タイギゴ (11)


保坂 じゃあ、やらないという選択肢はないんですか?
横尾 やらないとその心情はわからないんですよ。だからとりあえずやって、ああやっぱり、嫌だなあって思う。
保坂 わかった。それが生きるということ。とりあえずみんな1回生きてみて、あ、やっぱりやだなあ、死んでるほうが楽だなあ、生まれるんじゃなかったなあって思う、そういうことですか。
横尾 全く保坂さんの言う通りです。その心境に到達すると悟りです。
保坂 生まれる前の自分のいない状態を誰も恐れていないのに、なぜ死後の世を恐れるのか。
横尾 それは、いろんな見方があると思いますよ。生まれる前は死の世界にいたんです。つまり死んでいたわけでしょう。死の世界で満足しなかったので、もう一度、現世になりたかったんです。死ぬのが怖いというのは再び生まれる以前の世界、つまり死の世界にまた入るので、以前の死の世界で満足していないかったから、再び満足しない世界に行くのかと思って怖がるんです。
(「だらけることが一番真面目 横尾忠則さん×保坂和志さん×磯﨑憲一郎さん「アトリエ会議」③後編 」https://book.asahi.com/article/12958469)

 祖父が亡くなって葬儀で、棺に花をいっぱいに満たしたあと、お坊さんが祖父にむかって語りかけていたのは、胸元に葉っぱのような形の、たしか色は黄色と赤と、もう一枚は緑か青色だったと思う。
「これは、黄泉の国に行くチケットです」
 と、そんなようなことを言って、祖父の胸元においた。
「これは○○様に渡してください」
 と教えられていた。
 あとになって母が、
「宗教ってやっぱり、現世の人のものだよね」
 と言って、誰かが、
「葬式は残された人が納得する(亡くなったことを受け入れる)ためのものだ」
 と言っていたのと同じだ、祖父の魂が、本当に黄泉の国に行くのにあのチケットを仏様に手渡しているとは思えない。それは現世の価値観だからなのかもしれないけれど、僕にはイメージがつかない。
 死んでいる方が楽、だとは思わない。ただ、生の世界にいると死の世界に憧れて、反対に、死の世界にいると生の世界に憧れる、ということはある気がする。「死の世界で満足しなかったので、もう一度、現世になりたかったんです。」それは仕事をしていると休みたくなるが、ずっと休みが続いていると「そろそろ仕事がしたいな……」と思ったり、都会で暮らしていると緑に囲まれた田舎での暮らしに憧れて、田舎にいると文明のある都会に行ってみたいと思うのと同じで、どっちがいいってことはない。上京してもたまにはふるさとに帰りたくなるし、初めの三日ぐらいはいいけど、ずっと休みだと暇になってきて、だんだん働いていないことが不安になってきて、そろそろ仕事したいと思う。揺れている。どっちかに安住することはない。ただ、〈都会と田舎〉〈仕事と休み〉のように、生と死の世界はカンタンに行ったり来たりできない。誰かがTwitterで、
「命のおかわりはありませんから大事にしなさい。と子どものころ学校の先生に言われた」
 ことをツイートしていたが、死の世界に心惹かれたからといって死んでしまっては生の世界に戻れない。でも戻れるのかな。もちろん“今の私”としては死んでしまったから“今の私”を生き直すことはできないけれど、ほかの生物として、また生の世界に戻ってくることはできるのかもしれない。
 でもだからといって、途中退場してもいいとは思えない。やっぱり自殺はダメだ。他人を殺すのと同じくらいダメなことだ。自分を殺す以上に、他人を殺す行為だ。ものすごく深く傷つける。
 三月一日に祖母が亡くなって、祖父は病院に駆けつけたらすでに亡くなっていたが、祖母は最期のときを病室で見守ることができた。祖母の傍らには父と母と僕がいて、年齢的に祖母が亡くなり、父が亡くなり、孫の僕が最後に死ぬ。それが順番だ。幸運なことに、祖父母が亡くなる前に父が亡くなることはなかったし、親より先に僕が死んでしまうこともなかったけれど、年齢的に祖母が先に亡くなることは分かり切ってるはずなのに、父は祖母が息を引き取ったあと(祖母は肺に水が溜まっていて呼吸がままならず、最期は苦しそうにしていた)、
