蝉 (五)
十日目、今朝は蝉の姿を観察した。しないと今日の小説を書けないような気がしたからだ。
「あった」
さすがに両親が朝メシを食っている横で声に出して「あった」とは言わなかった、そんなことをしたら変態だと思われる。心の中でつぶやいた。つぶやくほどのことでもなかった、姿は変わっていなかった。最後に観察したのは三日前だったと思うが、そのときの姿形からほとんど、まったく変化していなかった。
母がベランダに落ちている蝉に気がついて、この猛暑日が続く中、熱いコンクリートの上ではかわいそうだからと、日陰の鉢の上に置いた。そのときはまだ生きた蝉と同じ姿をしていた。
大きく変化したのは翌朝、五日目のことだった。五日目の話を五日目に書かないで、どうして十日目に書いているのかよく分からないが、鉢の中を見ると、蝉は中身をくり抜かれて、文字通りもぬけの殻、身体を覆う甲羅だけになっていた。羽根もきれいになくなっていた。そのとき、ああ羽根も食べられるんだ、と思った。江戸川乱歩の「芋虫」を思い出した。蛹のように見えた。だが蛹には生命が詰まっているが、こちらには殻しかない。指でつつくと力なく転がる。蝉の亡骸は手も足も一本もなくなった腹を上に向けていた。
鉢の中を、ごま粒大小さな黒蟻が四~五匹這っている。私の脳内に、彼ら黒蟻が蝉の甲羅のすき間から体内に入り込んで肉を啄み、自分たちの棲み処に運んでいく映像が映し出された。実際にそれを見たわけではないからこの映像はフィクションだ。私の想像上のものだ。もう一度指でつついてみる。もう観察することはない。まわりの蟻たちも、もう食料の得られなくなった蝉には興味はなく、一瞥もくれない。
今度は山道に乗り捨てられた車両が浮かんだ。何年も放置され、雨風に当たり、ゴムタイヤは腐敗して、車体は黒く錆び付いている。まるで炎上したかのようだ。一瞬、廃墟になった遊園地の光景もリンクした。
車で一時間ほど行った山の中に、地方の遊園地としてはけっこう広大な敷地を持った遊園地があった。遊園地ではあまり遊ばなかったが、夏休みになると毎年ここのプールに家族で来て遊んだ。この遊園地は何年も前に閉園していて、ちょうど先週、廃墟になったこの遊園地の現在の姿をドローンで撮った動画をYouTubeでみたからリンクしたんだと思う。草や樹がボーボーと生い茂る中に、かつて人々が歩いていたコンクリートの道や、頭上を走るアトラクションのレールや、建築物の残骸がまさに死骸のように転がっている。
指でつつけば壊れそうな廃墟、蝉の死骸の比喩にこの遊園地の廃墟を使うこともできるかもしれない、でも廃墟には自然と文明の狭間になるアート的なかっこよさがあって、むかし行ったあの場所は今どんな姿をしているのか見たくなる欲をそそられる。私も廃墟を見るのは好きだった。かつて行った場所であればなおのこと好きだった。見たかった。だから廃墟は蝉の比喩にはならないと思った。廃墟は興味をそそられるが、蝉の、食える箇所のなくなった死骸は、何の興味もそそらないからだ。腐りもしない。変化がない。面白くない。
「生きた蝉がそこにいんの?」
父が言った。
変な言い回しを考えて、ごまかしているのも面倒くさくなったからそのまま伝えた。
「鉢の上に蝉の死骸があって、それを観察してる」
私が観察していることを知っている母もリビングにいたが、母は何も言わなかった。
「そんなのきたないじゃん」
父がそう言ったのは覚えている。しかしその後どんな会話をしたかは覚えていない。記憶の中では気づくと部屋に戻っていて、今日のこの原稿を書き始めていた。
きれいなものではたしかにないと思う。しかしあれだけ乾いて、指でつまんだらパラパラと破けてしまうそうなほど乾いてしまえば、もう汚いとかきれいとかそういう次元の話ではないように思う、両親が仕事に出掛け、妹も仕事に行った。
