2021/02/24(未明-p.22)


 このnoteの日記には「読書をする日記」という、なんの捻りもない名前がつけられている。阿久津隆さんの『読書の日記』にはシャープさがあるけれど、こちらにはない。ただ、「読書をする日記」っていうことだから、日記が読書をしているみたいなイメージがなんとなく私の中にあって、(よくこの日記では一人称を「私」と書いたり「僕」と書いたり「俺」と書いたりするけれど、全部〈私〉のことを言っています。なんとなく、そのときの流れで書いてしまって、あとで直すのも面倒くさいからそのままにしている。「口で会話しているときはそんなこと気にしていないのに、なんで文章になった途端に、統一されていないといけないと思ってしまうのか」という反論? 意見? 気持ち? もあるんだけど、読まされる方としては、コロコロ変えられるとうっとおしいと思う。でもそのときはその方が書きやすいからそうしている。)いちばん理想的なのは、読書をしながら日記を書くことだ。

「よそのうちによばれに行ったら簡単におかわりをもらうんじゃねえぞ。」と釘を刺す。山梨の人はザ行の発音がダ行になるから、最後は「もらうじゃねえど」だ。
 こっちは「いいえ、もうじゅうぶんいただきやした」とおかわりを辞退するが、向こうは「そんなに遠慮しんで、もう一杯ぐらい(いつぺえぐれえ)いいら。」と勧めてくる。その勧めに簡単にのってしまうと「図々しい」とか「いやらしい」ということになり、「あの人はよそん家(え)の飯だと思って二杯(にへえ)も食った。」という評判になる。もう一回ぐらいは断らなければならない。しかし向こうはきっともう一回勧めてくる。私はそのときにも遠慮したら今度は「水臭い」と言われたり「気取ってる」と近所で噂になったりする。(保坂和志『未明の闘争(下)』講談社文庫、p.13)


 いいものに出会うと自分も書きたくなる。今は筒井康隆の『ジャックポット』を読んでいて「こんな小説が書きたい」と思うし、柿内正午の『プルーストを読む生活』を読んで日記を書きたくなったし、〈kaz〉という方がTwitterに挙げているオイルパステルの絵を見て絵を描きたくなった。伊藤比呂美の詩を読んで詩を書いてみたりもした。いいものに出会うと自分もやってみたくなる。
 でも『未明の闘争』は、もちろんおもしろい小説だから書いてみたくなるし、実際書いてみたけれど、できない。『未明の闘争』は回想を書いているような感じだけど、なんて言うか、すごく駆動している。俺が回想を書くと〈点〉になっちゃう感じがして、それは小説ではなく日記だ。「今日はこんなことがありました。あの人がこんなことを言って、私はこんなことを思いました」みたいな、現在から眺めている過去の〈点〉の記憶だ。
『未明の闘争』は回想が〈面〉で、しかもミルクレープみたいにいろんな回想の〈面〉が何層にも重なっている感じがする。機械できれいに編み込まれた、ユニクロのセーターみたいな織り方じゃなくて、人の手で織り込まれた、すこし不恰好だけど、でも強力に織り込まれたセーターみたいな感じがする。『書きあぐねている人のための小説入門』に「比喩はするな」みたいなことが書かれていた気がする。また小説から遠ざかった。でもこれは日記だから構わない。

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