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タイギゴ(28)

 またタイギゴ書くのを忘れていたら、17日で、あしたが更新日だが間に合わないので週末の23日に更新することにする。
 グソクムズというバンドのライブに参加する。ケイタが誘ってくれた。もともと夏ぐらいに渋谷のライブハウスでライブをやったみたいで、インスタか何かで行った報告をしていた。
 ケイタはいまは千葉に住んでいる。小中学校がおなじだからこのへん(まだわたしはおなじ地元に住んでいる)にいたときは会って飲んだりもしていたが今年の一月から千葉に引っ越した。だから東京に来たんなら連絡してよ、とインスタでやりとりしてブーブー文句を言っていたが、たぶん彼女ときていたのだろう、そこにわたしが行ってもしょうがなかった。
 いくらでも続けられそうだった。いくらでも思い出せる、というそのことにアンセが快感をおぼえはじめていたから退屈だった。話しはじめる前の沈黙の時間が短すぎたのかもしれない。何をどうしたらいいんだという不安、恐怖、こそが重要なのだけどそれがなかった。もしかしたら準備して来ていたのかもしれない。準備して来たことはつまらない。手の内はつまらない。
 こんな話を書いてていいのかわからない。

 創作に影響をあたえられた本ということでわたしは山下澄人『FICTION』を持っていった。
 スラスラ書けているということは、そのまえに読んだななにかの影響を受けているから新しいものではない。
 グソクムズの話はどっかに前に書いた。
 となりの席のカップルがさっきまではいい感じで「あ~ん」とかしてたのに急にケンカをし始めた。気になってつづきが書けない。
 批判っぽくなるのはいやなんだけど、わたしがグソクムズの曲を聴きながら「○○だな」と思っていたら彼も「○○だよね」と言ったから、ああ間違ってなかった、と思ったんだけど、それは小説を書いていても思うことで、でもそれってどうしたらいいんだろうな、と、
「もうね、書くしかないんだよ」
 池松舞さんが言った。

 飲み会が重なると、自分がどこでだれにどの話をしていたのかわからなくなる。同期飲みもあって、次の日職場で会ったら、「けっこうキワドイこと話してましたけど大丈夫ですか?」と訊かれた。そいつにはクッキーをもらった。
「同じ仕事してる人が長いこと病気で休みだったんですよ。だからごめんって」
 俺はなんの迷惑もこうむっていないけれどクッキーもらっていいの?
「俺甘い物あんまり得意じゃないんですよ」
 その人(休んだ人)はよかれでやったことがこの人には、甘い物が苦手だから知ってる人に配ってまわっているという。わたしは小説を書いていた。一応職場では書かないようにしているけど、タイギゴは十八日投稿で、もう十八日は過ぎているからしょうがなかった。
 前回のさいごに書いている高校の先輩Iにはかなりキワドイ話をしていた。短い時間ではあれそれなりに悩んだりしたことを、それよりももっと短い時間で咀嚼できるはずがない。咀嚼してもらおうと思って話したわけではなかったが、この人になら言ってもいいと思った。し、言いたかった。そんな心の奥底にしまっておくような、墓までもっていくような話でもないが、だれかれ構わずできる話でもない。
「ほら、山が雪で白くなってる。」私は遠くを指した。
 でもここは雪は積もっていない。まさかこの一週間後には観測史上最高のドカ雪が降り積もってこの中央道も通行止めになった、いま見ているこの真っ平らな盆地一面が真っ白になるなんて二人は考えもしなかった、盆地一面ということはまわりを囲む山の連なりはそれ以上に雪に覆われた。
「どうせならそのタイミングが良かったな。」
「中央道で立ち往生だよ」
「いいじゃない、車の中で一晩いっしょなんて素敵じゃない。」
「二晩だったかもしれないぞ。」
「後ろに毛布があるから二人でくるまって暖め合いましょ。」

