タイギゴ(25)
(25)
ヒフ科に行き、歯医者に行って、下の前歯の後ろ側がもしかしたら虫歯になっているかもしれなかったから診てもらったら、そこはバイ菌が入って歯肉炎になっていただけだったけど、そこではない他のところに虫歯が3箇所も見つかったので、
「また来週来てください」
ということになった。
小説にも書いたけれど日記を書かなくなった理由はいろいろつけることはできるけれど、全部後付けで、なんだか分かんないけど書きたくなくなった。
「何だか分かんないけどやりたくないんだよ」
立川談志が脳内でそう言っている。伊集院光が、
「自分も談志師匠と同じ年齢になれば名人になれると思っていたけれど、当時の自分より若いときの談志師匠がやっていた「雛鍔」のレベルの違いに軽くノイローゼになって……今思えば越えればいい壁だったんですけど、もう辞めさせていただきますって言って辞めて……」
「うそくせえなあ」
「いや、本当なんです」
「辞める理由を探してるって感じがする」
「まあ、そうですね、他にも理由はあるんですが」
「なんだか分かんないけど辞めたいんだよ。でも、なんだか分かんないけど辞めたいので辞めますとは言えないからそう言っているだけ」
この会話を最近よく小説に書いていて、なんでこれが出てくるのか分からない。とくに何も決めずに書き始めるから、冷蔵庫を開いて、あったもので今晩の料理を作る感じになっているが、実際はそんな晩ご飯の作り方はできないので「これを作ろう」と決めて、必要な材料をスーパーに買いに行く。冷蔵庫の中にあるもので作りました、なんて、けっこういろんな人が、
「余り物で作る」
って言うけど、そんなことできるのか? もう神業に近いけれど、たぶん本当に、バッと冷蔵庫を開いて決めるんじゃなくて、何度も冷蔵庫を開けているから中に何が入っているかがなんとなくインプットされていて、本人は自覚していないけれど、2日後ぐらい先の献立まで頭の中で作りながら今日の晩ご飯を作っているんだと思う。わたしはまだそこまでは行っていないから、YouTubeに落合とイチローの対談があって、もしかしたらもうすでにタイギゴにこの話は書いているかもしれないけれど、
「いいバッターってのは線で引っぱってきて点で叩く。悪いバッターは点しかない。だから飛んでくるボールに衝突していくしかできない」
これと同じで、わたしは「今日の献立」「今日の献立」に衝突していくような作り方しかできない。
最近だったけど仕事の日に、いつもは7時に起きようと思って7時半に起きるが、その日は6時に目が覚めて、二度寝もしないで「起きよう!」と決めて起きた。
「なんとなく早起きしたので洗濯機まわして、コーヒー淹れた。せっかく頭がクリアになっているのにTwitter読んでるのはもったいないと思って小島信夫を読んで、早起きして興奮してたのかもしれないけど楽しく読んだ。」
とツイートした。
「8月から始まる西日本新聞50回連載「その日暮らし」第13回「ゲンと虫歯」書きおわり、送信。今回は子供たちとの日々を楽しく描いていく感じになってきてる。描くのが楽しいし、アオゲンが大きくなった時の思い出になったらいいなと思っている。」(坂口恭平、6月30日のツイート)
目の前に保坂和志『遠い触覚』(河出書房新社)があったので、今わたしは出版社の名前をここに書くつもりはなかったけれど、本の話をするなら出版社名を書く方が「文章作法」としては正しい、それが「常識」的だと考えて書いたけれど、子どもはそんなことしない、ルールとしてこうだからという理由で行動しない。そもそも「保坂和志」とも書かずに、いきなり、
「遠い触覚に書いてあったんだけど……」
と、それが「本」であることさえも言わない。
「ひとり暮らしのときに自分のためにご飯を作る。自分のために作る。だれのことも考えなくていいわけでしょ。栄養とか口合う合わへんとか、そんなこと考えなくていい。そういう時期をもつことは、ひとり暮らしをするってのはすごくいい時期だと思うんです」
YouTubeに土井……、下の名前が出てこないから検索する。こんなにいつも観ているのに名前が出てこない。ヨシハルだった気がするけれどなんかしっくりこない。ヨシハルで合ってた。土井善晴先生だ。土井といえば、江戸時代の土井利勝も大河ドラマ『葵 徳川三代』ですごくよかった。結城秀康もよくて、なんか観たことある顔だな、と思ったら『葵 徳川三代』が放送されていたのが2000年、同じ2000年に『未来戦隊タイムレンジャー』も放送されていて、浅見竜也(タイムレッド)の父親の浅見渡が同じ俳優の岡本富士太だった。
(同じ年に一年間あるドラマを2本も!)
