2024/04/28
日記ってほどではないけれど。手紙の返事をやっと書き始めた。
もらったその日に(その日は仕事をサボった。午後から仕事へ行った。同僚の一人にその日不幸があり、その人は早退して、入れ替わるようにわたしが出勤した)ノートに書き始めた。これは返事にはなっていないし、今日改めて書き始めてみたけれどそれも返事になっていないような気がする。
なにをもってそう思うのかはわからない。
今年の一月に書いていた小説も、三ヶ月経つがほとんど推敲していない。わからない、これはわざと錯乱させるためにそう書いているのではなくて本当にわからない。わからないというのは、言葉にした途端に間違っているような気がしてわからなくなる。だから自分の今の状況なんか書かない方がいい。
小説? まったくなかったことを書き出すことはできない。
きのう話した、山下澄人の新刊の編集をした人も、
まったくの0の状態から、作家が頭の中で作り出したものを書くってことはあり得ないと僕は思っている
と言っていて、いくら小説をはいえまったくの「嘘」なんてことにはならないんだろうけど、それでも、「万事快調」という小説の冒頭を今日は書きなおしてみたが、こっちじゃないな、と思ってやめた。じゃあどっちなんだ、と言われると、目の前には分岐点みたいに、右の道に進むか、左の道に進むかみたいに、道があるわけではなくて、だだっ広い広場の真ん中に立っていて、なにか指針になるような木が立っているわけでもない。あの木を目指そう、とか、あの川の音が聞こえる方に行ってみようとか、そういう感じではない。どこを見まわしても360°、どこにもなにもない空間の真ん中に立たされていて、どっちに行ってもいいですよ、どこへでも行けますよ、とは言われている(だれか他人に言われているのではなく自分でそう思っている)けれど、目標にするものがないからどこに行けばいいのか分からない。どこへでも行けるが、どこへ行くべきなのか、選択しようにもその素材がない。
山下澄人が「ベケットを読んでみてください。カフカを読んでみてください。生きていくことに自信がなくなります。自分の立っている場所が荒野だとあきらかになり呆然とします。だれもがそうだとそこには書かれている。」と言っていた、こういうことかもしれない。
『城』を読んでみる。きのうの小説的思考塾で『城』の話がでてきた。『罪と罰』もでた。あとは小島信夫も読む。自分の書いた小説も読んでもらいたい。とりあえずは「万事快調」をなんとか形にする。本の装丁も、これにしたい、というのが今日決まった。
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