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タイギゴ(22)

(22)
 花粉症の薬よりもビールを飲む方がだいじなので、何回も飲み損ねている。四月から新入社員になり、
「ビールとか好きですか?」
「好きですね」
「えっ、最初から飲めました?」
「最初は飲めなかったです」
「ああ、じゃあ、無理やり飲む感じで?」
「そうですね。最初は味はあんまり美味しくなかったのでとにかくすぐ飲み込んでたんですけど、それがだんだん飲めるようになって」
「へぇ~」
「苦手ですか?」
「ダメですね。二十四なので、お酒飲めるようになって四年経ちますけど飲めなくて。
 え、コーヒーとかも飲めます?」
「飲めます。好きですね」
「好き? コーヒーも最初はまずかったですか?」
「……、いや、コーヒーはわりとすぐ美味しく飲めた気がします」
「へえー、そうなんだ」
「大学生のときに飲み始めて、とくに、ビールほどまずいなとは思わず飲めましたね」
「へぇ~。……、じゃあシャワー行きましょうか」
 そうだ、これは研修での会話ではなかった。
 はじめて日記を売った帰り、Kさんに、
「よかったら打ち上げに来ませんか?」
 と誘われて参加させてもらった。そのときにKさんが、
「『美濃』を楽しく読んでらっしゃるところが好きなんですよね」
 と言ってくれて、そのあとの、そのあとのと言ってもその打ち上げは五月で、今から言おうとしている日記祭はその年の十二月だから半年以上あとなんだけど、その応募のときに、
「そういえばKさんがあんなこと言ってくれたな」
 と思いだし、応募のときに、どの日でもいいから日記を一日分提出しないといけなかったので、『美濃』をいちばん楽しく読んでいた日(かなり長い日記だった)をnoteからコピペして応募したら通った。最近この話をどっかに書いた気がする。たぶん今書いている日記に書いた。でも日記は今は投稿していないので読む人としてははじめて読んだことだから大丈夫だ。そのうち出される日記にまた同じことが書かれている。
 日記は、noteにあげているときは人目にふれるものだから一応アレでも「形」にしていた。一応完結まで書くというか、たとえば昨日書いていて途中で寝てしまって、翌日(わたしは前日の日記を翌日の朝に投稿していた)読み返したときに、途中で終わってる、と思ったらそのつづきを書いてから投稿していた。そういう意味でnoteに書いていたときはその日なりの「形」にしてから投稿していたが、今は、自分ひとりしかいないLINEグループを作ってそこに書いている。そうすると、いったん「送信」を押してしまうともう編集できない。できるのかもしれないけれど、わたしはたとえば相手が読む前だったらメッセージの取り消しが今はできるけれど、わたしが使い始めた高校生のとき(ちょうど転換点だった。部活の連絡は一年生のうちはメールがメインだったが、三年のころにはLINEがメインになっていた。たぶん今の後輩たちはメールなんか使うんだろうか)はそんな機能はなくて、送ってしまったらもう取り返しがつかなかったから、いまだにその感覚を引きずっていて、エイヤッ!と送ってしまったものをまたあとで編集しなおすとか、さすがに本にするときは多少は直しはするだろうけれど、今は、
「とっとと嫁に行ってくれ」
 的な、もう送ったら送りっぱなし、っていう感じで、中途半端に途切れていても、
「昨日は昨日でここまでが昨日の日記だったんだからここでおしまい!」
 と、ある意味では乱暴というか、そんなに大事にしないというか、この気持ちにもっと適切な言葉があるはずで、わたしはそれを知っているのだけど、今それが思い出せないので「乱暴」とか「大事にしない」とか言っている。でも、そのいい加減さ(これもちょっと違う)がいい感じで、今までにはやらなかったような日記が出はじめている。