今YouTubeでタイムレンジャーは毎週金曜日に2話ずつ配信されているので観てください。
文章にしたり、本にしたりするときにはいろいろなルールがあって、でも本当はそんなことはどうでもいいと思いたい。「思いたい」ってことは、どうでもいいと思えないから思っているんだけど、
「小説ってこんなことしていいんだ!」
と思えたのはコロナ真っ盛りに読んだ『読書実録』で、
「ウィキペディアによると……」
とか平気ででてくる。ウィキペディアを参考にしていいの? 大学生のときは「ネット記事でレポートを書くな」と言われた。だから一生懸命文献に当たった。柿内正午は『会社員の哲学』で、
「不真面目な僕はコトバンクで意味を調べてみた。」
と書いているが保坂和志はそんな前置きをしない。いきなり、
「ウィキペディアによると」
と書く。『読書実録』にもたくさん引用がでてくるが、さすがに本の最後には引用文献の一覧が書いてあるけれど、引用しているそのつどそのつどには引用した箇所のページ数もほとんど書いていない。編集する側は大変だろうな、と思うけれど、そういう「大変だろうからこうした方がいいな」と思うことが、そのつどそのつどは小さなことかもしれないけれど、それが積もっていくと書き手の自由さをちょっとずつ奪っているのかもしれない。しかも、それは本当に編集者がつらいのか分からない。あくまでも自分が想像する「編集者の気持ち」であって、
「こういうことしてるんだけど大丈夫?」
って訊けばいい。そもそもそういう出版業界のことはなんにも知らない。保坂和志の考えていることがすべて正しいとも思ってない。でも影響はものすごく受けているけれど、だんだん今までの興奮からはすこしずつ熱は冷めてきている。冷静になってきている。でもこの前小説的思考塾で巣鴨で目の当たりにしたときは、
「うわっ、保坂和志だ」
と思った。そのときに「なんか失礼があったらイヤだから静かにしている、はじめてここに来た青年」なんて演じなければよかった。あとでも書くけど、
「何歳?」って訊かれて、
「26歳です」
って言ったら、
「26ならもっと来なきゃダメだな」(お行儀よくしてんじゃねえよ)
と言われた。その通りだった。
自分で本を作るときは作者は自分で、編集も自分だから、あとで本にするときにどの本の何ページから引用したかが分からないと困るから、もともとそういう気持ちで、つまり本にさいしょっからしようと思って日記を書きはじめたわけではなかったけれど、そのときは本当は引用元を書きたくなくて、そのことも日記に書いてある。「ほんとはめんどくさいから書きたくないんだけど、『プルーストを読む生活』はどうしてるかな?」と見てみたら、柿内さんはちゃんとタイトルとページ数を書いていたから、同じようにした。
『遠い触覚』を開いたら父の葬式の話だった。つい最近お葬式があった。職場の先輩のお母さんが亡くなったのだけど、コロナも一応落ちついた(ということになっている)のでみんなマスクはしていたけれど、家族葬ではなく、コロナ前のような規模でのお葬式だった。わたしは香典も準備していなかったし、受付のところで同僚が香典を出しているのをみて、
「あっ」
っと思ったがもう遅いので、名前と住所を書いた香典カードだが、そんなのを書いて受付の人に出した。年齢だけはいっちょ前に「大人」になっているけれど、知らないことばかりというか、こういう経験を何度もして「大人」になるというか。それで『遠い触覚』には「お葬式は、しなければいけないこと、が多い」というようなことが書かれていた。その、お母さんが亡くなった同僚がそう思っているということを書きたいわけではないけれど、故人を弔いたい、感謝を伝えたい、ちゃんとお見送りをしたい、という気持ちは間違いないけれど、それに付随して「しなければいけないこと」がたくさんある。たとえばお通夜のときに軽食を用意するとか、お持たせを用意するとか、来た人に粗相がないようにとか、もちろん参列している人も我がが我ががで来ている人なんていないけれど、それでもお返しを「しなければいけない」とか、そういう「いらんこと」が増える。わたしの祖父母を見送ったときは家族葬だったのでだれも来なかった。一組だけ来たけれど、
