み出す起爆剤。ぷよぷよの連鎖反応みたいに、文章が次から次に連鎖していくのがいい。

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