 こんなことを書くと読者の期待値をあげてしまうかもしれないけれどたいしたことではない。日記よりも小説の方が成長している。日記はまたべつの話になってきている。

私の連載している文章を読んでくれたのは、私本人、と編集者と、それから坪内節太郎さんの、ほかは、私に思い浮ぶことが出来ません。延々といつまでも続くものを、——一回一回で読み切るわけでもなく、そうして、先きの見通しがつくわけでもないものを——どうして一般の読者が読むのだろうか。しかし、そういう中でなければ、私は自分の中から、自分の中にあるものをひき出すことができなかったのです。そういうことを、感じていたにはちがいないが、それほどよく考えていたわけでなく、今になって読み返すと、その内容に「舌をまく」のです。
(小島信夫「各務原」『各務原・名古屋・国立』講談社文芸文庫、p.30)

 小島信夫のことだから「舌打ちをしたくなる」かと思ったら「舌をまく」だったので、「舌打ち」まで筆写して、ああ間違えた、と思って書き直した。

「今になって読み返すと、その内容に「舌打ちをしたくなる」のです。」

 坂口恭平の『発光』の中の安倍さんの話、厳密には安倍さんの話ではなくて、安倍さんを批判している人の話だったが、それもこの前の日記に引用した。だからここに書くのは面倒くさいし、でもLINEに入っていた気がするから見てみると、探したけれどなかったので思い出して書いてみると、そこには、安倍さんを批判するのはべつにいいけど、匿名でやっちゃダメだ。人前に立たされたときに自分が何を話すか、安倍さんと同じようにたくさんの人、カメラ、に囲まれた環境であなたはしゃべることができるのか。あなたは何を言うのか。その訓練を日頃からしないといけない。と、そんなようなことを書いていた。誰であろうと、自分が言われて嫌はことは言ってはいけない。お天道様は全部見ている。
 そうだ、日記ではなくて、今書いてる小説に引用した。なのでポメラにある。このタイギゴ22回もポメラで書いているのでコピペして持ってこれる。でもいいか。
 言いたいのは、わたしの中には今、この小島信夫と坂口恭平の二人いて、コジマ的に言えば、このタイギゴなんて読んでいる人は一人しか思いつかない。たびたび日記にも登場するシだ。あとは分からない。いいねをもらうけれどみんな知らない自己啓発のアカウントばかりで、何が検索に引っかかってこの文章を見つけて、しかもいいねまで、なんのつもりで押したのか分からない。とにかく、毎月毎月書いてはいるけれど誰に届いているのかも分からないし、誰かに届け、と想定しているわけでもない。でも逆にそれは、どうせ誰も読まないから好き勝手書けるってところもあって、それがコジマ的「どうして一般の読者が読むのだろうか。しかし、そういう中でなければ、私は自分の中から、自分の中にあるものをひき出すことができなかったのです。」なのです。
 ただ、そうはいっても、そういう状況にいつまでも甘えているのはどうなの?って気持ちもあって、しかもわたしはキシダに対して「アホ」だのなんだのとことあるごとに書いていて、久米宏の、
「与党だから批判するんですよ」
 って、その人の政策がどうとか気に食わないとかそんなことじゃなくて、〈与党〉だから批判するんですよ、って言葉を借りれば、それはその通りだと思うし、わたしはキシダは与党だから批判しているけれど、じゃあその批判するときに「アホ」だとかそういうことは言っていいのか?
「お天道様は、見てる」
 人やカメラがたくさん見ている環境であなたは何を話すんですか? そもそもちゃんと話せるんですか?
