2021/01/18(未明-p.237)


 昨日『未明の闘争』を読んでて、本の内容とはまったく関係ないことだったけど、悟りがあった。
「ああ。あれってこういうことよね」
 みたいな気持ちになったんだけど、「悟り」だから言葉にできなかった。

 この悟ったときのこの感じをどう表現したらいいんだろうと考えたら、「悟り」は論理的に説明できたり理解できたりすることじゃなくて、頭で理解できることじゃなくて、もっと肉体とか皮膚感覚に近いものかなと思って、「痛み」を感じるときと似てるかな? と考えたけど、たとえば足に針が刺さったときは「痛い!」と言葉で言えてしまうから、悟った感じとは違うなぁ。なんかもっと「ボヤァ〜」っとしたもの。「あっ、そうか…」としか言えないもの。

 仏教にまったく詳しくないんだけど、ブッダは自分の悟りを弟子に伝えるために悟りを教典にした(間違ってたら、というか間違ってると思う。だいたいで書いてる)けれど、そもそも「悟り」は人に伝える必要があるのか。「悟り」は言葉にならないものだからそもそも他人に伝えられない。しかも自分のための言語化だとしても、言葉にすればするほどどんどん最初の実感から離れていってしまって間違う。保坂和志は、
「言葉はつねに後からやってくる」
 と言ってて、小林秀雄の「現象と分析」の話を太田光がラジオで言ってたけど、悟り=現象、言葉(言語化)=分析で、言葉は日記みたいなもので、
「今日は◯◯に行ってきました」
 と、後から現象を説明するしかできない、感じがする。
 Wikipediaによるとブッダは自分の「悟り」を説明した方がいいのかと考えたとき、「この真理は世間の常識に逆行するものであり、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った」と思ったらしいけど、その気持ちはわかる。
 とても他人に伝わると思えないし、考えていくと伝えるほどのことでもない気がするし、自分の理解を深めるための言語化だとしても、言葉にするともともとの実感からどんどん離れていってしまう。

 ちょっと経って「あっ、さっき悟った」と思えるけれど、悟ったその瞬間は、
「ああ。」とか
「ああ、そうか…」とかしか言えない。

 よく俺も何かの感想を言うときに「言葉にならない」って感想を乱発しちゃうんだけど、言葉にならないってさ、言葉にならないんだから、「言葉にならない」って言葉にすらならない経験なんじゃないの? だから痛みは「痛い!」と言えてしまう時点で「悟り」とはちがう感覚であるのと同じように、「言葉にならない」って感想を言ってしまった時点で、その経験は「言葉にならない」ものではなくなってしまっている。「言葉にならない」という言葉になっちゃってる。
 でも単純に「言葉にならない」って言ってるときは、感想を言語化するのが面倒くさくて、でも「面白かった」だけでは物足りないから「言葉にならない」って言っておけばなんかそれっぽい感想になった気になれるから言ってるだけな気がする。

 悟りは悟った瞬間、ほんの一瞬だけ俺の近くにいるけれど、あっという間に離れていってしまって、もうこの日記を書いている(←この文章を書いている今はもう「悟り」は消えている。)ときにはもう無い。
 金井美恵子の小説の冒頭じゃないけど、本当にもう無い。あっという間に忘れる。でも忘れてしまったからといって今生の別れではなくて、なんかの拍子にまたポンと現れる。気が熟すと出てくる。そのときを待ってる。


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