 この二人は男女のように読んでしまうが、男二人でもいいし、女二人でもいい。でもこの会話にかんしては男女に読める。どうして車の中に毛布を積んでいるのか、なんとなく不倫関係か、上司は不倫の末に不倫相手と結婚した、もとの奥さんも同じ職場だし、今の奥さんも同じ職場で、まあたいへんだ、知ったことではない、わたしはその前で、この前の忘年会のときにサザンのLOVEAFFAIRを歌った。盛りあがった。その人(上司)はあまり歌が上手ではなかった。廊下ですれ違うときどんな顔をしているのか。
 この年齢で小さい子どもがいるなんてヘンだと思うでしょ。
 そこでわたしが「ヘンだと思います」なんて言えるはずがない。みんなわかっている。わかっているけれどわかっていないフリをして、
「え? そんなことないですよ」
 とずって言っている。なるほど、たしかに忘年会というのはおもしろい、こんど異動もあるからもうすこししたら送迎会もある、またそこでいろんな話が出る。わたしはバカなフリして、これは演劇だ、自分をどう見せるかを考えないといけないのかもしれない、でもそれ以上に、同僚がほかの上司と話をしていて「バナナ」が話題にでてきたときに、急に、
 バナナっておいしいですよね
 と言った、その素朴な感じがすごく良くて、でもどう言い表したらいいのかわからなかったからその場では何も言わなかったけれど、すごくいい。演劇の言葉というか、いや違うな、なにかすごくきれいな言い回しをすると「文学的表現」というけれど、反対じゃないか?
 引用は『佐々木敦による保坂和志(仮)』からの孫引きで、ずっと『地鳴き、小鳥みたいな』は欲しくてさがしているけれど見つからない。絶版になっているのかもしれない。どこかに書いたけど来年は『地鳴き~』について書いてみたい。書いてみたいというか、この激ヤバテクストについて考えてみたい。
 こんな書き方したら気が狂ってしまいませんか?
 小説的思考塾で、言語哲学の言葉あそびの話がでて、
「この村の人びとは、よそ者にはウソしか言いません」
 自己矛盾の話で、村人はウソしか言わないんだとしたら、この「この村の人びとは、よそ者にはウソしか言いません」は「ウソ」になる、つまり「この村の人びとはよそ者にホントしか言いません」ということになるけれど、そうなるともともと言っていた「ウソしか言いません」がウソになるから(合ってますか? だんだんわからなくなってきた)、とにかくこういう言葉あそびがある。で、もう一個、ほかにもこの手のものはたくさんあるらしいんだけど、「世界五分前仮説」というのもあって、我々が生きている世界は五分前に仕込まれたものだ、それぞれが持っている記憶もすべて五分前に仕込まれたもので、それを反駁することは不可能って話らしいんだけど、

 前段の話をしているうちになにを書こうとしていたのか忘れた。

 あの、『地鳴き~』を意図的に書いていたのか、書いていたらそうなっていったのかはわからない、意図的だとしたら、
 そんなことやっていたら気が狂ってしまいませんか?
 なんだけど、意図的でなかったとしてもやっぱり、狂っているというか、狂っているって言葉で括るのも違うんだけど、やっぱりあれはヤバい。
 言語哲学をやる人は論争的な人が多いというのもおもしろかった。ひろゆきみたいは人が多いってことだ。議論(議論にもなっていないかもしれないけれど)の中で相手を論破する、つまり「世界五分前仮説」で言えば、
「あなたは反論できませんね?」
 ってことに喜びを感じる人。でも論争的な言語哲学者が相手にできるのは、まともに、おとなしくこっちの話を聞いてくれる人だけであって、
「そんなことあるわけねえだろ。バカか」
 と言われたら、保坂さんはそうは言っていなかったけれど、ヤクザのような人には通用しない。保坂和志は小説的思考塾で、
「そんなことあるわけねえだろ、バカか」
 と啖呵を切ったんだけど、それがすごくうまかった。ヤクザのそれに聞こえた。