 と訊かれたら、答えられない。証拠に、研修で、
「じゃあ、時間が余っているので自己紹介でもしましょうか。時間はひとり一分くらい。よーい、スタート」
 と言われたときにわたしは三人目だった。うわーっと思った。いつかやるとは思っていたけれど、こんな感じで急に、でもたしかに自己紹介のための時間割りがわざわざ組まれてるはずもなくて、こういうポンっ!と「何かしゃべって!」と言われたときにパパッと何かを話せるスキルをつけなきゃいけないんだけど、そのときは声は震えるは、目は泳いでるわだった。山下澄人の朗読会に行ったときに最後の、
「なにか、質問でもある人いますか?」
 と訊かれて誰もいなくて、いちばん前に座っていた人を山下さんがテキトーに指して、
「はい!」
 その人は「ええ……っと」と困っていたけれど、
「こういうときに捻り出すのが小説なんです」
 と山下さんが言っていた。だからまだ書き足りていない。ぜんぜん書いてない。今回の書き出しもスラッと書き出してしまったし、書き出しからここまでバーッと一気に書けてしまった。まだすんなり書けているうちはこの井戸は枯れていない。水を出し尽くしていないからまだ掘らないといけない。なんだかよく分からない。まだしばらく書けそうな気がしている。

(「各務原」を読んでいたがとなりに若い男二人が立って会話をしていたのでそっちに耳が取られて読めなくなったので聴いていた。聴いていたらサタケさんの息子さんを思い出したので以下を書いた。次の会話が男二人の会話である。)
「これNSC」
「なにそれ?」
「吉本の養成所。ここ卒業して事務所に配属になる」
「へぇー、売れてんの?」
「ぜんぜん売れてない」
「観に行ったらどうする?」
「ん?」
「笑う?」
「あー、愛想笑い?」
「そう」
「笑えば笑うんじゃない?」
「あー、ね」
 サタケさんの息子さん(名前は忘れた。とりあえず「りょうくん」ということにしておく)りょうくんはわたしの四つか六つ年上で、よくりょうくんのお古の服をもらっていた。お母さんどうしが同じ職場だった。
 一度サタケさんの家に行ったこともある。マンションの一室に家族三人で暮らしていた。お父さんには会ったことがない。何か、いそがしい仕事をしているらしくて、家にもほとんど帰ってこないとわたしの母からは聞いていたが、わたしはそのときすこしませていたので、それは嘘で、実際はすでに離婚してて、母子二人で住んでいるけれど、どうしてそんな嘘をついているのかは分からなかったけれど、世間体なのかなんなのか、でもわたしの母とサタケさんはそんな「世間体」を気にするような間柄ではなかったのに、幼いわたしに対してそうしていたのか、でもそんなことわざわざするとは思えず、だからこれはわたしの思い違いなんだろうけど、やけに「ほんとうはサタケさんは離婚してるのに、お父さんはいそがしくて家にいないってことにしてる」って実感が強く残っていて、それから二十年ちかく経った今はほんとに離婚したのか、していないのか、そもそもまだ同じマンションに住んでいるのかも分からない。
 何度か母にサタケさんって何してる人なの? と訊いたことがある。でも何度聞いても分からなかった。その分ミステリアスな感じがして今も気にはなっている。よく分からない。で、よく分からないのはサタケさんの息子のりょうくんもそうで、りょうくんは、これも忘れてしまったが有名な私立大学に進学した。もともと秀才タイプで、中学高校も成績がよかった。実際のところはミステリアスでりょうくんについて分からないことばかりなのでかなりフィクションが含まれているけれどそれは申し訳ない、としか言えない。
 りょうくんは会計士、じゃない学校の先生になろうとしていた。ずっと数学が好きで、高校の数学の先生になろうとしていた。だから大学では教職課程をとり、バイトも進学塾で講師のバイトをしていた。何度か落ちたらしい。卒業後も何度か採用試験を受けたが採用されず、塾講師をつづけながら試験を受ける生活をあのマンションの一室で二年か三年つづけた。