「辞退させていただきますって言ってんのになんで来んだよ」
わたしはその、おじいちゃんとその息子(もしくは娘)夫婦みたいなのが来て、だれなのか分からなかった。父はそう言いながらももし来た人のためにお持たせを用意していた。(おもたせ、と言うのは手みやげをもらった側がその手みやげを丁寧に言うときに使う言葉みたいで、今回の自分の祖父母のお葬式のときに用意していた手みやげのことを「おもたせ」と言うのは間違っているのかもしれない)
しばらくお葬式はたぶんないだろうけれど、父、母が死んだときどうするのか。父は、
「両親(祖父母)は古い人ですから、法要をしっかりやってほしいだろうけど、僕たちは息子たちにはここまでしなくていいよ、と思っているんです」
と、お坊さんに話していた。わたしも何をしなければいけないのかよく分かってない。初七日、四十九日、納骨ぐらいしか分からない。両親は月命日にはお墓参りをしている。いつも家族のLINEで「今日行ってきました」と報告をしてくれるけれど、両親は祖父母が入っているそのお墓には入らないつもりらしくて、昔は海の見えるところにお墓を建ててほしいとか言っていたけれど、本気かどうか分からない。冗談で「ディズニーランドにちょびっとずつ散骨してくれ」とか言っていたけれど、なにかで自分で調べたらしく、それは犯罪だった。
この前父母わたしの3人でうなぎを食べた。いや、この話を書くのはよそう。父とお坊さんがその話をしたときはなんの法要だったのか忘れたけれど、お坊さんを家に呼んで、お坊さんは午前中に1件終えてから車を自分で運転してきた。
「遅れて申し訳ありません」
と走ってやってきて、父は怒らず、冷たいお茶をグラスに入れてお出ししたら一気にそれを飲み干した。たしか夏だった。足りないかな、と思ったがそのままお経が始まった。
関係ない話だが、入社して間もないころ休日出勤があった。その日の20時から新宿でマッサージを予約していて休日だから残業もないから普通に退勤すれば十分間に合う時間に予約をしたんだけど、その日一緒に働いていた先輩と話しているうちに、
「ちょっとこのあと用事があるのでお先に失礼します」
が言えなくて、でもその先輩が威圧的とかそんな理由ではないのに、わたしがそう言えば、
「あっごめんごめん。長居させちゃってごめんね。お疲れ!」
とすぐ帰してくれる人なのは分かっていたのに、そもそもわたしは入社したてとはいえ同じ職場で2年間アルバイトをしていたからよく知っている人なのにそれが言えなくて、もう絶対間に合わない、でもこれ以上遅くなったらマッサージ屋さんに迷惑がかかるという時間になってようやく、
「すみません、用事があるので失礼します」
と言って帰ってきた。駅に向かう車の中で、
「でも言えないよな~」
しかでてこなくて、でもまあしょうがない。こうなっちゃったらこうなっちゃったで、後悔しても時間は戻せないから、電車に乗って先方には「遅れます」と連絡した。
やっぱりどうしても、今の状態の「わたし」で書くしかない。
「こんなことも知らないくせに○○について語るな」
と言う知識層には中指を立てたい。
