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タイギゴ(12)


 ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんとは会ったこともない。私が生まれたときに生きていたのか、亡くなっていたのかも分からない。そういう話を聞かないままになってしまった。
 ひいおばあちゃん(祖母の母)は、立派な人で、村中の人から慕われて、葬儀の時もたくさんの人が来てくれた、という話は聞いた。ひいおじいちゃんは村長(ムラオサ)だったそうだ。村の人の名前が載っている帳簿を持っていて、それがいつだったか盗まれた。その話は私の中で、祖父が四十歳ぐらいのときに自分の家を建てる土地を買うのに地主のところに行ったが、若造に買えるわけがないと門前払いにされたが、後日、当時のお金で二百万円だかを持って行ったら手の平を変えたように翌週、土地の権利書を持ってきた、という話と混在していて、その盗まれた帳簿はどうなったのか、犯人は見つかって返してもらったのか、そのままになってしまったのか。
「全然そんな話じゃないよ」
 と祖母は言っている。ついこの前までは、
「これってどんな話だっけ?」
 と聞きに行けば聞けたのに、今は聞けない。話を伝えられるのは三代までだ、と立川談志が言っていた。志ん生、文楽、三木助、圓生の良さを語れるのは自分の弟子、その下の孫弟子ぐらいまでには語ってやれるが、それより下の世代には、この人たちの良さが伝えられないで消えていってしまうのはしょうがないのかなと思ってます。
 なんとなくだけど、戦中派あたりの世代の作家は、自分の死んだあとも世界が昨日と同じように動いているのが怖いと言っている印象があるんだけど、それの何が怖いのかよく分からない。
 せっかく聞かせてもらったのに忘れてしまった。小説を書く理由はそういう話を思い出したい気持ちが強い。聞いたはずだから覚えているはずなのだ。思い出せないだけで、完全に消えてしまったわけではない。写真の中の八歳か七歳ぐらいの祖母は、父と母の周りを八人の子どもたちが囲んでこっちを見ているのだけど、祖母はそのいちばん真ん中にでぇ~ん、と立っている。
 貫禄がある。冬に撮影したのか、何枚も着物を着ているためか、丸々と太っているようにも見えてより貫禄が増している。眉毛が太い。目がキリッとしている。ギッとこっちを見ている。口元はかすかに笑っている。堂々としている。オードリー春日の胸を張って立っている姿のようだ。
 祖母はたしか下から二番目の子で、女が五人、男が三人だった。母に抱かれている末っ子はスエコおばちゃんと言って、名前の由来は末っ子だからスエコ(末子)だった。いつも会話に、
「スエコおばちゃん、スエコおばちゃん」
 と名前が出て、父(私の父)が、もう兄弟姉妹で生きているのはスエコおばちゃんだけで、電話をした。
「わたしもよぉ、子どもにはよぉ、迷惑かけないようにと思ってるよ」
 と電話で言っていて、私はスピーカーから流れてくるスエコおばちゃんの話を階段に座って聴いていた。なんとも言えない気持ちになった。スエコおばちゃんの顔はおぼろげにしか覚えていない。頭の中には明確にスエコおばちゃんの顔があるんだけど、それを外に出力しようとすると途端におぼろげになる。顔が滲んで分からなくなる。最後に会ったのは小学校低学年とか、保育園の時で、だれかの葬式の時だった。一時期、毎週のように、これは誇張ではなく本当に毎週のように、祖父母の生まれ育ったのは山梨県の大月なんだけど、毎週のように誰かのお葬式に出席するために大月に通っていた時があった。そのときにスエコおばちゃんとも会った。祖母といちばん親しげに話していた。顔は似ていなかった。祖父の弟はものすごく顔が似ていて、双子と言われても信じてしまうぐらい似ていた。