私も午後から仕事に行くので、あと一時間ほどでこの原稿を揃えないといけない。「揃える」、「書く」ではない。「揃える」は「書く」の先なのか、こちら側なのか、離れたところにあって、書いてしまったから揃ってしまった、という感じがある。みんながいなくなってからベランダに出てたばこを吸った。七~八ヶ月タバコは吸っていなかったのに、五日前に友だちにもらった、そう、あの焚き火の日だ、あの焚き火の日に友だちからもらった新品のたばこ一箱がカバンの中に入っているのを思い出し、取り出して吸った。
もともと、どうしてもたばこが吸いたくなる体質ではなかった、毎日吸っていたときも一日に二~三本程度で、あんまり吸い過ぎるとお腹いっぱいになった。辞めようと思えばその日に辞められたし、現に今まではまったく吸っていなかったし、じゃあなんで吸っていたのかと言われるとよくわからない。たしかに、と思う。別にそこまで「吸いたい」と思っていなかったのに、それでも一日三本ほど吸っていたのはどうしてなのか。でも理由なんか追及してもしょうがないから、そのときは三本吸っていた。暇つぶしのひとつだったんだと思う。たばこを吸いに行けば、大学の構内には今の嫌煙ブームでたくさん喫煙所が会ったわけではなかったし、実際に私が三年生から四年生に上がるときに喫煙所はそれまでの半分以下の数に撤去されてしまった。散歩がてらにたばこを吸いに行く、という感じだった。
以前使っていたライターは処理の仕方が分からないのと、たくさん数があったので、突然、家族も使う台所にドカッと持っていく気にもなれず、そのまま部屋で保管していた。大そうじの時に試しに点けてみたが点かなかった。台所にあるチャッカマンを持ってきてたばこに火を点けた。
たばこを吸うと、心が落ちつくのとザワつくのと半々だった。マーブル模様になっていた、量は同じだった、ように感じていた。
テレビのお見合い番組に参加している。彼はある女性と良い関係になり、二人っきりの時に、
「みんなの前でプロポーズするから、一緒になろう」
と言った。
翌朝になった。参加者の男女は広い牧場のようなところに集められて、男性と女性がそれぞれ横に並んで向かい合って、男性が意中の女性のところに行っプロポーズをした。女性もその人を選べばお見合い成立だった。彼は昨日、その女性と「一緒になろう」と約束した、女性も彼のプロポーズを待っていた。なのに彼はプロポーズしなかった。その女性は美しくなかった。しかしまわりにいる男性たちは、きれいな女性を手に入れていた。自分もきれいな女性が欲しい、でも自分はその波になることができない。お互い余り物となったその女性と付き合おうとしていることが恥ずかしかった。それでいなから女性をトロフィーのように扱っている自分のことも恥ずかしかった。だからなのか、結局は何もしないで、知らん顔をして、澄ました顔をしている。
蝉は今朝も観察していない。十一日目の朝だ。
この小説はいつまで書くのか。山道に乗り捨てられた車のように、もうもらい手はいないから、時間が経って、朽ちていくのをただ待っていることしかできない。それがいつになるのか分からない。昨日までの感じだと、それはずいぶん先のことのように思えるけれど、もしかしたら案外急に、明日とかに来てしまうかもしれない。
時限爆弾を仕込まれているような気分になる。
人間だってうららかに晴れた日に突然強い風が吹きはじめて、そのうちに真っ黒い雲がかかりはじめれば、「雨が降る」とわかる。人間はそこに時間の経過という項を入れて考えてしまうから“予測”になるのだが、“今”というのが一時間ぐらいの幅があると考えたら、雨はもう降っている。気象でいえば、突然強い風が吹くのと真っ黒い雲がかかるのと雨が降るのはワンセットだから、ワンセットの気象の最初がやってきたら、そのワンセットが終わるまでのひとつづきの時間だ。(保坂和志『遠い触覚』河出書房新社、p.11)
こんな感じだ。