こっから先が書けなくなったのが1週間くらい前で、リハビリのつもりでA4のレポート用紙を買ってきてそれに小説を書き始めた。なんとなくシにそれを写真に撮って送った。たまにお互いに気が向いたときに日記送ったり写真送ったりしてる。それに対して、たとえばシから写真が送られてきてもわたしも何かコメントを返したりしないし、シもわたしが日記を送ってもコメントを返さない。そんなやりとりがあったのかは忘れたけれど、たぶんなかったと思うけれど、毎回何か返すのしんどいからやめよーな、と、そんな話してないけどお互いの共通認識でそうなって、自分の文章に「共通認識」なんて言葉がでてくるとドキッとする。なんかもっとカンタンな言葉に言い換えできないのか。テレパシー? なんか分かんないけどわかり合ったのでとくに何も返さないんだけど、わたしがレポート用紙に書いてる小説はシャーペンで、この前研修でシャーペンを使ってたら、いつも仕事んときはポールペンだからひさしぶりにシャーペン使った、大学生のときもそんときは万年筆にハマってたから万年筆で授業ノートもとってた、シャーペン使うのひさしぶりで、使い心地がよかったからもっとなんか書きたいと思ってシャーペンで書いて、手書きするときはだれに見せるものでもないからバーっと乱れた字で書くんだけど、それを送ったらシから早朝に、夜中に一回、
「読めないよ」
と送られてきて、4時間後の早朝に、
「字がみみず」
と送られてきた。それぐらいのときになんとなく起きて、ちょっと前にシから、
「字がみみず」
と送られてきているのを見て布団の中でわたしが笑って、今日は休みの日だったので早起きしなくてもよかったんだけど、最近はなんとなく早起きで、ここまで読んで「なんとなく」って言葉が何度もでてきているけれど、ほんとに「なんとなく」で、この「なんとなく」を今日の文章にいっぱい書いているのはまさに「なんとなく」だし、最近なんとなく早起きなのはほんとに「なんとなく」なのだ。
さっき研修のことをすこし書いたが、午前中の研修のお昼前にお腹が鳴って仕方がなかった。そのときは講義タイプだったので、講師がマイクを使ってしゃべっていてその声がホールに反響しているからそんなにめちゃめちゃ静かってわけではなかったけれど、鳴ればまわりの人には聞こえるぐらいの静けさで、やだなー、恥ずかしいなー、と思ってはいるけれど、自分の意識の80%は「恥ずかしい」で、あとの20%は「そんなこと言っても俺が鳴らしたくて鳴らしてるわけじゃねぇーし」と思っていた。自分でどーこうなるならなんとかするけれど、お腹が鳴っているのは勝手にお腹が鳴っているのであって、俺が鳴らしてるわけではない。そんなことはいっぱいあって、となりの人は研修のあいだずっと寝ていたけれど、眠くなるのもその人がそうしてるわけじゃなくて、勝手に眠くなる。本人もどうにかしようと思っているだろうけれど、どうしようもないときはどうしようもない。
『遠い触覚』の話をしていた。パッと開いたら葬式の場面で、向井かけるさんの日記もお葬式のことを書いていた。
家族3人で出かけるというのはいつぶりだろうか、運転して父親の実家へ行くと、茶間で死んだ爺さんが寝ていた。
(向井かける「2023.07.01」)
最後に杖を添えるのはその場に居るいちばんの若輩者ということで僕だった。(同上)
柩の蓋を閉じるときに、一緒に何か入れますかということで、あらかじめ親族の中でそんな話は出ていなかったので焦り茶間を見渡して、とりあえず長押に飾ってあった昔の表彰状をひとつ下ろし、埃を被った額から取り出して腹の上に入れた。デイサービスで描いていたという塗り絵も入れられた。丁寧に配色も考えて塗られていた。写真も入れちまえと誰かが言ったが、入れられることはなかった。仏間に位牌が4つあり、それは僕の曾祖父母のものらしい、処分が面倒だからそれも入れてしまおうという話になり、ニシノ曰く「火葬上は問題ないけれど、位牌は本来お寺さんでお焚き上げをするもので、一緒に入れるのはお勧めはしないが、まあ、そういう方も、いらっしゃいますね、まあ……」とのことで、なら構わないといい、父がすぐそこにあったスタバの紙袋に入れようとしたけれどそれはどうなんだと僕が言ったので、土産で持ってきた横浜ハーバーの紙袋に位牌が2つ、雑に入れられた。なかなかに適当で良かった。(同上)
