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カンバセイション・ピース感想1


 保坂和志をはじめて読んだのは二〇二〇年の何月ごろだったかは忘れた。春か、夏、だったと思う。
 コロナがはじまって、「ステイホーム」のときに読んでいた。コロナは社会にとっては多くの制限をかけた(今もかけている)が、わたしにとってはコロナのおかげでいろいろなことがはじまった。
 まず日記を書きはじめた。毎日家にいてやることがないから原稿用紙十枚毎日書き始めた。しかし十枚書くにはほんとうに丸一日かかってしまうので、生活と相談しつつ五枚にしながら、そういう習慣がはじまった。
 その延長線で日記を書いてnoteにアップするようになった。この、この文章がアップされているnoteである。今は日記は手書きにシフトしたのでnoteにはいっさい上げていない。
 毎日文章を書いたり、それ以上に思考の「型」という言い方はよくないかもしれないけれど、書きながら考える「技」、「技術」は保坂和志にものすごく影響されている。

「ほぼ日」で保坂和志と糸井重里が対談してるのを読んだ。ちょうど『カンバセイション・ピース』が刊行されたタイミングらしい。そのときは保坂和志がどういう人なのかまった知らずに読んでいて、ほとんど印象に残っていないが、一個だけ保坂和志が言った、
「小説家は食えない、ってみんな言うんだけど、毎年ちゃんと本書いて、一冊ぐらいちゃんと刊行して、何年か前に出した本が文庫になったり、それが増刷されたりすれば、サラリーマンの平均年収ぐらいはもらえるんだよ。」
 が強烈に胸に残った。
 当時は、留年した大学を五年で卒業して、四年生のときにやっていた就活も失敗して、そもそも就職したいわけではなかったけれど、実家に住んでいて、就活しませんと両親に言う勇気もなく、自分自身でもこのまま就活しないわけにもいかないだろう、みたいな気持ちで、でも小説家になりたいな、とは思っていたころで、でも食えないし、って思っていたときに保坂和志(まだそのときにはどういう小説家なのか、人物なのかまったく知らなかったけれど)がそう言ってくれて、ちゃんとやれば俺も小説家として食っていけるかもしれない、と思った。
 ただなんども書いているように、保坂和志がどういう小説家なのかまったく分からないから、この人の小説をとりあえずなにか読んでみよう、と、家にあった「群像」の創刊七十周年記念号に「生きる歓び」、元号が令和に変わるタイミングで「新潮」の平成の名小説 永久保存版に載っていた「ハレルヤ」を読んだ。
 正直どっちも「おもしろい!」と夢中にならなかった。保坂和志自身のことを書いているようで、これが「小説」なのかもわからなかった。「小説」には思えなかったので、これが小説なのか? でも「群像」も「新潮」もそれぞれ「短篇名作選」「名小説」と言っているから小説なんだろうけど。
 でもここが不思議で、僕はよくわかんないからこれ以上読まなくてもいいや、とはならず、明日バイト終わりに本屋に寄って、ありったけの保坂和志の本を買ってこよう、と決めて、そのときに買ったのが『読書実録』、『未明の闘争』(文庫で二巻もある! と思いながら買った)、それとたしか『カンバセイション・ピース』を買った気がします。はっきりと覚えているのは『読書実録』と『未明の闘争』だけで、もしかしたら『カンバセイション・ピース』ではなく『カフカ式練習帳』だったかもしれないし、こんな分厚い文庫本じゃなかった気もします。ただ、それはともかく、『読書実録』を読んでびっくらこいて、それ以降今日にいたるまで保坂和志の小説はそれなりに読んできましたが、『カンバセイション・ピース』は読んできていませんでした。

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