 わたしは「マンションの一室」ということをすこし強調しているけれど、これは採用試験を受けている、つまりまだ、あまりこの言葉は好きではないが「社会人」になっていない、フリーター状態の人が実家に暮している状態のしんどさは、わたしも経験したのでなんとなく分かっていて、だからと言ってりょうくんもわたしと同じようにしんどい日々を過ごしていたかどうかは分からない。家族三人仲が良くて、まったく後ろめたさを感じずに生活していたのかもしれないが、一軒家で自分の部屋を持ってたわたしもしんどかったということは、サタケさんの家はそれほど広い部屋ではなかったのでおそらくりょうくん一人で自由に使える部屋はなくて、それこそセンズリも困っていた。
 そんな中でどんな心境の変化があったのか、りょうくんは突然、
「芸人になる」
 と言ってNSCに通いはじめた。その話は母を通じてわたしにも聞かされて、
「りょうくん芸人になるって言って養成所通ってるらしいよ」
「え? なんで?」
 という話を母が運転席で、わたしが助手席でした。そのときすでにわたしはフリーターになっていたし、どっかの会社に就職することが正解みたいな風潮にムカついてもいたし、プレッシャーもかけられていたので、
「いいぞ! いいぞ!」
 と思っていた。
 しかしりょうくんはそんな人ではなかった。ずっと数学の先生になると言っていた人だったのに、急に「芸人になる」と言い出したのは驚いた。小さいころには何度か会ったがもう十年以上会ってない。さいごに会ったのは小学校とか中学一年生とかのころだった。おぼろげだがカッコいいお兄ちゃんという感じで、四つ上としたら今は三十歳か。いいね。三十歳かぁ、いいなぁ。今どうしているんだろう。芸人をつづけていたとしても売れていなければだんだんとタイムリミットは迫ってきている。友だちにも数人いるが、そのときが来たら考えればいいのであってまだできるうちはトコトンやればいい。逆に言えば今しかできないんだから、三十五歳になったらもうできない(できなくはないけれど、もうそこで骨を埋めないといけない)んだから、岩波新書の『高橋源一郎の飛ぶ教室』に「夢に感染する」という話がでてくる。くわしい話はわたしのを読むより実際に高橋源一郎の文章を読んでもらった方がいいけれど、今、夢を追いかけている人はあるとき「夢」に感染した。それは本人がどうこうできるものではなくて、高熱がでて、頭の中はその「夢」でいっぱいになる。音楽家になりたいやつは音楽で頭がいっぱいになる。
 りょうくんは今どうなっているのか。まだ芸人を目指しているのか。そうでなかったとしても、べつに夢破れたわけではない。思うのだけど、大学も四年で卒業してそのままどっかの会社に就職するよりも、何年も回り道をしても自分の夢を追っかけた経験がある方が面白いと思うのだ。ストレートで就職した人を悪く言いたいわけではないんだけど、就職して何年も働いて、やりたいこと、「夢」に感染して、脱サラして新しいことを始めるのも面白い。
「丁! 半!」
 わたしはギャンブルはしないけれど、やっておけば訓練にはなったかもしれない。

 さあ、小説を書こう。(やっと!笑)このまえ「これから作り話をはじめます」と書き始めるタイギゴを書こうとして書いていなかった。これから作り話をはじめます。タイギゴはあさってが〆切なので、本当は一万字くらい書きたいと思っていて、あと五千字弱書かないといけないので今日書かないといけない、明日もあるけれど明日は仕事なので、そういえばケイヤク書もこの休みに取りに行かないと、と思っていた。この休みに取りに行かないとまた来週(今日は日曜日だから今週か)はずっと一週間仕事だ。仕事の話になるとしんどい話しかない。
 小説はいつも、書き方としては、まずいちばん最初に今日の日付を書く。そして昨日の原コーを読み返さないでいきなり書き始める、小説の書き方はいろいろあるだろうけれど、どう書くのがいいのか、いいというか、わたしの場合はそうしていて、だから昨日の小説と今日の小説は書いている実感としてはつながっていない、その日その日で新たに書き始める、でも同じ人が書いているわけだし、時間も一日しか経っていない(時間より、同じ人が書いているその方が大きい)わけだから無意識に、意識せずともどこかでつながっているから、長篇を書きたいのかな……、長篇というか今気になっているのは、日付を先に書くのがいいのか、後に書くのがいいのかで、吉増剛造は先に日付印を押す、
「まず最初に日付印をおす、この日付印はフランスのものですがね、これをこう、頭のところにおす、これが大事なんです」
