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タイギゴ(21)

(21)
 以前日記に書いたのだけど、自分より年下で、結婚もしていて、で、今度一軒家を買うらしい、と聞いて嫉妬していたのがこのMさんで、だからその嫉妬は勘違いだったのだけど、Mさんは平成六年生まれ、旦那さんは平成元年生まれだからわたしより全然年上で、そういえば嫉妬してたなぁ、と今思いだした。
 その日記はいつ書いたものか忘れてしまったけれど、わたしのnoteの日記のどこかには必ずあって、職場になんの用事だったかは忘れたけれど、旦那さんがやってきてみんなにあいさつしてて、
「いつもお世話になっております」
 みたいなことを言って、わたしは全然知らない人(他の人は何度か会っているみたい)だったからわざわざデスクから離れてその人のところに行く、みたいなことはしないで、
「あの人がMさんの旦那さんなんだ」
 と遠くから思っていて、Mさん(そのときはわたしより年下だと思っていたから)と結婚しているってことはわたしと同じくらいの年齢で、もう妻がいて、Mさんもきれいだし、なんかその旦那さんもイケメン、ってわけではなさそう(マスクしてるから分からない。でもマスク姿はかっこよく見える)だけどキラキラしてるし、優しそうな人だし、なんか帰るときに、
「じゃあね」
 みたいな二人のアイコンタクトがステキだし、わたしと同い年なのに家を買うみたいだし、とかいろいろ思ったらモヤモヤしてきて、それに比べたら自分は……みたいな気持ちになって、嫉妬、劣等感、もっとこの感情の言葉を並べたいんだけどボキャブラリーがないのもそうだけど、所詮「嫉妬」と「劣等感」ぐらいしかなかった。それで「ぼくにだって、彼が持っていないものを持っているぞ!」みたいな日記を泣きながら書いたけれど、そもそも何個も年上だからそんな感情持つ必要もなかった。
 それにしてもわたしがこんなに年齢に執着してる人だとは思わなかった。でも就活してるときもそうだった。「もう24歳なのに」とか思ってた。就活が終わったら今度は結婚かよ。焦燥感は尽きない。でも年下であってももう結婚している人はいるし、子どもがいる人もいるし、それとこれとは関係ないのかもしれないし、だんだん結婚ラッシュ? ラッシュではないけれどそういうお知らせもだんだん入るようになってきて、それはとても嬉しいことで、そこにひがみもなにもないんだけど、わたしはまだ焦っていなくて、結婚式のお知らせがバンバン来て、毎週のように結婚式行ってたときあったもん、

 と、これは誰の言葉かは覚えていないんだけど、職場の人だったか、母だったか。この前もシャワー浴びながら、松居直美が「はやく起きた朝は」でなんか言ってた、その「なんか言ってた」ってことはなんとなく覚えているんだけど、それが本当に「はやく起きた朝は」で言っていた現実の言葉なのか、わたしの妄想の中に松居直美がでてきて言っていた言葉なのかが分からなくて、そしてこれを書いている今は、松居直美がなにを言っていたのかも思い出せなくなってしまって、この前シャワーを浴びていたときに思いだしていた言葉はたしか松居直美が言っていたけれど現実に言っていたのか夢の中の話なのかどっちなんだろう、と思っていたこと、しか思い出せない。
 伝わってますか? 伝わってないかもしれない。
 今日は祖母の一周忌で、法要が終わってからすき焼きを家族四人で食べた。妹が食べたいと言って注文したふぐの白子焼きにかぼすがついていて、母がそれを食べていた。
「すっぱくないの?」
 妹が言った。
「すっぱいよ」
 と母が言った。母の横に父が座っていて、父はかぼすからかぼすの汁が飛んできてよけるフリをした。それを見た母が、
「おとうさんはさ……」
 と笑いながら話し出すと、
「もういいよ、その話」
 と父が言って、
「『お父さんはさ』って言ったらなんの話か分かるんだ」
 とわたしが言って、母は笑っていて、
「お父さんはさ、レモンとかこういうのをしぼると、付き合ってるときからこういう、うえっ!ってよけるフリすんのよ」
 と言われて、
「親の付き合ってるころの話とかされんのキツいんだけど笑」
 と言ったら父が、ダッハッハ、と笑った。
