2020/12/28(未明-p.78)

 クリスマスイブに下北沢に行って、『プルーストを読む生活』を買った。「日記屋 月日」というお店に行った。「日記屋」と付くぐらいだから日記がたくさん置いてあって、店舗は小さいけれど安心感みたいなものがあって、その安心感は、まえ池袋のジュンク堂に行ったとき、あそこには山のように本がたくさんある。最寄り駅の、私がよく行く本屋さんもまあまあ大きい店だが、その2倍ぐらいの本の量があるような印象で、よく行く本屋には1冊もなかった小島信夫の本がなんと6冊もあった。それだけで嬉しくなって、いま思えば、P+B BOOKSの『別れる理由』の1巻だけでも買っておけば良かった。長いからどうせ買っても読み切れないわ、と思って買わなかったんだけど、買ってきただけで読んでない本なんか、部屋にいくらでもあるじゃないか!

 ブコウスキーの『死をポケットに入れて』も日記屋 月日には置かれていてまた私は嬉しくなった。そのとなりに遠藤周作の『ウスバかげろう日記』(河出文庫)が置かれていて、
「この本は見たことないなあ…」
 と手にとってパラパラ読んだが、日記はやっぱり読まれることを想定してないというか、ただ習慣として、べつに書かなくてもいいんだけどでもいつもの習慣で、気がついたら日記帳の前に座っていて、気がついたらペンを握って手が動いて書いていた……、みたいな文章が良くて、持てる文章技術を使って書かれている匂いを感じると、
「それは日記じゃなくて、エッセイだろ!」
 と思って、遠藤周作のそれはまさにそんな感じの文章で、これは買わなくていいや、とまた戻した。
 それに比べるとブコウスキーの方はほんとに「日記!」という感じで、手が動くまんまに、タイプするまんまに「わが友」マッキントッシュと手を取って、死とロンドを踊る。

 わたしは死を左のポケットに入れて持ち歩いている。そいつを取り出して、話しかけてみる。「やあ、ベイビー、どうしてる? いつわたしのもとにやってきてくれるのかな? ちゃんと心構えをしておくからね」(同上、p.20)

 書くというのはわたしが飛ぶ時。書くというのは情熱を燃やす時。書くというのはわたしが左のポケットから死を取り出し、そいつを壁にぶつけて、跳ね返ってくるのを受けとめる時。(同上、p.23) 

 なによりもまず自分が楽しいから書いている/書いたという感じが溢れてて嬉しくなる。

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