 金が入り、いつものように「金がない」と書かなくてもいいようになった。でもまた来月になれば金はなくなるのでまた「金がない」と書く。書いたところでどうにもならないんだけど、気持ちも収まらない。金がないというのはほんとうに気持ちが収まらなくて、そのうち、ほんとうに、こんな生活をしていたら顔つきも変わってくるんじゃないか、顔にその人の性格が出るという、ほんとうなのかはわからないけれど、たしかに「こいつ嫌な顔してるな、いじわるそうな顔してるな」と思うとだいたい合ってる。
 大阪旅行の当日、わたしは深夜バスで向かったのでその日の夕方から急いで荷造りを始めた。なにか午前中に予定があったような気がする、そうだ、喪中ハガキを作りに行ったのだ、それは前の日だったっけ? よく思い出せないけれどとにかく午前中は用事があって、余裕を持つ人はその前からちょっとづつ、午前中に用事があることも見越して事前に準備するのかもしれないけれど、わたしはもちろんそんな性格ではないから、ギリギリまでやらないでやっとやった。
 ギリギリでいつも生きていたいから、という歌詞があるが、いつもギリギリで生きていたい、とは思わない。できることなら余裕を持って生きたい。しかしそもそも生まれた瞬間から切羽詰まっているのだ人間は、何を今更、そんなところだけ余裕を持ったって焼け石に水じゃないか。「焼け石に水」の意味もよくわかっていない。たぶん、意味がないってことだろう。
 大阪旅行の準備をしているとき『極道の妻たち』を観ていた。さいご、かたせ梨乃のおっぱいを死にそうなのになかなか死なずに咥えている世良公則に、ほんとうは世良公則は死んでいない、役として死んだ(死にそうになっている)役をやっている、でもぜんぜん死なずにいつまでもおっぱい触ってるから、お前ほんまはどっちやねん、今は役として触ってんのか、世良公則として触ってるのか、
はよ死ねや
 わたしは東京出身なので関西弁はしゃべらない、大阪に着いてホテルに入る前、深夜バスだから早朝に着いて、観光するのにゴロゴロキャリーケースを持って歩くのはたいへんだから駅のコインロッカーにあずけようと、探したけれど見つからなかったので駅員さんに、
 コインロッカーこのへんにありますか?
 わたしはかなりイントネーションを意識していた、むこうも、
 この道をまっすぐ行ってもらって、左に曲がったらあります
 ということを、もちろん一言一句覚えていない、関西弁のみごとなイントネーションで言った、
 知ってる人も読んでいるかもしれない、いや読んでいないと思う、もともと喫茶店でバイトしていてそこにYという関西出身の女性がいた、二つか三つ年上だったと思う、よく知らないというか、その人とそんな話をしたかもしれないけれど覚えていないけれど、山下澄人『FICTION』にも、
「二人の関係性を書かずにいきなり会話だけを書くと、二人の関係がわからないからなんの話をしているのかわからない、と感想をもらうけれど、関係を書かないとわからないというのはほんとうか? そもそもそのわかる、とはどういうことなんだ?」
 と書かれていた、もちろん一言一句は違う。そんなことはよくて、やっぱり関西弁ってかっこいいからみんなマネをしていた。ちょっと古いけど千鳥の「○○なんよ」はもう共通語になっている、そんな感じでみんなエセ関西弁を使っていた。もちろんわたしは使わなかった。ほんとは使いたい、言ってみたいって気持ちもあったのかもしれないけれど、あんなにサマにならないし、サマにならないからダサかった。
 触るならちゃんと触りぃや
 岩下志麻が、あの生え際が魅力的な俳優、名前はわからない、聞けばわかる、その人が着物の上から岩下志麻の太ももを触ると、その手を取って、
 触るならちゃんと触り
「触りぃや」とは言わなかったかもしれない、とにかく着物の裾をまくし上げて生でももを触らせる。もともと関係のあった二人だったのか、会話はよく覚えていない、『ミンボーの女』で、
 でも映画じゃ殴ったりドンパチやってるじゃないですか
 あれはヤクザ同士の抗争の話、私たち一般人には手をかけてこないわ
 伊丹十三はこの映画を撮っているときにヤクザに襲われたらしい。
 保坂和志と、『仁義なきヤクザ映画史』を書いた伊藤彰彦の対談で、
 ヤクザを映画にするっていうのは本当は危険なことなんですよ
 そのときに『ミンボーの女』の話が出てきたわけではなかった、でも思いだした。

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