 それからすこし、両親が若い頃の話になった。わたしは若い頃の話を聞きたいと思っていたけれど、聞かせて、と言うのも嫌だし、聞かせてと改めて言われて話せるものでもないから、こういうなにかの弾みに話を聞きたいな、と思っていた。妹が、
「お母さんって昔はお酒飲めたの?」
「もうガンガンだよ。酒豪だよ。集まりの中じゃいちばん飲んでた。
 なんか写真があって、こんな(コントで頭にタライが落ちてきて気を失いそうになってる加藤茶みたいな顔)顔した、酔っぱらってこんな顔した写真があった」
 父が言った。
「その写真もうないの?」とわたし。
「うーん、ない……」
「探せばある?」
「あるかもしんない」
「その頃ね、ワインにハマってたの。でワインばっか飲んでて、お店のワイン全部飲んじゃったことがある」
「えー?」
 さすがにそこまで酒豪だとは思わなかった。
「もちろん、他のお客さんもいたから私が全部飲んだわけじゃないけど」
 書きながらわたしはその日は同じ店に酒豪が他にもいたのかもしれないと思った。さすがに母だけで飲みきるのは無理だろう。飲み屋がどれぐらいのワインをストックしているのか、わたしは飲み屋でバイトしたことないから分からないけれど、そんなに飲みきってしまうほど少ないわけはないと思うから、もしかしたら仕込みをし忘れた、とか、他のお客さんもガブガブ飲んでたとか、いろいろ要因はあるだろうけれど、それにしてもすごい。
「いまだに師長さんに言われるもん」
 母は看護師をしている。
「『○○ちゃん(母の旧姓)はよく飲むもんね~。お店のワインぜんぶ飲み干しちゃったもんね~。』って笑」
「お父さんの一目惚れだったんでしょ?」と妹。
 すこし考えて、
「いや、一目惚れではないかな。なんだこのとぼけた奴、って思ったよ。
 こうやって自分のグラスにビール注ぐじゃん」
 当時は瓶ビールで出てきた。
「で、グラス開いたら自分で注げばいいのに、なんか注がないでボーッと遠く見てんだよ。それ見て『さっさと注げよ!』って思ったもん」
 一周忌の法要のあいだ、わたしは心ここにあらず、という感じだった。なんというか、他に気になっていたことがあったのか、気になっていたことはあって今朝そのお墓の人と父がトラブったらしく、また怒り出さないかと気をもんでいた。わたしが勝手に気をもんだところでどうしようもないんだけど、そればっかり気になって、さすがに父も法要の場で声をあげたりはしないけれど、もしかしたらあげるかもしれないから、それだけが気になって、お坊さんがお経をあげてくれているけれど、心ここにあらずで、手を合わせてはいるけれどおばあちゃんに向かってちゃんと祈っている(ちゃんと、のちゃんとってどれぐらい気持ちのこもっているものをちゃんと、と言うのか分からないから、こういうことに「ちゃんと」とか「本当の」とかを使うのは嫌なんだけど)のか、たぶん祈ってなくて、祈ってるポーズをしているだけのような気がした。
「お一人ずつお焼香をお願いいたします」
 とお坊さんが言って、喪主の父から順番におこなった。わたしの番がきてわたしもやった。小さい遺影の祖母は笑っていて、笑っている写真を遺影にした。うしろには桜が満開に咲いている。この写真は祖父が亡くなる前の年の桜の季節に、わたしと母と祖父と祖母の四人で桜を見に行ったときの写真だった。この写真は近所のT大学の坂の桜並木で撮った写真だった。この場所は桜の名所になっていて、坂道なのでレジャーシートを敷いてお花見をしている人は見たことがないが、そもそもわたしは花粉症なのでお花見はできない。車を坂の中腹に停めて写真を撮っている人は何度も見たことがある。そこへ行って撮ったときの写真だ。
 前日から、
「おかあさん、明日は桜を見に行くからね」
 と母が言っていたが、翌日になって、祖母は、はっきりそうとは言わなかったが、
 めんどくさい
 という感じで、
「今日は行かなくていいよ」
「今日は、って今日行かなかったらもう行けないよ」
 と朝から問答があって、やっとのことで連れ出した。祖母はガンで、最期はいつも横になっていて、座っているより横になっている方がつらくなかったから横になっていたのかもしれない。がんは痛いらしい。しかし祖母は痛そうな素振りは見せなかった。素振りは見せなかったというか、痛そうではなかったから痛くなかったのかもしれない。「痛い」と言ったことはなかった。だから痛くなかったのかもしれないけれど、とにかくめんどくさいというか、体もだるいし、わざわざ桜を見に行くなんてやだ、と思ったのかもしれない。