すぐ近くに父方の祖父母の家がある。小学五年生までは本当に家の前に住んでいてご近所さんだったかが、私たち家族は引っ越したのですこし離れた場所に住むようになった。それでも自転車で三分ほどの距離だ。
祖母は二人とも認知症で、二年ほど前から病院に通い、毎日薬を飲んでいる。祖母は元気だが、祖父はつねに虚ろな表情をしていて、問いかけても、
「ああ……」
と小さく、溜息とも声ともつかないものをひとこと言うだけだ。だからといって「祖父は元気がない」とこちらの価値観で決めつけていいはずがなく、もう祖父はこちらの世界にはいない。肉体はまだ生きてはいるけれど、精神はほとんど向こう側、黄泉の国の方に行っている。
以前母が、
「ほんとうに“幼児がえり”してるね」
と言った。前後の文脈は忘れた。祖父母のかつての写真と今の姿を見比べてそう言った。前はできていたトイレもだんだんできなくなる、でも食事は箸を使ってできている。これは、食事はご飯を口まで運ばないと食べたことにはならないからで、排尿は便器の中に入らずとも体外に排出してしまえばそれで済むから、一人で済んでる。だからトイレもできていないと言えばできていないけれど、できてる。ここではやっちゃいけませんとか、おしっこは便器の中に入れましょうとかそういうことが出来ないだけで、できてる。できているならそれで充分じゃないかと、思わないでもないんだけど、でもそれではやっぱり困ってしまうのも事実なわけで、ほっとくわけにもいかないけれど、付きっきりでずっと一緒にいることもできない。
祖父は乳児として生まれて、限りなく乳児に近い姿になって死んでいく。それは九十年近くも生きればみんながそうなるのだろうけれど、こんなにきれいに円環していくのか、と思う。その姿を目の当たりにしている。
立川談志は、人間は社会で生きていくための「常識」を親から教わるが、その「常識」や「ルール」を抱えて生きていくことにはそもそも無理があって、「常識」を知るまえの姿が人間として正しい姿なのだ、と言った。
「人間は本能の代わりに文化、芸術を手に入れた」という話もよく聞くけれど、当たっているようで当たっていないような気もする。本腰を入れて本能と芸術の関係を学んだわけではないから印象でしかないのだけど、その根拠を示せる知識も持っていないのだけど、なんとなくそう思う。
本能ってなんだ? 手元にあった『岩波国語辞典 第八版』には、本能は「後天的な経験・学習を経ずに、動物が先天的にもっている一定の生活様式。」とある。「後天的な経験を経ず」とも私はお腹が空くし、呼吸やあくびができる。今もお腹が空いている。これは本能なのか? たとえばライオンは本能で狩りをしているらしいけれど、本能の部分は「お腹が空いた」ということだけであって、狩りそのものは、その空腹を満たすための行動でしかないのではないか。
さっきキッチンに行ってコーヒーを温め、コーヒーを飲みながらこの原稿を書いているけれど、いくら小説を書いたからといって、この空腹が収まるわけではない。没頭してガーッと書いているときにはたしかに、忘れていることもあるけれど、そのガーッという状態がなくなってしまえば、またお腹が空く。おなかは空いていた。お腹が空いていたという状態に気づく。思い出す。お腹が空きたくて空くのではなく、空いてしまう。そのあとにあの鹿の肉を食べたいと思う。
親に教わらなくても勝手にできるものの例として立川談志は「屁、あくび、呼吸」をよく挙げた。本能は「後天的な経験を経ずに、動物が先天的にもっている」ものなのだから、これらは人間にとっての本能で、もしかしたら人間の持っている本能の数は、野生に生きる動物より少ないのかも知れない、そう書きながらいや野生の動物も人間も根っこの部分では同じなんじゃないか、その放出方法が違うだけじゃないかと思い始めている。
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