禿げてる方が弟さん、禿げていない方が祖父。スエコおばちゃんはレンズが薄い紫色の洒落たメガネをかけていて、髪はパーマがかかっていて、きちんと白髪染めもされていた。祖母もオシャレだったが、スエコおばちゃんもオシャレだった。それは二十年近く前のことだ。今は分からない。子どもは二十年でものすごいスピードで成長していくが、おじいちゃんおばあちゃんもこの数年でものすごく成長した。成長と老いは同じもので、青年期から中年期、初老まではあまり成長(変化)が見えないが、命の終わりと始まりの変化はものすごい。
 祖母の旧姓は〈K〉という。K家の本家は山梨にまだ残っていて、長男夫婦が暮らしていたが、長男は風呂で溺れているのが見つかってそのまま亡くなった。で、今は長男の妻と、その子(男二人の兄弟)が暮らしていて、祖母はその妻のことを、山の女、と呼んでいた。
 何度その話を聞いてもイメージがつかないのだけれど、祖母が言うには、山の女は山小屋にもともと住んでいて、「なんでそんな女と結婚したのか分からないけど」、長男はその人と結婚した。でも山の女は土地の価値の分からない人で、兄ちゃんが死んだあと、たくさんあった土地を売ってしまいやがった。畑もたくさんあったのに、今は家しか残っていない。
 土地のことは私もよく言われた。さっきの、最初は門前払いされたがお金を持っていったらすぐ売ってくれたというこの土地も、
「まだ若かったから、この土地を買えるなんてその地主も思ってなかったんじゃない? だからお茶も出さないのよ」
 この家に引っ越してきたのは父が小学五年生の時だったから、祖父は四〇代前半くらいだった。
「だからお父さんはこんな束(指で表しているのが百万円札の束ぐらいの厚さだった)のお札を二つ、玄関に置いてきちゃったの。
 そしたら地主が次の週には『この土地をお父さんにあげる』って証書を持って寄越した」
 実際のところは分からないが実際のところなんてどうでもいい。祖母が言うには百万円の束が二つなので二百万円持って行った。当時の貨幣価値がどれぐらいかは調べてみたが分からなかったけれど、まあ大金だったはずだ。
「だからここも売らないでね」
 と言っていた。父は、持っていてもなあ、と言っていた。

 三月も下旬になり、もう四月から新生活を始める人は部屋もひととおり探し終わって、探し終わるどころかもう住んでる。妹が家を出たのは二年前?だけれど、三月何日に出ていったのかは忘れた。その日私は仕事に行っていて、なんとなくオーバーに、もう今後一切会えないかのように振る舞うのはイヤで、だってその時点で二週間後に帰ってくるって話をしていた。
 妹が家を出たとき、自分も家にいて見送った記憶がない。たぶん仕事に行っていて、帰ってきたらいなかった。それで言うと祖母が入院したのが一月の終わりで、仕事の前に、早朝に会いに行った。ちょろちょろと話をした。
「どんな話したの?」
 母が、訊いてきたが、そういうのって再現できない。他愛もない話とか、世間話とか、発したそばから流れていってしまうような、
「テレビの仕事は水商売で、バラエティーもドラマもやったそばから川のように流れていってしまって、何も残らない」
 と黒柳徹子が『トットチャンネル』に書いてた。向田邦子も「テレビドラマは何本書いても消えてなくなっちゃうから小説やエッセイを書き始めた」と書いていた。その日の日記に、祖母との会話を、
〈甘酒と一緒に薬を飲んだ。マスカットを二粒食卓に出したが食べなかった。リポビタンDを一口飲んだらそれで「おなかいっぱい」と言って寝てしまった。寝ているのがいちばんラクらしい。とにかくずっと横になっている。〉