 でもけっきょくは行ってくれて、それが祖父とでかけた最期の花見だった。そうだった、さっき「祖父が亡くなる前の年の桜の季節」を書いたが、その年の春だ。で、その年の夏に祖父が亡くなった。その写真を見ると、祖父は口のまわりの筋力が弱まっていたのか、下あごが下がって口が開いていて、終始不満そうな顔をしている。わたしはそれを思い出しながらかわいいな、と思う。祖母は祖父の腕をからませてこっちをむいて笑っている。その写真を撮ったのがわたしだった。わたしはカメラマンで、その日のどの写真にも写っていない。そのとき、
「浩平も写りな」
 と誰かが気がついてもいいはずなんだけど、わたしも気付かなかった。
 実際の写真は、祖母の背景は桜の木の幹なんだけど、それを葬儀屋さんが満開の桜を背景に合成してくれた。祖父の遺影はありきたりな、と言ったら失礼だけれど、水色の背景に、スーツを合成した遺影で、祖父がスーツを着ているところを見たことがない。祖父は市役所の清掃課という家庭ゴミの収集をやっていた人で、退職してからも当時着ていた市役所の作業着を着ていた。緑のおじさんで、毎朝小学生の通学路に立っていたときも、いちばん上には「交通安全パトロール」と書かれた蛍光板のついた法被みたいなもの(名称が分からない)を着ていたが、その下にはうすく緑がかった灰色の、市の名前が書かれた作業着を着ていた。どこかに旅行に行くときも、さすがにそのときは上はポロシャツだったりしたが、ズボンは作業着を着ていた。だからその印象しかわたしにはなくて、スーツを着ている、あっ、お葬式のときは着ていたが、あれは喪服だから、ダブルの喪服で、普通のスーツを着ている姿は見たことがなかった。実家にはわたしの両親の結婚式のとき写真が一枚飾られていて、それは前にもタイギゴか日記に書いたけれど、両親が結婚したのがわたしが生まれる前年の一九九六年なので、そのときにはもうバブルは崩壊していたのかもしれないけれど、たぶん両親の世代は、たしかに、
「休みになったらいっつもマハラジャに行ってた」
 と母は言っていたけれど、たしかにバブルらしい、わたしはバブルは経験していないので、のちのちテレビで言われ続けるステレオタイプの「バブルらしいこと」はしていたみたいだけれど、実際に経済面で恩恵を受けていたのは両親よりも上の世代で、実際に働いている、それこそその当時「新人」として働かされていた両親たちは、ただ忙しかっただけ、だっただろうと思う。
 肩が凝っていた。なかなか話が展開しなかったので、この前見た夢の話をわたしがし始めた。
「朝方見た夢だったから、テレビのニュース番組と夢がごっちゃになっていて、テレビではどこかの高校生が朝から取材を受けていて、それを中継していて、何の部活かは覚えていないけれど、わたしはその場にいて、エッチなマッサージ屋さんのお兄さんが全裸で立っていて、わたしがフェラしてて、それを高校生が見ていて、生中継もされていて、画面の脇にちょっと映ってるとかそんなレベルではなくて、わりとメインっぽい感じで放送されているけれど、それとは別に高校生の中継もされていた。ダンスか何かの部活だった。体育館で高校生たちが制服でダンスをしていた。それをわたしは朝起きた布団の中から見ていて、
「親御さんたちにとってはいい思い出だな」
 と思っていた。
「以上、ナニナニ高校からお伝えしました!」
 とインタビュアーが言ったときは全員が横並びになっていて、わたしとお兄さんもそこにいて、お兄さんは全裸のままですこし泣いていて、こんなに寒いのに全裸で可哀想だから、となりの男の子がベンチコートを裸の上から着させていたけれど、前は開いていた。」