家に帰ると父親もちょうど帰ってきたところで、夜のうちに家を出て田舎へ行くのかなと思ったら、いつも通り野球中継をつけて居間で缶ビールを開け始めたので拍子抜けし、僕も冷蔵庫にあったクラフトビールを開け、あとは瓶のウォッカをひたすらに飲んだ。酔いが回ってきたところで、死んだなあ、と父親があらためて言った。巨人戦が延長に入ったので僕は部屋に戻り、代打で出た岸田がサヨナラ・ホームランを打ったことを、後で知った。
(向井かける「2023.06.30」)
7月1日の日記は今初めて読んだ。引用しようとしていたのは6月30日の方でおもしろかったのを思い出して引用しようとしたんだけど、その翌日の日記もおもしろかった。
「人が死んだ話をおもしろいなんて言うのは不謹慎じゃないか」
と、またわたしの中の〈社会くん〉が言っている。勝手に言ってろ、と返す。何言ってんだ。人が死ぬ話なんて世の中にごまんと溢れてるじゃないか。人が死んだり殺されたりする映画を観て、劇場から出てきて一緒に行った人と帰りながら、
「おもしろかったね」
と感想を言い合うじゃないか。中井貴一と糸井重里がほぼ日のYouTubeのストーリーで対談してる動画で、
中井「ある映画で、僕はヤクザの役なんですけど仲間を殺されて、その殺した相手の親分のところに仇を取るというかそういう場面なんですけど、僕がその親分のいるマンションを外から見上げてるんですね。で、僕はタバコを吸ってて、それを最後の一口を吸って道端に捨てたんですよ。そしたら演出が『カット!』って止めて、
『中井さん、ポイ捨てダメなんですよ。コンプライアンス的に』
って。えっ、コンプライアンス? ああ。でもさ、これなに?って。僕もう片方の手に拳銃持ってるんですよ。これ(拳銃)はよくて、こっちはダメなんだ? それおかしくない? 絶対こっち(拳銃)の方がコンプラだろ。
『いやいや、こっち(拳銃)は何て言うか……、嘘じゃないですか」
この話がおもしろくて、コンプラ云々もおもしろいんだけど、拳銃を「こっちは嘘じゃないですか」って言ったのが、映画って嘘は嘘だけどでもそれを嘘に見えないように作ってるのに、拳銃は嘘で、タバコのポイ捨てはコンプライアンスに引っかかる。だからこれ観て真似する奴がでてくるってことなのかもしれないけれど、ビートたけしの映画観てヤクザになった人はどうなるんだ? それはその演出家の言う「嘘」ではなく「本当」になっちゃってる。そもそも「嘘」と「本当」って何やねんって話なんだけど、そもそも「嘘」も「本当」もあるのかよっていう。いや、これ以上この話をするのは蛇足な気がするからやめておく。
(いったん行をあけて)
四月から仕事を始めたのでいろんな場面で自己紹介する機会が多いんだけど、切り口によって、わたしはほんとにいろんな話題がある。それはわたしのことじゃなくて、みんなそうなんだけど、会社用には会社用の切り口で自己紹介するとこんな感じになるし、別のところで自己紹介すれば会社用のものとは異なって、この前機械書房で読書会のときに自己紹介してぜんぜんうまく出来なかったんだけど、それを岸波さんがフォローしてくださったんだけど、岸波さんのわたしの紹介を聞きながら、
「俺ってそんな奴だった」
って再発掘? なんか分かんないけど、『磯野貴理子の老眼鏡』って変なタイトルを日記本につけたり、柿内正午さんとの関係というか影響うけてることとかを紹介してくれて、ああそんなことしてたなぁ〜って聞いていた。向井さんとはそこでひさしぶりに会って、なんか見たことある顔の人だなぁーと思っていたら向井さんが「お久しぶりです。文フリ以来ですよね」と声をかけてくださって、
「コーヒー飲まれる方いますか?」