「よくがんばった。よくがんばったね」
 と言う声が震えて泣いていた。自分より先に母親が死ぬことなんて、ずっと昔から分かり切っていたはずなのに、それでもやっぱり悲しいことなんだと思ったとき、もし、俺が父や母より先に死んだら、どんなにこの二人は悲しむだろう、と病室で思った。死んじゃいけないと思った。自分の力ではどうすることもできない病気とか事故は仕方がないのかもしれないけれど、自殺は絶対ダメだ、すくなくとも自らの手でこの二人を悲しませるような死に方をしたらダメだ、こんな親に寄り添うようなことなんか考えたこともなかったくせに、そのときは思った。

 その日のことをもうすこし詳しく書くと、朝七時に電話がかかってきて、相手は父だった。母が出た。俺は仕事に行くために朝ご飯を食べているところで、母も仕事に行くところだった。母は電話に出て、
「うん、うん」
 五分ぐらい話をしていた。我が家では亀を二匹飼っていて、高さ百㎝くらいの、ホームセンターに売っている三段のラックの上にチッチという名前の亀と、真ん中にトットという名前の亀の住処があって、いちばん下に固定電話を置いている。なんでそこに父が置いたのか分からないけれど、父の電話を置くセンスはよくない。たしかによく電話がかかってくるわけではないし、ほとんどセールスの電話だったりで、一旦留守電で誰がかけてきたのか確認してから電話に出るから、移動の激しいところとか、ダイニングテーブルの上とかに置くほどではないんだけど、あんまり遠くに、たとえば二階とかに置いてしまうとかかってきても気が付かないからどこに置くかは難しいんだけど、亀を飼っているラックのいちばん下に置いているから、電話に出るときは中腰になるか、フローリングにぺたんと座ってしまうしかない。母はでも床に座るのはしなくて、中腰で話を聞いていたから、ダイニングテーブルのイスを後ろに置いてやったら、座って話を続けた。加齢していくとどれぐらい体がしんどくなるのかはまだ俺には分からないけれど、たぶんしんどい。老いも死も直面してみないと分からない。
「おばあちゃんの呼吸が浅くなってるんだって。お父さんは今帰ってきて病院に行くけど。一緒に行く?」
「病院は入れるのかな?」
「入れるんじゃない? 仕事休めるの?」
「仕事はべつに休める。
 じゃあ行く」
 いつもだったら「べつに仕事休むほどじゃない」「行きなさい」と言うんだけど、先週の天皇誕生日の日にも病院から電話がかかってきて、父が仕事を早退して昼に会いに行き、夕方には父と母の二人で会いに行った。
「あんまりこういう質問するべきじゃないのかもしれないけど、先生に、
『もう今週いっぱいってところですかね?』
 って訊いたら、
『そうですね』っていうからさ」
 これは天皇誕生日の夜の会話だ。今朝病室に着いて先生と話をしているときに、
「今夜が山ですかね」
 と話していたが、朝のうちに亡くなってしまった。
 ご飯を急いで食べた。歯を磨いている間に父が帰ってきて、洗面所のドアを開けて、一瞬俺の顔を見て、考え込むような間があって、
「病院から連絡でよ、おばあちゃんがあぶねえんだって」
「(母から)聞いた、聞いた」
「聞いた? どうする? 行く?」
「行く」
 いそいで準備して行くつもりだったけどそんな感じではなかった。
「そんな格好じゃなくていいよ」
 仕事に行くつもりだったからスーツを着ていた。そのときは今日亡くなるとは思っていなかった。「呼吸が浅い」というのもイメージがつかなかったから、あとでも書くと思うけど、実際に病室について見るまで分からなかった。