 一旦言っておくが、彼(わたし)は自分の家が燃えたことを忘れている。どうしてこんな混乱させるようなことをわざわざ書きたくなってしまうのか、それはたぶん彼(わたし)自身がもっと混乱したいからだ。いとうせいこうの年表を水道橋博士が書いているらしく、すでに十二万字あるらしい。もう今月のタイギゴは先に書くことがなくて進まないから、書いたところで終わってしまおうと思ったのだけど、夢の話があったことを思いだしてそれをそのまま、夢日記をLINEの自分しかいないグループに書いておいたのをそのままコピーした。石原慎太郎が亡くなって新刊のコーナーに名言集のようなものがあった。石原慎太郎でも「名言」集が出せるんだから、年を重ねれば勝手に自分の中に名言が出てくるものなのだ。それで言うと、何歳になってもくだらないことを言い続けている人の方がすごくて、石原慎太郎でも名言集が出せるんだからわたしにも出せる、だからやらなくていい、と本棚を見つめながら思って、なんでこんな本が出ているのかと思うが、買う人がいるから出ているのであって、でもこの人は議会で「ひらがなさえも忘れた」と言った人で、その人が名言集を出している。いったい。いとうせいこうが言っていたのは、水道橋博士がもういとうさんの年表は何度も何度も読み返しているのに、いつも同じところで「えっ?」ってびっくりするという話を、
「長いから忘れちゃうんだよね。四百字くらいだったら覚えちゃうもん」
 と言っていて、俺も長さだな、立川談志は、
「量と質、両方ある人をまあ、天才と呼んでいるんですがね」
 と言っていたが、わたしは質はないから量で勝負するしかない。ああ、比べられるのかな。でも、まだイキキッテナイから不安になる。不安になることはいいことなんだけど、そんなことをここで宣言してもしょうがないんだけど、まだ自分がどうするのがいちばんいいのかが分かっていなくて、ほんとうに読んでほしくない。もっと錯乱した、でもやり方が稚拙ですよね、稚拙だね、でも他にやり方が分からないからしょうがないじゃん、わたしの中の評論家をつぶしていかないといけないんですよ、と吉増剛造。
 昨日書いたところは消すかもしれない。まだ読み返していないので分からない。
 わたしは病院に来ていた。子どものころからお世話になっているクリニックだった。小児科、内科、婦人科、何かあったらいちばん最初にいく、そうだ「かかりつけ」だ。かかりつけが出てこなかった。それで、先週、就職先に出す健康診断表をもらうために先週健康診断を受けて、今日が結果の書類をもらう日だった。朝イチで行くつもりだったが寝坊をして起きたのは十時四十五分くらいだった。いそいで準備をして、でも診療時間は十二時までで、でも「診療時間」としか書いていなくて、もしかしたら受付時間は十一時半とかかもしれない。そんなややこしい書き方はしないと思うから、たぶん十二時まで受付をしくれるんだろうとは思うけれど、この前も、それも就職先に出す住民票だったけれど、市役所に取りに行ったら、まだやっていると思っていったらもう受け付けを終了していて、職員の人に聞いたら、
「そうなんですよ。もう終わっちゃってて。
 もしお急ぎでしたら、○○駅の北口にある事務所だったら十九時までやっているのでそちらでお願いします」
 と言われて、とくにそこまで急いではなかったから翌日取りに行った。
 そのことがあったから行ったら、
「もう受付終了なんです」
 と言われてしまうかも知れないな、と思いながら行った。わたしにはそういう星の下に生まれたような、運勢のようなものがあって、運勢はあんまり好きではない。あの細木数子の言い方。わたしは細木数子の全盛期、小学校高学年で、たしか金曜日に細木数子の番組をやっていて、金曜日は十八時から祖母の家の裏の家で習字を習っていたので、一時間で急いで(十九時からドラえもんを観たいので)習字とペン習字をやった。妹も一緒に受けていた。父も一緒に受けていたが父はいつの間にかいなくなっていた。毎年、祖母の家に先生がきてくれて(わたしたちは男先生と呼んでいた。本当は諏訪先生と言った。当時のわたしはその名前を知っていたのか知らなかったのか分からない。夫婦ではない(たぶん)だけれどおばあさんの先生もいつも一緒に来ていて、その先生のことは女先生と呼んでいた。諏訪先生本人がわたしたちにそう呼ばせていたのか、祖母に「そう呼びなさい」と言われていたのかは今となっては分からない。今となっては分からないことはたくさんある。祖父母は死んでしまったから、祖父母が若いときどんな人だったのか、どこで出会ったのかわたしは知らない。両親は知っているかもしれないが、その両親でさえも、もう死んでしまったからあれは聞いておきたかったな、と思うことがたくさんあるんだろう、と思う。だからこの前の祖母の一周忌のときにすき焼き屋で聞いた話は面白かった)、だからどれぐらいお金を払っていたのか、母の話では、
「私たちにも教えなかったけどね、相当払ってたと思うよ」