 と言っていた。それは筆写のときに限らずどうやら詩を書くときにもまず日付印をおしているらしい、小島信夫はどうしているのか、そもそも小島信夫は毎日小説を書いていないのか、依頼があっても〆切を二~三日すぎた夜に一晩で書くみたいだから、べつに日付はいらない。日付いじょうに、なんとなく何年の何月ごろと分かればいい、分からなくてもいい、「あれは何歳のときに書きましたかね?」と誰かに訊いて、自分よりも自分に詳しい人が「何年なので、先生が何歳のときです」と答えてくれる、小島信夫は「ああそうですか」と答えて、自分で訊いておいて答えを聞いてもそれ以上の感想をもたなかった、なんでそんなことを知りたかったのかも忘れていて、だからもちろん答えにも興味がなかった。
 この手書きの原コーはそのままタイギゴに流用してもいいんじゃないかと思う。
 日付を書くといえばあと知っているのは(そもそもそんなに知らないけれど)坂口恭平で、あの人もその日の原コー、あ、タイギゴに限らずnoteにあげる文章では「原稿」と漢字で書いているけれど、手書きのときはいちいち書くのがめんどくさいし、それよりもスピードなので「原コー」と書いています。それで、坂口恭平もその日の日付を頭に書いている、
「そうすることが私に大変な作用をしてくるんですよ」(吉増)
 吉増剛造が吉本隆明の展覧会を世田谷文学館に観に行って、
「吉本さんは白い紙にえんぴつで、自分でケイ線を引っぱってる。それが吉本さんの精神に大変な作用をしていると思いましてね、私もマネしました」
 吉増さんは昔に書いた原コー用紙にえんぴつ(もしくはボールペン?)でケイ線を引いて、そのケイ線に添って今度は吉本隆明の著作を筆写していて、ひらがなはカタカナに、カタカナはひらがなに変換して写している、わたしもマネして筆写しているんだけど、でもたしかに、ひらがなで書くよりカタカナで写した方が感じがでるというか、やってみれば分かるだろうけれど、ひらがなで筆写するより、カタカナで写す方がいい、これはヘンな作用で、なんでだろう、とてもおもしろい、でも吉増剛造を知らなければ、ひらがなをカタカナに変換して写すなんてアイデアは浮かばず、ずっと、なんかしっくりこないなあ……と思いながらひらがなで書き写していただろう、でもひらがなをカタカナに変換して筆写してはならぬ、なんてルールはどこにもなくて、とにかく筆写するってことが大事なんだからそれをさまたげる思い込みやルールは少ない方がいいし、そもそもルールなんかないし、自由にやりたいようにやればいいんだけど、吉増剛造を知らなければカタカナに変換して書いてもいいなんて思わなかった。たぶん他にもたくさんあるんだろう、べつに誰に言われたわけじゃないのになんとなくダメだと思っているもの、意識の上に出てきていれば(ギモンに思っていれば)どうしてこうなっているんだろうと考えることができるけれど、意識の上にあがっていない、もう無意識に「これはダメなんだ」と思い込んでいるものに関してはどうしようもない、し、たぶんそんなことはいっぱいある。
 ずっと頭のなかに小学校のときのえんぴつのことが浮かんでいる、
 たしか小学生のあいだはずっとだったはずだけど、わたしの学校の場合はシャーペンは禁止だった、いや、ずっとではなかった。五年とか六年のときにKがクラス中のみんなのシャーペンをぬすんで、授業中それを使っていて、
「あっ、この前なくなった俺のやつ! なんでもってんの?」
 みんながKの机のもとに集まってきた、そもそも同じ日にみんなのシャーペンがなくなって、自分だけ、
「俺はぬすまれてないよ」
 とKが言ってしまったのが敗因で、前から犯人はKじゃないかと疑っていて、フデバコのなかを開けられ、
「あっ、これ俺の。なんでこんないっぱい入ってんの?」
 Kの、上にファスナーがついている布製のペンケースはぬすんだシャーペンでパンパンだった。
