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タイギゴ(15)

 異動を命じられたのは四月一日の二週間前だった。それまでは一週間前だったが今年から変わった。誰が意見したのか分からない。言ってすぐ変わるような会社だとは思っていなかった。同僚はみなダラダラした話し方をする。人間同士の関係はフラットで、上司にも軽口を言ったり、バカ話をしたり、明るい雰囲気で働きやすい。雑談は普通に喋る。しかし仕事に関してはパキッと縦割りな感じがある。だいたいいつも仕事の話は伝言ゲームで、それが時間がかかって鬱陶しいと思いながら、でもその儀式に付き合っている。どこの仕事もそうなのかもしれないが、お約束ごとがあって、それに則らないと話が進まない。この職場は保守的だと思う。保守的というのは、その儀式や段取りをきちんと踏まないと話が進まないってことだ。パソコンと似てる。
 とものりは六本木ヒルズの中にオフィスを構えている企業で働いていた。一度会社名は聞いたけれど分からなかった。「へぇ〜」と相づちを打った。二十七階にあるってことは覚えていた。考えてみると、聞いて一発で覚えられる企業名は一つもないんじゃないか。どの企業もなんどか聞いてやっと覚えた。覚えた、というかCMで聞かされ続けて勝手に頭に定着した。とものりとの会話を書こうと思っても、彼がしているのはまったく分からない仕事だからよく思い出せなかったし、たしか最後に会ったのは三月の雪の降った日だった。だんだん暖かくなりかけていたのにその日は雪が降った。でもその方が服装は楽だった。ちょうど春は、コートを着ていくと昼間は暑くて脱いで荷物になるけど、夜は寒いからコートがないと凍えてしまう。今は仕事は車で通勤しているから以前ほど悩ませられることはないけれど、大学生のときは駅まで自転車で通っていたから、その道中、午後から授業の日、行きは暑いから軽装でもいいけど、帰りは夜になるからコートを持って行かないと寒い。コートを着て自転車を漕ぐと十分もすれば体を動かして温かくなって、暑くなって脱ぐんだけど、最初からコートを着ないで自転車漕いで暑くなるのと、コートを着てて暑くなって脱ぐのは違った。コートを着ないと風邪をひきそうな体温の変化だった。
 とものりは六本木ヒルズのナントカって企業に勤め始めて三年目の三月だった。私は社会人を始めて一年目の三月だった。とものりは大学を四年で卒業し、そのまま入社、私は五年で卒業し、一年プー太郎をした。「プー太郎」はイヤな言葉なのかもしれないが、「プー太郎」はイヤな言葉ではなく、たった数年のプー太郎も許さない社会の雰囲気のほうが嫌だ。
 三鷹で会おうと決まり、私はいつも遅刻するのに今日は遅刻しなかった。楽しみにしているのかもしれないと思った。雨が朝から降っていた。ニュースでは「二度目の梅雨」と言っていた。梅雨は一度しかないものだと思っていた。なんで梅の雨と書くのか。電車の中で調べた。夕方六時だった。今日は七月の中旬だ。昨日までは夜七時くらいまで明るかったのに、もう電車の車窓から見ると車はほとんどがヘッドライトを点灯させて走っていた。電車のなかが妙に明るくて気持ちが悪かった。季節は忘れたが小学生のとき、朝学校へ行こうと布団から起きて階段を降りた。そのとき住んでいた家は当時で築三十年くらいの家で、木造二階建て、家のメインの居間は畳だった。一階の大きな部屋はその居間と、キッチンダイニング。二階は直線の階段を上り切った先の小さな、大人が一人立ったらいっぱいになってしまう踊り場を挟んで両隣に部屋があって、階段を登って左側は家族の服が置いてある部屋で、右側は家族全員が川の字で寝る部屋だった。今の新築の家は畳の部屋は一部屋だけで、あとはフローリングなのがスタンダードだが、その家はフローリングはキッチンダイニングだけで、あとの部屋は畳だった。畳の部屋は襖だった。
 玄関も引き戸だった。茶色くくすんだえんじ色のアルミニウムのサッシで、出入りするときに開ける家の中から見て左側の引き戸と、開かない(開くのかもしれないが普段閉じたままにしていた)二枚戸で、南向きなのか、そもそも「南向き」と言うときに何が南を向いているのか分からないのだけど、住宅街ですぐとなりに同じような家が建っていたが朝よく陽が入った。
 当時で築三十年、とさっきから書いたが実際のところは何年なのか分からない。「中古で一千万円で買った」ということだけは両親は教えてくれた。そう言うとなんだか子どもの頃の私は自分が住んでる家について知りたがっていて、なのに両親は「中古」であることと、「一千万円」だったことしか教えてくれなかったかのようになってしまうが、べつに私は知りたがったわけではない。そんな質問をしたことは一度もなかった。
 ある日朝起きて一階に降りると、いつもは陽が差しているはずの玄関の引き戸の外が真っ暗だった。「起きる時間を間違えた!」と思った。起きたばかりで夢と現実がごっちゃになっているような気がして、誰もいなかった。居間にも、キッチンにも、まだ私は玄関に立ちん坊になっていて居間もキッチンも確認したわけではないけれど、誰もいない、と思って怖がっていた。見たことのない暗さ、夜とか夕方の暗さとは違う、「鉛色」と書くとものすごく陳腐だけど、それまでにも曇りの日は経験したことはあったが、あの暗さとは全然違う、もっと暗く、音がなくて、周りに誰もいない、たった一人でここにいるような、誰にも見つけてもらえない海の底にいるみたいな、気持ちの悪い暗さだった。いまだに、黒い雨雲がたちこめていて昼間なのに暗い日は気持ち悪い。小学生のその日みたいにものすごく怖い気持ちになったりはしないが、「気持ち悪い暗さだ……」くらいには思う。そしてその日のことを思い出す。その日もたぶん普通に学校に行った。外に出てみると、家の中から見ているときより明るいことに安心して学校に行った。そして当たり前だが家には両親も妹もいて安心した。小学生のときは毎朝、近所の東田さんという女の子と登校していた。時間になると東田さんが家のインターホンを押した。
 私はあんパンを食べていた。口に含んで、
「はい! 牛乳!」
 早く飲み込まないといけなかった。でも飲み込めなかった。だから牛乳で流し込め、と母が言っていた。
 今になって思うと、私は小さいとき食べるのが遅かったのだけど、それは食道、消化器の発育が遅かっただけのことで、時間が経てば普通に食べられるようになった。だがそのときは遅かったので、朝ご飯は、早く食べられるものばかりだった。あんぱん、たまごかけごはん、ねこまんま(味噌汁の中にご飯を入れて食べる)。東田さんが来るより前に準備が済んで、家の前で待っているなんてことはなかった。いつも時間キッカリに東田さんはインターホンを押していた。

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