と岸波さんが言って、
「じゃあいただきます」
と向井さんが言っていたんだけど、そのときに自意識で、
「僕もください!」
って言えなくて、今度はコーヒーを飲みたい。
↑葬式の話からそんな着地だったのか?笑
わたしも祖父母が亡くなるときに、おじいちゃんがあぶねぇ、とか、こんなお葬式だったとか、納骨の話とかを書いたけれど、読み返してみるとおもしろい。変に言葉にすると誤解を招きそうなのでやめておくけれど、異世界のことだからおもしろいというか、生きるとか死ぬとかを考えることはおもしろいことなんだけど、じゃあいざ自分が死ぬってなったら怖いし、ジタバタする。90まで生きようがみんな未練抱えて死んでいくんだよ、と立川談志が言っていた。
ほかの人たちが棺桶になにを、どれぐらい入れるのか知らないが、おばあちゃんの棺には何を入れたのかあんまり覚えていないけれど、おじいちゃんの棺にはいろいろ入れた。金属類は入れないでください、とのことだったのでそれ以外のものだった。まず、おじいちゃんがよく着ていた服。よく着ていたというかそれしか着ていなかった。グレーのナイキのジャンパー、同じような灰色のシャツを中に着て、その下にも何枚も重ね着をして、おじいちゃんおばあちゃんになると何枚も重ねて、冬でも外に出ると、
「帽子持ってきた?」
と聞かれた。もう帽子なんて小学生以来かぶっていなかったから「ないよ」と答えると、
「おじいちゃんの持ってくか?」
とよくおばあちゃんに言われた。しかしどれも古いし汗のシミがついてるし埃かぶってるような感じだし、いつのものかも分からないから「いい。大丈夫。すぐ着くから」とテキトーな嘘をついていた。
棺には帽子も入れられた。毎日帽子をかぶっていた。ズボンは祖父はごみ収集の仕事をしていたんだけど、そのときに着ていた作業着をずっと履いていた。二十年も前に退職した仕事着をずっと着ていた。たぶん亡くなる三年か四年前だったけど、わたしの両親とそれぞれの両親(父方、母方の祖父母)の六人で京都と旅行に行った。そのときは母方の祖母が体調をくずしていて、もう最後だろうからみんなで、歩けるうちに旅行に行こう、と決めて行った。母方の祖母はおしゃれな人だったから、父方の祖母もおしゃれだったが、晩年はあまり外に出なかったからおしゃれをする機会もなくなってしまった、その旅行中、母は毎朝、自分の母親(母はかあちゃんと呼んでいた)、かあちゃんの部屋に呼ばれて、
「どれがいい?」
部屋に入るとベッドの上に三着ほどの服が並んでいて、娘にどれがいいか聞いていたらしい。
「朝からファッションショーだよ」
これがいいんじゃないか、と、そもそもどこの息子も同じかもしれないが、あまり母のファッションセンスを信用していないが、こんなことを書いたらバチが当たりそうだが、山下澄人は小説的思考塾で、
「本人を目の前にしたら言えないことを書く」
と言っていた。わたしはそれをメモした。最後まで身なりを気にしていた人で、そもそも父方の祖父の話をするつもりだったのに母方の祖母の話になっているが、そのかあちゃんは年末に亡くなったのだけど、お正月を迎えるにあたって髪を黒く染めていて、棺には収まったかあちゃんの写真を、東京に帰ってきた父のスマホで見せてもらって、そんな話をした。
その点、父方の祖父、おじいちゃんはいつも同じ格好をしていて、その服を棺に収めた。あと初めて知ったのは、
「親父はなんか書くかもしれない」
と父が言って、小さいスケッチブックとノートを入れた。
「ちょこちょこ何か書いてたりしたんだよ」
それはわたしは見たことがなかった。おじいちゃんが何かを書いたりしてる姿は見たことがなかった。もしかしたら定年後に始めたパソコンの中に何か書いたものがあったのかもしれない。そのパソコンは処分してしまったので分からないけれど、なんとなく、バトンを受け渡されているような気がする。父もその気があった。今は公務員をしているが、もともとはブックデザイナーを目指していて、印刷所で働いていた。その話は日記にも書いたけれど、仕事を早く覚えて、社長に認められたときに、