 と書き残している。当時は「なんでこんなにずっと寝てるんだろう」と思っていたが、起きて座っているのもしんどかったのだ。祖母は悪性リンパ腫だった。祖母は痛みはないと言った。「痛い?」と訊いたら「痛くない」と言った。「眠い」、ただ眠いと言った。こうして書き残しておいてよかった。あの日どんなことがあったのか忘れていた。無機質なものでもいいから(無機質な方がいい)、日々のデータを取るように、天気を観察して、気温、湿度、風向き、雨の降っている日なら降水量、そういうものを淡々と残しておくように書いておいてよかった。
 小学校の夏休みの宿題で、自由研究と図画工作があって、絵でも置き物でもなんでもいいから一つ作品を作ってくるのと、自由研究をするのと好きな方を選んでやりなさい、という宿題があった。クラスでいちばん頭のいいS・R君はいつも自由研究で、でもたしか高学年にならないと自由研究は選べなかった。低学年のうちはみんな工作だった。私の中ではなんとなく「自由研究は頭のいい子がやるもの」という気持ちがあって、そもそも「研究」と聞くと「ベンキョー」の感じがしてイヤだったので、いつも図画工作をして提出していたが、一度だけ、自由研究をしたことがある。それは新聞紙にある天気図、各地の時間ごとの天気の移り変わりを示した図と、天気予報士が書いている六~七行の解説を切り抜いて、夏休み期間の天気の記録を、スクラップブックに残す、というものだった。
 最初と最後に「なんでこれをやろうと思ったのか」と「やってみてどうだったか」の作文を、最初と最後ぐらいは書いたと思うけれど、その日ごとの自分のメモみたいなものは書かないので、ただ、淡々と、毎日切り抜いて貼っていただけで、しかもめんどうくさいから毎日毎日コツコツはやらないで、一週間分をいっぺんに貼るとか、二週間分をいっぺんに貼るとかそんな調子だったので、その日どんな天気で、外に出たらどうだったかとか、そんな所感は覚えていなかった。覚えていなかったから書けもしなかった。
 S・R君は足が不自由で、通学はお母さんの車で、車いすも使っていたけれど校内を移動するときは、「ウォーカー」とみんな呼んでいた歩行器で移動していて、移動する時はいつも、ガラガラガラ……という音が響いていた。
 私とR君は仲良しで、というか私がR君が大好きで、よく車いすも押させてもらった。R君はよく笑う人で、私は休み時間になるといつもR君の席(R君の席は移動しやすいようにずっと最前列の廊下側だった。席替えを学期ごとにやっていたけれど、お前どこの席~?とワーキャー他の人がやっているのを見てさみしい気持ちになっていたかもしれない。そのときは俺はR君に対してそんな気持ちはまったく考えていなかった)に行っておしゃべりをしていた。私が変なことを言うとゲラゲラ笑って、あんまりヒドイときには本当にイスから転げ落ちてしまったことが何度もあって、そんなに笑ってくれるのが嬉しくて、R君を笑わせたいがためにR君のところに行っていた。車いすの押し役のグリップがラバーの感じとか覚えている。
 R君は高校受験して、地元で一番の高校に行った。R君はいつも成績上位だったし、かしこかったし、頭がいいことはみんなが認めていたので不思議じゃなかった。もう一人同じ高校に行ったAという女の子も、ギャルっぽくて、後にギャルになったらしいがその子も頭が良かった。
 R君がそのあと、今どうしているのかは知らない。一度、
「東大の医学部に進学するのに浪人しているらしい」
 という噂をどっかから聞いたが、それも不思議じゃなかった。R君なら医者になってもおかしくなかった。

「噂の東京マガジン」を我が家は日曜日の昼は毎週観ていたのに今は観ていない。終わってしまったのかなと調べてみたら、BSの方に移っていて、この前リビングのテレビが買い換えられてBSも観られるようになったから「噂の東京マガジン」も観られるんだけど、その時間BSにチャンネルを変える習慣がないので、観なくなった。