 ジーパンに履き替え、トイレを済ませて出発する。T病院はすぐ着いた。もっと遠いと思っていた。以前一度来たことがある。祖父の認知症の薬を受け取りに来た日だった。父も母も仕事で行けないから車で取りに行ってくれ、と言われた。どうしてそうしたのか覚えていないんだけど、病院の駐車場には停めないで、近くの、本屋とか薬局とかが入っている大きなスーパーマーケットの駐車場に停めて取りに行った。夜になっていた。もう外来の入口は閉められていて、宿直所みたいなところに行ってもらった。たしか立て看板があった。「時間外のお薬の受け取りはこちら」と書いてあった。行ったら窓口におじさんが座っていて、祖父の名前を言ったらすんなり渡してくれて、あっけない感じで終わったのは覚えている。車の免許の取りたてで、近所のスーパーとかには行っていたけれど、こんなに遠いところは初めてだったから緊張しながら行ったけどあっという間に終わった。
 たしかその病院はT病院だった気がしたんだけど、今日行ったらここじゃないような気がした。そのときは夜で、今は朝だから違う病院のように見えているのかもしれないし、勘違いでほんとうに違う病院なのかもしれない。でもたしかT病院だったと思うけど、違ったかな。
 面会証をもらって中に入る。とくにPCRもしなかった。危篤だから入れてくれたのか分からないけれど入れてくれた。外観を見たわけではないので勝手な想像だが、病棟はいちばん大きなビルの四階から九階だった。祖母は五階にいるらしかった。エレベーターで五階まで上がって、ちょっと待ってて、と言われて父だけ病室の方に向かった。こういう病棟の病室に入ったのは、はじめてではないと思うけれど、思い当たらなかった。ずっと廊下が続いていて、手前にナースステーションがあって、その奥に扉がいくつもあった。
 まったく俺のイメージがアップデートされていないので、病院と言えば田宮二郎版『白い巨塔』の感じで、廊下も白いタイルのキュッキュしている感じかと思ったが、木材が多用されたやさしい雰囲気の病院だった。もう、あんな『白い巨塔』みたいな病院は、今は造られない。
「こうへい!」
 父が「来い、来い」と手で呼んでる。「はやく来い」。なんとなくしばらく待たされると思っていたらすぐ呼ばれた。母と一緒に病室の方に向かう。私たちは外気に当たった私服を着ている。こんな格好で来てしまって申し訳ない、気持ちだけでどうこうなるものなのか分からないけれど、あんまり空気を動かさないように、でも急いで病室に向かう廊下を歩く。
 祖母の病室の前には合わせて四~五人の看護師さんとお医者さんがいた。父は服の上から水色の防護服のようなものを着ていた。コロナのニュースの時に映るような厳戒態勢の防護服ではなくて、服の上から羽織る、首もとまである大きなエプロンのような防護服で、男性の方が着るのを手伝ってくれたが、ショルダーバッグをつけたまま着ようとしていて(父がそうしていたのでそうした)上手く着れなくて、
「カバン、取っちゃいましょうか」
 と言われて取った。少し手が震えた。普段から鈍臭いが、こういう状況になるともっと鈍臭くなる。
 首に輪っかを通し、後ろでヒモを結んでもらう。部屋の前に泡タイプの消毒液があって、二回プッシュして手の平を消毒し、中に入るとおばあちゃんがいた。
 おばあちゃんは酸素マスクをつけていた。「おーい!」と父が声をかけると目を開いてこっちを見た。俺は声は聞こえなかったけれど、母によるとそのとき、
「ありがとう」
 と絶え絶えの声で言ったらしい。おばあちゃんは何か言おうとしていたけれど、息を吸うのにいっぱいいっぱいで、
「あー、あー」
 と声をあげるのも苦しそうだった。何か言おうとしていた。俺たちが来たことは分かっているみたいだった。
 苦しそうだった。時々苦しい顔をした。肺に水が溜まっていて苦しいのだ。足をさすったりするしかできなかった。息が苦しいというのは本当に苦しい。
 病室には一時間半ぐらいいた。亡くなるときはあっという間だった。太陽が沈むみたいにゆっくり、少しずつ呼吸が浅くなっていって、それも長い時間をかけて徐々に、まわりの人は気が付かないぐらいちょっとずつ小さくなっていくのかと思っていたがそうではなかった。あんまり思い出せないが書いてみる。
