2021/05/22(ガープ-p.62)


 ある若い人が私に話してくれたことがあります。「二、三年前、われわれ夫婦の間で意見の合わないことがありました。私は妻が冷たすぎると感じたのです。むろん、妻のすぐれた特性はよろこんで認めていましたが、互いにやさしい気持をもてないままに生活していたのです。ところがある日、妻が散歩の帰りに書物を一冊買ってもってきました。きっと私が読みたがっていると思ったのでしょう。私はそういう『心づかい』のしるしに感謝し、読んでみようと約束して、しかるべき場所にしまっておいたのですが、その本がどうしても見つからなくなってしまったのです。幾月かが過ぎ、私も、時折この行方不明の本を思い起しましたし、それを探そうともしたのですが、しかしむだでした。半年もたった時です。別居していた私の母が病気になり、妻は家を離れて姑の看病に行きました。病人は重態でしたが、それが妻のすぐれた面をあらわす好機会になったのです。ある晩のこと、私は妻の働きぶりに感動させられ、妻への感謝の気持でいっぱいになって帰宅しました。私は机に近寄り、なんの気もなく、しかし夢遊病の時のような確かさで一つのひきだしをあけました。するとその一番上にあれほど長いこと見つからなかった本が置き忘れられているのを見つけたのです」
 置き忘れをするということの動機の消滅とともに、その品物の置き忘れの状態も終ってしまったわけです。
(フロイト、高橋義孝・下坂幸三訳『精神分析入門(上)』新潮文庫、pp.82-83)

『精神分析入門』でいちばん好きなところはここなんだけど、数日間どこを探しても見つからなかった「ポメラ」は、柿内さんがいじってくれたおかげで見つかりました。

 自分が自分でないような気がする。「PINFU」という名前はもちろん本名ではなくて、たしか高校時代につけたTwitter上での名前だ。伊坂幸太郎の『砂漠』を読んで感動して、麻雀なんてそのあと大学四年生になるまで牌に触ることもないのに、西嶋がアガろうとしていた「平和」にちなんでつけた。「PINFU」は筆名というか、たまたまつけたものをそのまま使っているだけなんだけど、好きな人のTwitterに自分の名前がでてくるというのはヘンな感じがする。
 ポメラと一緒にどこかに行っていた、小説を書いていた原稿用紙も見つかった。いまのところ小説は162枚になっているけれど、べつに終わる必要もないな、という気がしている。そうは言っても終わるんだろうし、まず飽きたら終わるし、なんか終わった感じの場面になったら終わる。そのどちらかが来たら終わる。飽きていることは飽きているとも言えるんだけど、まだ書けそうな気が、今はしている。
 もしかしたらこの原稿用紙は、あんまり見つからないから、職場に置いてきてしまったのかもしれないと思った。だとしたら大問題だ。新しく入っていきなりこんなものを見られたら、どう弁明したらいいのかわからない。会社員をしながら小説を書きたい。小説を専業で書いている人はたくさんいるのを知っているけど、会社員をしながら書いている人は知らない。知らないから僕がやりたい。パパ頭(@nonnyakonyako)さんが、教員をしながらマンガ家になるための裁判をすると知り、とぉ~~~~~おくから応援する。

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