 妹は面倒くさい、だるい、をめちゃくちゃ顔にも体にも出していて、わたしは丸めたハンカチを何度も妹に向けて投げた。妹もそれを投げ返した。さっさと終わって早く帰りたい、と、妹は、もし習字教室みたいなところに通っていて、自分たちのほかにも生徒がいたらそんなことはしなかっただろうけれど、おばあちゃん家だし、いつもきているところだし、リラックスしていて、習字の途中に寝転がったり、さすがにゲームをしたりはしなかった(持ち込んでもいなかった)が、まあ態度は悪かった。わたしは一応「兄」だったので、そんな態度の妹を叱りつけたりしていた。習字はまず四枚書いて、男先生に見せて、朱で直しをもらって、その直しをもとにあと三枚書く、というルールというかそういうやり方だったけれど、妹は面倒くさいので一気に七枚書いた。でも字はテキトーには書いていなかった。そのとき妹は小学校低学年だったけれど、彼女なりにちゃんと書いたものを七枚書いた。でも寝転がったり、一気に書いていた。わたしは先生の前でさすがにそれは失礼だ、と思ってはいた。それは本心ではあったけれど、気になっているのは十九時からの「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」で、当時は金曜の十九時から二十時に放送していた。今は何時に、そもそも何曜日にやっているのかもよく知らない。日曜日? 分からないけれど、当時はその時間だったので、なんとか十九時に間に合うように、急いでいる素振りは見せないように、でも急いで書いていた。まあ長子らしい。
 毎週金曜日はそんな感じで、晩ご飯もいつも祖母の家で食べさせてもらっていた。十九時になんとか習字を終わらせて、ドラえもんとしんちゃんを観ながら、わたしたちがお寿司が好きなので祖母がお寿司をいつも買ってきてくれていた。それを祖父と一緒に食べながらテレビを見て、二十時からミュージックステーションだったが、それは興味がなかったので、その時間に細木数子を観ていたのかもしれない。でも細木数子も興味はなくて、
「ズバリ言うわよ」
 今になれば、ズバリ言ったがためにいろんなことを取りこぼしていたんじゃないか。ズバリ言うなんていいことじゃない。覚えているのは「おさる」から「モンチッチ」に変えたのか、「モンチッチ」から「おさる」に変えたのか、たぶん前者だと思うけれど、変わって運勢があの人は上向いたのか。(モンチッチではなくモンキッキーだった)占いは好きだし、まったく信じないわけではないけれど、今テレビに出ている人たちはあんまり断定的な言い方をしたりしない。占い師として言うことは言うけれど、
「占い師に言われたからこうしました、っていうのがいちばんダメで、ちゃんと自分で決断してくださいね」
 それはもしかしたら「私には責任ありませんからね」という予防線なのかもしれないけれど、それでも最終的にはこっちに選択させる方がいい。今「ズバリ言うわよ」と言われても響かない。ずっと亡くなった人のことを書いているけれど、しかもこんな批判的な……と思うけれど、それはそれでわたしが細木数子に思っていることだし、亡くなった人だからといって良いことしか言わないのは気持ちが悪い。というか細木数子に対してあまり良いことは思い浮かばないというか、知らない。わたしは細木数子はテレビで小学生のときに観ていただけの人で、知り合いでもなんでもない。亡くなったニュースが流れてきたとき、亡くなったんだ、とは思ったけれど、それ以上もそれ以下の感情もなかった。
「先週健康診断を受けさせてもらって、今日その書類を取りに来たんですが、一緒に花粉症の薬もいただいていいですか?」
「あっ、分かりました。ではあちらにおかけになってお待ちください」
 待合のイスに座っていた。高瀬準子『犬のかたちをしているもの』を読んでいて、これは最後まで読めそうだ、開いたら八三ページで、もうそんなに読んでいたのか、と思った。これなら最後まで読めそうだ。目の前に小学校高学年か中一ぐらいの男の子四人組がいる。四人組がいるのは病院ではなくて、わたしがこれを書いているマックの目の前で、マックは番号札制になっていて、会計をしたらプラスチック製の番号札を渡されて、出来上がりましたら席までお持ちします、と言われた。わたしはとっくに食事は終わっていて、さっきまで暑くて仕方がなかったが、今はちょうどいい感じになっている。半袖でも過ごせるぐらいの室内温度だが、下着は、本当に下着なので、それではさすがに恥ずかしいから長袖のシャツを脱げないでいた。目の前の四人組のところにも店員さんが持ってきたところで、一番端に座っている男の子が、