「噂の東京マガジン」(「噂」という文字を今日だけで三回書いたから、最初はスマホで調べて書いたけど、何回も書けば慣れて書けるようになった)は嫌いではない。TBSでやっていたときは親が観て点いていたからなんとなく昼ご飯を食べながら観ていた。全部は観なかったけど、「噂の現場」とか興味のないのに「へぇ~」と観ていて、「中吊り大賞」はコーナーの意味も分からずに観ていて、たしか大賞の中吊りはまわりが電飾で光って発表されるんだけど、光っても、
「光った」
 としか思わなかった。
 山田五郎は出ていた気がしたんだけど、ウィキペディアに名前が載っていなかった。井崎脩五郎と混同しているのか、「出没!アド街ック天国」と間違っているのか分からないが、あんな髪型の人は山田五郎以外にいないから間違えようがないはずなんだけど、中吊り大賞の紹介を井崎の代わりに何度か山田がやった回があってそれを観た気がするし、あの、なんとなく粘着質なしゃべり方も覚えてる……と考えたとき、噂の現場のナレーションが山田五郎の声と似ていてそれとごっちゃになっているのかもしれない。ウィキペディアを見ると、乱一世という人がナレーションをしているらしいが、YouTubeに唯一あった、ハイスクールD×DのCMを観て声を聞いたがこの人じゃない感じがして、噂の現場は乱一世ではなく他の人がやっているのかと調べて、でも他の人の名前は出てこなくて、YouTubeに戻ったら、「夕食ばんざい」という昔の料理番組があがっていてそれを観たら噂の現場の声だった。
 なんとなく、日曜昼の“あの感じ”は好きだ。

 私は払ったことはないし、土地も持っていないが、父はこの家の所有者で、この家の建っている土地の所有者のはずだ。市役所に行けば父の名義で評価証明書がとれる。祖父の家屋と土地はとりあえずは父が引き継ぐ、相続するのかもしれないが、相続しないで、いや一旦は相続した上で手放してしまうのかもしれない。「相続」と聞くとなんとなく、イヤなイメージというか、欲にまみれた感じがする。私もずっとそうだった。
「相続って譲り受けるとかって感じじゃなくて、継承、だから、いいものも悪いものも全部相続人に来ちゃうんだよね。お金返さなきゃいけないとか」
 相続放棄している人を見ると、なんで放棄しちゃうんだろう、そんなに仲が悪かったのかな、縁を切りたいのかな、とかいらぬ勝手な想像をしていたんだけど、そうじゃない。

 ひとり暮らしをし始めてまだ三日しか経っていないが、駐車場から家までは何度も自転車で往復していた。仕事の日も通わないといけないので、どの道で駐車場に行くのがいちばん近いのか調べていた。今のところ、ここがいちばん近いかも、信号がなくて人通り車通りが少なくて、アブなくない道、で早い道、その道は祖母の家の前を通る道だった。もうあの家には誰も住んでいない。納骨前のおばあちゃんの骨はある。
「死んでも怖くない。
 骨になろうが何になろうが、わしはわしやないか」
 どこで読んだのか忘れてしまったが、ある本で著者が、別の誰かの言葉としてこの言葉を紹介していた。
「何されようが、わしはわしやないか」
 祖母は骨になろうと何になろうと祖母なのだ。
 去年の暮れに母方の祖母が亡くなったことを、こことは別に書いている日記に書いた。だからといって「みなさんご存じのように」と語りたいわけではないんだけど、たしかその日はその年の最後の仕事の日だったので十二月二十八日だったはずだ。私は仕事に出ていって、仕事の間はスマホはカバンにしまっているので見ないから、仕事が終わってからスマホを見たら母から家族LINEにLINEが入っていて、
「今朝、おばあちゃんが亡くなりました。私たちは夕方十五時の飛行機で九州に向かっています」
 一緒に送られてきた飛行機の時間を見るとちょうど今飛行機に乗っている時間で、この年末によく飛行機の座席が取れたな、と思ったが、まずその前におばあちゃんが亡くなったことがショックだった。