「デザインの仕事をさせてください!」
と直談判して、さいしょは断られたが、何度も頼み込んで「じゃあやってみるか」と頼まれた仕事をいざやろうとしたら今の職場から連絡がきて、デザインの仕事ができなくなった。ただ、若き日の父は、自分で頼み込んでやっともらった仕事なのに、任せてくれた社長にも申し訳ないと思っていたが、社長が、
「何言ってんだ。公務員になる方がいいに決まってんだろ」
と許してくれた。
「今でもその社長には感謝してる」
という話だった。
それとぼた餅。近所のスーパーで買ったおはぎを祖父は晩年好んで食べていた。他のものはまったく食べなかったがおはぎはいつも二つきちんと食べた。おじいちゃんが亡くなった次のお正月のおせちを食べたときも、遺影の前におはぎを置いた。おばあちゃんは「ねむたい」と言って三十分くらいで部屋に帰って行ってしまった。そのときにはもうガンは末期で、寝ているのがいちばん楽だったのかもしれない。
その年の三月におばあちゃんは亡くなった。
昨日、保坂和志の小説的思考塾に参加した。以前オンラインでは聞いたことがあって、シロちゃんという保坂さんが飼っていた猫が亡くなったばかりのころで、保坂さんが、山下さんの演劇の仲間が亡くなったときに保坂さんもそのお葬式に参列して、その亡くなった方のお父さんがそれまでは明るく気丈にまわりの人と接していたけれど、いよいよお棺が閉じられて火葬される寸前に、お棺にお父さんがすがりついて泣いて、その声が悲鳴になって、ホールの天井から響いて、上から降ってくるようだった。その話をしながら保坂さんが泣いていた回を、もうずいぶん前だと思うけれど聞いて、去年の夏ぐらいだったと思う、で今回はそれ以降も3回くらい小説的思考塾は開催されていたけれど、いいや、いいや、と参加しなかったけれど今回参加したのは山下澄人がいるからで、っていうか保坂和志が目の前にいたのはやばかった。山下さんには去年の冬に青山かどっかであった『君たちはしかし再び来い』の朗読会に参加したから目の当たりにしたのは2回目だったけれど、保坂和志ははじめてだった。小説的思考塾のあとの懇親会にも参加した。もともとオンラインで聞くつもりで、会場で聞くこともできたけれどもう席はいっぱいだろうと諦めていたら数日前にまだ空いてるとアナウンスがあったから、だったら現地で聞きたい、と思って応募した。懇親会は参加費1,000円だった。さいしょの受付のときに1,000円払った。でももう帰ろうと思った。知り合いがいるわけでもないし、立食だけど、だれと何を話していいのか分からない、そもそもだれかに話し掛けるのもできない、お金は払っているけれど「用事ができました」とかなんとか言って帰ろうとしていたが、帰らなくて、同じ卓にいたイマズさん(お名前まちがっていたらごめんなさい)という方が話しかけてくれた。このイマズさん(お名前まちがっていたらごめんなさい。また次回の小説的思考塾でお会いしたいです)が話しかけてくださらなかったらどうにもならなかった。イマズさんは31歳か32歳で、もともと映画を撮ろうとしていたけれど、今は小説を書いている。いちばんさいしょに読んだ保坂和志の小説は『プレーンソング』で、一時間以上話していたけれど覚えていないことも多くてここに全部は書けない。そのあと同じ卓にいた野本さん(これはTwitter上のお名前で本名はちがうってたしか言っていた。わたしは名前を言うときに、本名を言ったり、Twitterの名前を言ったり、いろいろ言っちゃってた)ともお話をして、小島信夫の話をした。
(好きな小説家の話を気兼ねなくするのめっちゃたのしい!!)