 最初は心拍数が一一四ぐらいあった。苦しそうではあるがまだ呼吸をしていたときだ。それがどんどん小さくなって八〇台になった。そのころにはかなり呼吸は浅くなっていて、早くなっていた。喉のところに痰がからんでいるのか、息を吐くたびに、ゴロゴロゴロ……と音が鳴った。
 ちゃんと肺まで息が届いているのかな、と思うぐらいに呼吸が小さくなっていったとき、私はペースメーカーを見ていて、六十二ぐらいだった。と思った途端に心拍数がぐんぐん下がっていって、
「あっ、あっ……」
 と頭で思っているうちに呼吸をしなくなって、目では様子を見ていたのに分からなくなり、祖母の横に父と母がいたんだけど、父が、
「息しなくなった」
 と言ったのと同時くらいに心拍数のモニターがピー!と心臓が止まったときに鳴る音がして、警告のアラームと赤い光が点滅した。
「ナースコールどれだ?」
 と父が探して、病室に入ったときに、
「なにかあったらナースコール押していただいても大丈夫なので」
 と言われていた。枕の横の壁に引っかかっているナースコールを押すと看護師さんが来て、
「先生呼びますね」
 と言って、アラームが鳴っているモニターを消して出ていった。慌てる様子ではなかった。さっき看護師さんは、
「今の状態だと患者さんはとても苦しいと思うので、言い方悪いですけど、酸素を過剰に投与してあげた方が苦しくないと思います。ただ、そうすると二酸化炭素が減って……」
 そのあとなんと言われたのかは忘れてしまったが、亡くなるのを早めてしまうというようなことを言われたんだと思う。母は看護師で、
「はい。お願いします」
 と答えた。今日亡くなるとは思ってなかった。今は危険な状態だけど、しばらくしたら回復するんだろうと思ってた。回復して、「また来るねー」と言って僕たちは家に帰るんだろうと思ってた。延命ではなく、とにかく苦しくないようにしてくれた。ちょっとして女性の先生と男性の先生、看護師さんの三人がいらして、女性の先生が祖母の瞳孔に光を当てて、そのあと心音を聞いて、
「目に光を当てましたが反射反応がありませんでした。
 心音は確認できませんでした」
 と言って、
「九時三十五分、お亡くなりになりました」
 と言われてお辞儀した。お医者さんと看護師さんが部屋を一旦出ていったあと、
「がんばったね。
 よくがんばったね。
 苦しかったね」
 と声をかけていた。
 お医者さんには「お亡くなりになられました」と言われたけれど、目に光を当てたり、聴診器で心音を聞いている最中に、また心臓は動き出したのか、マックスは四十五ぐらいまで心拍数を出してた。もちろんお医者さんの診断的には亡くなっているんだけど、そんなきれいに線引きできるものではない。病院の売店で病院から外に出るための浴衣を買ってきてください、と言われて母と一緒にエレベーターに乗り、一階の売店に向かった。途中、エレベーターに六〇代くらいのおじさんが乗ってきた。僕がエレベーターのドアの開くボタンを押していると、
「ありがとうございます」
 と言ってくれた。おじさんはドアから見て左側の手前に立った。一階に着いて降りるとき、僕が右側のボタンの開くを押して、そのおじさんに先に降りてもらおうとしたら、おじさんは、
「どうぞ、どうぞ」
 と開くボタンを押してくれて、僕は、
「ありがとうございます」
 と言って降りたら、外来の患者さんがたくさんいて、もう十時になっていた。
 売店に向かう途中でいろんな人とすれ違ったり、待合のベンチに座っている人を見たが、この人たちは、僕たちがさっき家族の最期を看取ったとは思ってもいない。思うはずがない。こちらもその人がどんな病気を抱えているのか知らない。売店はコンビニの横にあった。おむつ、下着、歯ブラシ、老眼鏡など、身の回りの日用品が売られていた。その中に浴衣もあった。
「おばあちゃん、Sかな?」
「小さいもんね。
 裏に身長書いてあるよ。S、一五六センチだって。こんくらい?」
「Sだね」
「うん、Sだね」
「柄はどっちがいい?」
 浴衣はわりとゆったり花柄が配置されているものと、ぎっしり配置されているものと二種類あった。ゆったりの方がかわいかった。
「こっちの方がいい」