「ありがとうございます」
 と言った。エラい、と思った。本当はこんなことはエラいことではなくて、当たり前のことなんだけど、その当たり前のこともできない大人が多すぎるから、エラく見えてしまう。大人になっても続けてほしい。
『犬のかたちをしているもの』は、共感できないというか、薫という女性が主人公で、郁也という彼氏がいて、でも薫は病気で妊娠ができず、セックスも付き合いたてはできるけれどだんだんしたくなくなるよ、と郁也に言っていて、それでも薫のことが好きだからいい、と郁也は言っていたけれど、郁也はミナシロさんという女性と金銭を介した肉体関係を持っていて、そのミナシロさんに子どもができてしまって、
「でも私、子ども持ちたくないので育ててくれませんか?」
 と薫が言われるところから始まるんだけど、とくにミナシロさんが、なんでそんなこと平気で言えるのかが分からなすぎで気持ち悪いんだけど、でも次どうなるのかが気になって読んでいて、たぶん途中で飽きることはなさそうだ、と今は思ってるくらい面白くて、興味を持続させるのは共感できるから、ではなくて、だってわたしはミナシロさんにはまったく共感できないし、でもそう考えるとわたしは最近は共感できる文章しか読んでいかなかったような気がして、たとえば、
「郁也もミナシロさんも反省して後悔していますっていう顔をしていたけど、他のことが頭から全部抜けて目の前の気持ちよさだけでべろんべろんになったセックスで子どもができたなら、それって正しいことのように思う。元々そうやって子どもを作るために、性行為ができる体になってるわけだから。いくら神妙な顔をしてうなだれて見せたって、わたしには「ぼくたち、わたしたちは、正しいことをやりました」と開き直っている人間の顔に見えた。」
 にしるしを付けているけれど、なんでしるしを付けているのか考えてみると、自分の中に「共感」と言うとなんか小さくなってしまうけれど、すくなくとも書かれていること(薫が言っていること)が分かるから自分も共感したり、腑に落ちたり、共振したりしているわけで、ミナシロさんの言葉にはまったくしるしが付いていない。でも共感できない、腑に落ちないからしるしを付けていないっていうのも、すくなくとも「まったく理解できない」とは思っているんだからそれもれっきとした感想、読んでいて思ったことなはずなのに、しるしもメモも付けていない。まったく理解できないことを「なんなんだよコイツ」と思うのはいいんだけど、それを残していない。ただ自分と相容れないものとして、体の中に取り込もうとせず、排除と言うと言葉が大げさだけど、受け付けない姿勢をとっていることが、それってなんなの?っていう自分への疑問で、
「八嶋さーん」
 と呼ばれて本をカバンにしまって診察室に入った。
「いつもアレグラだったけど、アレグラでいい?」
「大丈夫です」
「人によっては効かないって人もいるんだけど」
 昨日、診察代をもらいに実家に帰って、一緒に晩ご飯も食べたときに、たぶん父は、今日はもう三月の中旬で、
「今更遅いよ。効き始めるのに二週間かかるんだから二月から飲み始めないと。それでもこんなにキツいんだから」
 と言われるのは間違いないと思っていたが案の定いわれて、
「ぜんぜん効かねえ。効かねえのか、今年の花粉がすごすぎるのか」
 どっちなのかはわたしにも分からない。
「人によっては効かないって人もいるんだけど」
 と、O先生に言われているときは父のことを思い出していた。
「できるかぎりサポートはうちでさせていただきますので、効かなかったらまた言いに来てください。
 目薬は?」
 正直、目にはキていなかったが、せっかくなので、
「目薬もください」
「一本で二週間分だけど、どうする?」
 そんなに射さないので、
「一本でいいです」
「点鼻薬は? 鼻シュッシュ」
 鼻はしんどかったから、
「点鼻薬ください」
 これも二週間で一本かな? だとしたら二本ほしいな、と思ったが、それは一本だけだった。
 診察は終わって一旦待合室に戻ったが、
「八嶋さん」
 と呼ばれて、
「もう一度、先生のところにいいですか?」
 と訊かれ、「はい」と言ってまた入った。