「寓話と残光、めっちゃおもしろいですよ!」
「寓話は読んだことないけど、残光はすこし読んでます」
「めっちゃおもしろくないですか?」
「う~ん、まだ分かんないな……」
ちょっと、『残光』はすぐ読みます。というかその日からちょっとずつ読みはじめた。気合いを入れて小島信夫を読むのはちょっとちがう気もするけれど、野本さんを入口にして読んでみようと思います。
それで、そのときにカルロスさんという方も、
「たのしそうにしゃべってるやん」
と言って仲にまざって、この人もおもろいおっちゃんで、音楽の話、山下澄人の演劇のワークショップに参加したら素人だけど「カルロスもなんかやってよ」と山下さんに言われて、「俺、素人だよ?」でもやったらおもしろかった話とか、そこから「会話」の話になった。山下さんのTwitterでたしかに読んだので今探してみたけれど見つからなかったので曖昧な記憶をたよりに書いてみるけれど、山下さんのラボでは参加者の2人のみんなの前に立たせて会話をしてもらうんだけど、そのときに、「今日もいい天気ですね」とか、「ステキな服ですね」とか、見てるこっちも分かるような単純な質問をしてはいけない(これはTwitterじゃなくて、「文學界」のプルーストについて書いている文章で書いていたのかもしれない、今出先なので、あとで確認する)みたいなルールがあって、その話になって、
「そのときの会話って、お互いの話題に添いながら話が展開していく感じなんですか? それとも噛み合っているように見えるけど、お互いにちょっとずつ噛み合ってない話をしているんですか?」
と質問した。カルロスさんがなんとおっしゃっていたかは忘れたけれど、
「いや、そうじゃなくて……」
と言っていたのだけは覚えてる。
会話っておもしろいよね、と最近考えていて、聞かれたことに的確に答えることはたぶんなくて、なんとなく噛み合っているかのように見えながら噛み合っていない、聞かれて答えていることは相手の聞きたいことではなくて、自分が話したいことでしかなくて、去年の就活の面接とか、普段の仕事の会話とかで思ったんだけど、会話を成立させるために相手も「いや、そういうことじゃなくて」とはあまり言ってこない。なんとなく噛み合っているように見えるけれど噛み合っていない。極端に悪用すると自民党の会見みたいになるんだけど、あれは極端すぎて会話になってないから参考例にはならない。でもずっとズレてるのが会話なんじゃないかな。だからヘタな小説は話が噛み合いすぎててヘンになる。でもその感じをまだ言語化できない(言語化しなくていい)から「無文字」なんだけど、
「それが罠にハマってますよ!」
と山下さんが言っていたあの盛り上がりは「無文字」だった。
それでカルロスさんと野本さんに、
「保坂さんと話しましたか?」
「まだ話してないんですけど、行けないです」
「なんでですか! 行きましょうよ!」
と言われて保坂和志のいる卓に行った。目の前に「保坂和志」がいて、キンチョーはしていなかったけれど、何をノコノコ話したらいいのか分からないから、ニコニコ話を聞いていたら、
「何歳なの?」と聞かれて、
「26歳です」と答えたら、
「26ならもっと来なきゃダメだよな-!」
と言われた。帰りの電車の中で池松舞さんと何人かで一緒になって、寝るのも体力だって話になって、なにか質問したらそれに保坂さんが答えてくれた。もっとお話ししたいのでまた参加します。
サインをもらおうと思って『読書実録』を持って行ったけれど直接お話ができたからサインはいらなかった。山下さんともお話ができた。会場の目の前が駐車場になっていて、駐車場の入口の端っこにポールが立っていて、そこに山下さんが腰かけてアイコスを吸っていた。ボブ・サップの話(YouTubeにある「書く気がない人のための小説入門」。もう11年前の対談だけど)、
「あいつがでてきたとき、ああこいつには誰も勝たれへんって思ったんですよね。あいつはなんの技もなく、ダーン!って突進していって、振り回した手がたまたま当たって倒れたみたいな。ただ、あいつが技を覚えだしたときに、ただの弱い奴になっていったんですよね」
「そうならないようにするなんてことは可能なんですか?」
「だって技術を覚えるなんてことは簡単ですもん」
と山下さんは言っていた。なんとなく感じているけれど、わたしの文章には「○○が言った」っていろんな人の言葉が出てくるけれど、そう言うことで、「これはわたしの意見ではないですよ。○○さんがこう言いました。だから文句は○○さんに言ってください」ってなんとなく、予防線を張っているんじゃないか。いや、そんなしょーもないことじゃない。自分の論を補強するために引用してるんじゃなくて、実際に頭の中でしゃべってる。
駅まで歩きながら話ができた。わたしもたばこが吸いたかったけれど紙たばこだし、携帯灰皿も持ってなかった。会場のトイレからでてきたとき、トイレの脇が外に出る出入り口になっていて、でると喫煙所があるんだけど、ちょうどトイレからでたときに山下さんが喫煙所に行くために目の前を通っていって、あっ行きたい、と思ったけれど、たばこはカバンの中に入れていて取りに行かなきゃいけないから、とかいろいろ言い訳したけど、行きたいなら行けばよかった。また行きます。また会いたい人もたくさんいる。ほんと楽しかった。
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