 母方の祖父母は年に一回、お盆のときに会うだけなので、すこし大人になってから話すときは敬語だった。久しぶりに会ったのはたしか三年ほど前だったと思う。中学二年生までは毎年お盆に帰省していたが、中三の高校受験で行かなくなり、高校も部活の大変なところに入ってしまったので高校時代も一回も帰らず、大学生のときは暇ではあったがズルズルとしているうちに帰らなかった。
 祖母は三月一日(これは父方の祖母)に亡くなって、火葬したのは三月十二日だった。二週間近く期間が空いた。それは火葬場の予約が取れなかったからで、母方の九州の祖母は亡くなった翌日に通夜をやって、その翌日には告別式と火葬だった。
 私は九州の葬式には参列したことはなかった。
 東京の場合は、東京でもいろいろなやり方はあるのかもしれないから一概には言えないのだろうけれど、少なくとも父方の、去年の夏に亡くなった祖父はお骨を壺に収めるとき、二人で一つの骨を箸でつかみ、ゆっくり壺の中へ収めた。
 しかし九州の場合はそうではなかったらしく、遺族が待っているその目の前に、火葬したご遺体を炉から直接出してきて、これも父方の祖父の場合には対面する前にある程度穏防さんがまとめてくれて、より分けてくれて、まとめた状態で持ってきてくれたが、九州は炉からそのままの状態で出した。その周りを遺族が囲むようにして立っていて、東京なら二人で一つのお骨を拾うところ、九州では、遺体を囲むように立っている遺族の一番端の人が一つ骨を拾うとそれをとなりの人へ渡す。もらったらまたとなりの人へ渡すという、バケツリレーのようにとなりの人からとなりの人へお骨を渡していくらしく、骨壺も小さい(同じ墓に何人もの人が入るためあんまり大きいと入らないのかもしれない)。小さな骨壺しか用意されていなくて、
「おんなに小さかったら全部入らないんじゃないか」
 と思ったが、案の定入らなくて、大事な部分の骨だけ入れて、入り切らなかった分は捨ててしまった(まさかほんとに“捨て”はしないだろう。きちんとした形で処置するんだろうけれど)らしい。
 そんなことなら瓶でも持ってきて少し分けてもらえばよかった。
 でも骨もやっぱり体の一部、やっぱりではなく骨は体の一部なので、九州にいた骨を東京に持ってきたらなんだか体が離ればなれにさせられるように感じがして言い出せなかった。我慢できずに、
「壺が小さいんじゃないか」
「入んなかったらどうするの?」
 と訊いてしまったが、入んなかったら処分しちゃうよ、こっちではこういうもんだよ、と言われてしまえばそれ以上は何も言えなかった。母はもともと九州の人でそういう文化は知っていたはずなんだけど、東京に上京するまでの高校生までの間に葬儀に参列したことはなかったのか? そんなわけはないはずなんだけれど、訊いていないので分からない。もう四十五年ぐらい東京にいるんだから、こっちの生活の方が長い。
 名前が出てこないけど母方の祖母の妹(私からみるとおばちゃん)は母が上京してここを離れてしまうことを誰よりも悲しんで、
「アヤちゃん帰ってきたらよかとに」
 家もすぐ近くにあるので毎年夏に帰省したときは手を繋いで歩いておばちゃんの家に行って仏壇に手を合わせて、そのあと出してくれたたくあん、濃いめに味が付いていて色も茶色っぽい、をバリバリ次から次に食べていたら、
「たくあん食い過ぎ」
 とおばちゃんに言われた。
「そんなにたくさん食べたら高血圧になるよ」
 高血圧の意味もよく分からなかったが、父方の祖父が七十代前半ぐらいのときに高血圧を抑えるために病院に行ったのに、逆に高血圧になる薬を出された、と言って病院に文句を言いに行ったときがあった。

(次回へつづく)

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