 そのあとどうなったかは分からない。Kはヤンキーというか、ちょっと不良っぽいグループの仲間ではあって、でもうちの学校の生徒(校長先生の口調)は他校に比べればそこまで激しくなく、体育祭も合唱祭もみんな一生懸命やってて、「どこどこの奴とタイマンした」とかって話を聞かなかったわけでもなかったけれど、かわいいもんで、たいしたことではないと思っていたが、卒業して何年も経つとそのうちに何人かは立派なそちらになられたみたいは話を聞いたような聞かないような感じで、え、そんなに不良ってたの? と驚いた。そのKもヤンキーというより、他の数人と同じく中学生らしくやんちゃという感じで、今でもたまにスーパーに行くときにKの実家の前を通る(ここに今の住んでいるのかは知らないし、会っても声はかけないが)と元気にしてるかな、とすこしは思う。地毛なのか染めていたのか分からないけれど髪はかなり金髪にちかい茶色だった、でもとくになにも言われていなかったからたぶん地毛で、地毛が金髪といえば同じクラスにまたKという、同じ「K」でややこしいが、金髪で、小柄で、天然のパーマがかかっている男の子がいた、登場させてはみたけれど金髪つながりで思い出したから書いただけでとくにエピソードがあるわけではない。あるとすれば、卒業後にわたしと、今年の一月に千葉の会社に就職してそっちに引っこしたF(こいつも下の名前は「K」なんだけど、さすがに「K」と呼ぶともう分からなくなるので名字を取って「F」とする)と三人で近所の市民体育館で卓球をした。話ついでにFのことを書くと、Fはたしか今年一月の第三日曜日(たしか一月二十二日だったと思う)に引っこしをして、その前日にわたしに声をかけてくれて飲みに行った、会うまで明日引っこすなんて知らなかったので、
「就職して引っこすんだよ、明日」
「明日?」
 と寝耳に水とはまさにこのことだった、就職したのもそのとき知った、なのでお祝いした。千葉で彼女がひとり暮らししているらしく、そっちに住むために千葉で就職したのか、就職した会社がたまたま千葉だったから同セイすることにしたのかどっちだったかは忘れたけれど、そういえばその彼女の顔を見たことがない。以前Fと彼女さんが二人で遊んでいる動画を見せてもらったけどそれには顔は映っていなかった、Fはホーケイではなかった。(一応断っておくが、Fはわたしの想像上の人物で実在しない。モデルの人がいないことでもないけれど、その人そのものを書いているわけではない。むしろ、あった出来事をそっくりそのまま書いていたとしても、だからといってそれがその人そのものの全部を書いたことにはならない)
 Fとわたしは駅前の居酒屋で飲んだ。Fとわたしが住んでいたここは東京ではあるが郊外だった。オリンピックをやるにあたって一リツに、飲食店は喫煙席を撤パイし、郊外だからオリンピックを観に来た外国人たちがわざわざこっちまで来ることは、よっぽどもの好きな外国人しか来ないはずなのに、一リツにテッパイしたので、タバコが吸える店はなくなったが、この居酒屋はタバコが全席で吸えた。他にも、全席では吸えない(それまでは全席喫煙可だった)けれど、チューボーに近いカウンター席では吸っていいですよという喫茶店もあって、それはモグリの店なのかなんなのか分からないけれど、たぶん強制ではなくてホジョ金とかそういうことなのかもしれない。「協力してくださる人にはお金を出しますよ」でもそりゃそうで、いかに東京都に言われたからといって全額負担で改装するなんてありえない。Fとそんな話をしたわけではなかったが、三時間ほど飲んでそのあとエッチな店に行って(もう一度言っておくけれど彼は彼女もちなのでもちろんフィクションである)、ちょうどそのころは「タイギゴ(19)」を書いていたときだったからとにかく金がなく、本当にギリギリの生活をしていたけれど、
「もうさいごだよ」
 と言われ、
「よっしゃ! わかった!」
 と腹をくくってその店に行った。
 前にFと飲んだあとにそういう店に行って、そのときは、ウワサには聞いていたけれどすごいのがいたな! という話で盛りあがって、行為よりもそのあとの“報告会”がたのしかった。しかし行く前はFは大丈夫なんだけどわたしはキンチョーもするし、とにかくユーウツで、でも終わると、たのしかった。しかもそこは良い店だった。
「今度飲むときはそこに行こう」
 と言っていた店だった。なんでか知らないが歩いて帰った。
 その翌日Fは本当に引っこしをして、後日、母親どおしも仲がいいから、
「この前は飲みに行ってくれたみたいでありがとうね」
 とFの母がわたしの母にLINEした。

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