「失礼します」
「アレグラなんだけど、人によっては食後だと効かないって人がいて、食後でも食前でもどっちでも大丈夫なので、コウちゃんの好きなタイミングで飲んでください。
 ジェネリックで大丈夫だよね? はい。じゃあ、OK。はい、失礼いたします」
 呼ばれてお会計をして、受付のちょうどうしろにO先生が立っていた。屈まないと中は見えなかった。帰り際に中から、
「浩平! お父さんとお母さんによろしく!」
「はい! ありがとうございます!」
「はい、ありがとう」
 診察券はもうずいぶん古いものだった。毎年花粉症の薬をもらいに来たり、インフルエンザの注射をしてもらっていれば毎年O先生の顔を見るし、診察券も新しいものに変わったりするのかもしれないけれど、面倒くさくて、花粉も毎年我慢して通り過ぎるのを待っていた。発行されたのは平成二十一年と書かれている。ピンク色の厚紙の診察券。二〇〇九年。十四年前。十二歳。もっと昔から通っているからたぶんこの診察券は二代目か三代目だ。最後の診察は平成三〇年となっているが、そのあとにも診察は受けているので、診察券に記録を残しているのが平成三〇年が最後になっている。
 クリニックの隣に薬局があって、入ったらまったく変わっていた。何もなくなっていた。昔は、ガーゼやマスクやピンセットや、細々した医療品から、シルバーカーもあったし、車いすも売っていて、入口入って正面にクーラーボックス(コンビニの飲み物が入っているでかいボックス)が一つあって、そこにポカリとかの飲料と、赤、黒、金色の派手なパッケージの精力剤とか、そういうものが入っている棚があって、一度に六人くらい対応できる長いカウンターがその横にあって、カウンターの中に製剤室があった。カウンターの中腹のところにはヴィックスなどのど飴と、チョコレート、コアラのマーチなどお菓子が並んでいて、医療品の並んでいる、わたしの胸元ぐらいの高さの棚も四つ五つあって、そこに商品がたくさん並んでいて、奥には待合用のソファーが建物のカドに沿って並んでいて、目の前にいろいろ紹介のパンフが並んで、壁にタバコの危険を知らせる外国のタバコのパッケージの写真。日本のタバコのパッケージにはそんなものは書かれていないが、外国のものには肺が真っ黒になっていたり、「こんなに顔がやせ細りますよ」というビフォーアフターの写真とか、奇形児の写真とかが載せられていて、とにかく喫煙はやめましょう、というポスターなんだけど、子どものころからそれを見てた。でもタバコを吸っている。となりには、薬の標本があって、たぶん薬は百種類ぐらい並んでいて、碁盤の目状に仕切られていて、その中に錠剤とかが並んでいるのだけど、中には溶けて、茶色い液体が流れてしまっているのもある。わたしはそれが好きで子どものころから見ていた。
 書きながらで思い出したが、この薬局を経営していたところが何年か前に変わった。だから、昔あったようなものは今はなくなってしまっていて、その薬の標本がかけられていた壁は、ずっとその、縦1.5メートルぐらい(わたしには長さの感覚がないから全然違うかもしれない)あった標本がかけられていたからそこだけ白く縁取られていて、壁がきれいに残っていた。
 ずっと気になっていたことなので、
「薬飲んでるあいだは、アルコールは飲まない方がいいですよね?」
 と訊いた。薬剤師さんは、
「ダメってことはないと思うんですけどね。
 けっこう飲まれるんですか?」
「いや、そんなには飲まないですけど笑」
「まあ、あんまりたくさんはアレですけど。ちょっと見てみますね」
 パソコンを操作しはじめた。
「あんまりたくさんはダメかもしれないけど、ビール一本とか、すこしなら大丈夫ですよ。とくにアルコールダメ、とは書いてないので。飲んだ後すぐに飲むとかはやめておいた方がいいですけど」
 わたしは話がそっちに行ってくれたので大丈夫、と思ったが、最後に、
「けっこう飲まれるんですか?」
 とまた訊かれてしまって、だいたいいつもビールのロング缶を二本とハイボールか焼酎を一杯か二杯飲む。それが多いのか、べつに大丈夫なのか分からず、
「ロング缶のビールを一本ぐらいですかね」
 と答えた。それぐらいなら、間隔を空けてくれれば大丈夫ですよ、という感じだった。


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