「じゃあ、こっちで」
「四千四百円もする」
 会計をしてくれたおばさんは、この浴衣を買いに来たってことはどなたかお亡くなりになったんだ、と分かるんだろうか。僕は、
「今さっき、おばあちゃんが亡くなったんです」
 ということをみんなに言いたかった。部屋に戻り、ゆかたを置いて三人で話していると看護師さんがやってきて、ではご用意しますのであちらの待合スペースでしばらくお待ちください、と言われ部屋を出た。
 ずいぶん長い時間のように感じた。呼ばれて部屋に戻るとシーツがきれいにピンと張っていて、髪の毛もきれいにしてくれていた。
「口が開いてしまうので、ちょっと不恰好ですが」
 と、顎のところにタオルを挟んで、口が閉まるようにしてくれた。おでこのところを触ったら、まだ温かかった。
 さっきまで息を、つい今朝まで息をしていたのに今はしていない。今は死んでいる。でも温かい。さっきは生きていたから。さっきまでは苦しそうにだけど息をしていたのに、今はしていない。でも苦しそうにはしていない。苦しいのはしんどい。祖母は家で寝ているときと変わらない顔をしていた。あのときと今、何が変わらないのか。あのときは生きていたのに、今はなんで死んでしまったのか。あのときは死ななかったのに、今は死んでしまったのはなんでなのか。
 分からない。死んでいない気がする。ついさっきまで元気だったのがなんで死んだ? 意味が分からなかった。意味というか、分からない、棺に入ったおばあちゃんを見て、お線香を上げて、手を合わせているときがいちばんよく分からなかった。今手を合わせているおばあちゃんは今朝まで生きていた。火葬場の順番待ちで葬儀は十日後になるらしい。ドンドン話が進んでいき、冷凍庫におばあちゃんは入る。その前に線香をあげて手を合わせた。そのときが一番よく分からなかった。「なんでここにいるんだろう?」
 死んだらどうなるんだろう。何もできなくなるのか? たぶん天国ではなんでもできるようになる。行ったことがないので本当のところは分からない。世界の生きている生物の数は、いつも同じだそうだ。だから今日祖母が亡くなった分、どこかで命が誕生した。天国ではなんでもできるかもしれないが、ベッドに横たわって苦しく息をしているときはなにもできない。こうして文章を書くことはできない。「死ぬまで書き続けたい」なんて言っているけれど、いったいその死ぬ瞬間はいつのことを言っているのか。入院したら書けない。書けなくなるまで書く。書けなくなるのは死ぬ直前なのか、もっと手前なのか。
「沖縄玉砕の日と、広島の原爆の日と、長崎の原爆の日と、終戦記念日は朝から晩まで働くことにしている」
 とヒダカさんは言った。今日は朝から晩まで働く。小説を書くことぐらいしかないんだけど、今日は書かなきゃいけなかったと思う。そして書けてよかった。
 まだ書くのはしんどいが、今日書いておかないと忘れてしまう。今日のところはとりあえず、忘れないために書いた。

 病室の枕もとには、去年の八月に亡くなったおじいちゃんの遺影と、おばあちゃんが七歳か八歳くらいのときの家族写真があった。八十八歳(か、八十六歳)で亡くなったので八十年ほど前の写真だ。もちろん白黒で、全部で十人いる。中央に和服にハットを被ったおばあちゃんのお父さん(僕から見ればひいおじいちゃん。会ったことはない)、左隣に赤ちゃんを抱えたお母さんがいて、この人は早くに亡くなったらしい。お母さんの話は何度も聞かされたが、いざ思い出そうとする出てこない。村中の人に慕われていて、お葬式にはたくさん人が来たらしい。去年の八月のおじいちゃんの葬儀では、
「もう昔みたいな何百人も呼ぶ葬式はやらないんだよ」
 コロナもあるから家族葬だった。昔、小学生のとき友達のお父さんが亡くなって、通夜にだけ参加したことがあった。同じ葬儀場だったが、お焼香のために外まで列ができていて、駐車場に入るまでにも列ができていた。

(つづく)

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