water(タイギゴ(23))
今日は、昨日は健康診断のついでに花粉症の薬をもらってきた。一昨日、仕事中ほんとにキツくて、いつもはだましだまし我慢しながら花粉の季節が終わるのを待っているんだけど、今年はもしかしたら無理かもしれない、毎日こんなヒドイ日がつづくわけではなくて、今日がたまたまキツい日なんだろうけれど、それにしてもキツいから、ちょうど健康診断の結果ももらいに行く日なので、一緒に花粉症の薬をもらってきて、さっき一回目を飲んだんだけど、おくすり手帳に張るフェキソフェナジンのシールに「2錠」と書かれていたから「1回2錠」だと思って二錠飲んだら、「1日2錠」だったみたいで、検索したらたぶんフェキソフェナジンは2錠飲んでも大丈夫そうではあるけれど、今日は夜は飲まないようにしよう、と決めて、そしたら、もしかしたら勘違い、思い込みってこともあるかもしれないけれど、なんとなく、お腹が重たくなってきたような気がして、眠たくなってきたような気がして、久しぶりに飲んだから、しかもいきなり二錠飲んでしまったから、効果覿面にでてるのかもしれなくて、父は、父も花粉症で、この時期は仕事から帰ってくるととりあえず風呂に入るまで不機嫌で、その不機嫌なのは花粉症がシンドイからなんだけど、もしかしたら家族の中でいちばんシンドイ人かもしれない。それで風呂に入って、鼻が詰まっているから、
「あーー」とか「うーー」とか言って、晩ご飯食べて薬飲んで、もう抗体もできているからアルコールで飲んでいるときもあったけれど、毎日そうしているわけではありません。だから父は眠くなったりはしないのかもしれないけれど、今はちょっと眠いような気がしているけれど、それも思い込みで、「眠いらしい」って思うとほんとにだんだん眠くなってくるから、
また俺の中の社会君が、
「病は気から、っていうけどさ、ほんとに病気の人にそんなこと言える?」
と言ってくる。そりゃそうですけど、わたしも「病は気から」って言葉は好きではないけれど、べつに病気の人に向かって言ってるわけではなくて、自分(わたし)に向けて言っているだけなので、そもそも俺は嫌いだからその「病は気から」って言葉は。だから使っていないのにわざわざ社会君は「病は気から」って言葉使ってっけど、俺言ってないじゃん。って話で。
社会君は反射的に、パン!と何か一言言ってくるだけで、わたしが反論するとすぐいなくなる。ぐうの音も出なくなったわけではなくて、単純に、思ったことをすぐ言って、そこからべつに議論したいわけでも、相手を言い負かしたいわけでもない。言い負かしたいときはあるのかもしれないけれど、そのときはわたしも戦うから、そのときは議論になる。でも基本的には一言言ったらいなくなる。
春分の日、昨日は月曜日だったが、今日一日働けばまた休みだ、と思って大丈夫だった。わざわざ、書くこともないのに書いているのは、今日は原稿は書いたし、また『美濃』の筆写をし始めた。
今日の日記を書いて、今日はこっちが書けるような気がして、なんでこれが書けないのか。たぶんTwitterみたいに、短い文章を書き連ねていくみたいに書けばいいんだけど、文章だから、文章だと長く書きたくなってしまって、そうだ、昨日の日記に書こうとしていたことを思い出した。
毎日、日記なり、小説なり書くようになって、今までそういうことをすることで何か自分の文章の筋力みたいなものだ備わったり、強くなったりしたのか分からなくて、絵描きの人の三年前の絵と今の絵を比べると明らかに成長しているのが分かるんだけど、自分の場合は(自分で自分を客観的には見れないってこともあるのかもしれないけれど)自分では自分が成長しているのか(そういえばこの文章では「自分」という言葉は使わずに「わたし」に書き換えていたんだった。それもどうでもいいことかも知れないけど)は分からない。やろうとしてることは変化はしているけれど、文章そのものが成長しているのかは分からない。
毎日、深呼吸(みこ)さんの先生が、
「毎日こんなに文章を書けるってことがすごいんですよ。普通はこんなには書けませんよ」
と言っていたのをみこさんの日記で読み、俺も他の人から見れば毎日文章を書いているのはすごいことなんだろうし、それは自分でも、三年間もよく続けてるな(毎日書く習慣を付けはじめたのは卒論のときからだから四年になる)と思うし、三日坊主だったはずなのにとも思う。でもそれは、たしかに面倒くさい日もあったけどなんとか「とにかく今日一日」「とにかく今日一日」と継続していった努力の部分もあるけれど、それ以上に、もともと生まれ持ってきたもののような気もしている。だからよく言えば「才能」なんだけど、そんないいもんでもなくて、そういう星の下に生まれちゃったんだからしょーがねーじゃん、っていう、こういう顔に生まれてきたのは俺のせいじゃねえよ、っていうのと同じで、自分で毎日書く習慣を獲得していったわけではなくて、そういう星の下に生まれてしまった。だからこれは他の人に誇れるようなものでもない。自分で作ったなら、
「これ俺が作ったんだよ」
って自慢してもいいけど、毎日書く習慣、もっというと文章が好きであることとか、毎日書いて、しかもそれを本にして誰かに読ませても平気でいられる精神も自分で作ったものではない。養老孟司が自殺する人を、
「あの人たちは、自分の体を自分のものだと思ってるんですかね? でも私たちの体って自分で作りました?
いつの間にか持ってたものでしょ。与えられたものでしょ? それをなんで自分の勝手な意志で壊しちゃうんですかね?」
と言っていた。だからと言って養老孟司だって死にたいと思ったことなんて何度もあるし、わたしもあるし、死んでしまった人を(不特定多数の知らない人たちは分からない。でも俺の友だちにも亡くなってしまった人は何人かいて、その人たちを頭ごなしに否定したくない)否定したわけでもないけど、たしかに自分の体って自分で作ったわけではないから自分のものではない。作ったといえば両親がわたしよりその感じに近いけれど、じゃあわたしの体は両親のものかというとそれは違うし、神様のもの? というとなんとなく気持ちは落ちつく、なんかそういう超越しちゃってて抽象的というか想像の及ばないものに与えられたものと考えてしまえばなんとなく「いったい誰のものなんだろう?」ってモヤモヤは落ちつきはするけれどそれも疑っている。だから誰のものなのか分からない。
葉っぱはそんなこと考えてない。この体はいったい誰のものなんだろう、とは考えてない。考えてるのかもしれない。脳みそがないから考えてない、と決めつけるのは人間中心的だし、人間ができているんだから他の生物にもできているに決まっている。どういう風に考えているのかは知らないけれど、まあ葉っぱは考えないとして、葉っぱはいつの間にか芽が出て、茎が伸びて、生きていく養分を土や日光や空気から得て(空気から得るというか空気を取り込んで自ら栄養を作って)、その力がなくなったり、養分を吸い取れなくなったら枯れて死んでいく。自力で栄養を作れているうちは生きている。作れなくなったら死ぬ。作れているうちは生きつづける。それは百年でも二百年でも、作れているうちはずっと生きつづける。人間も同じで、それは貯金残高がゼロになったときに悟ったんだけど、いつの間にか生まれて、自力で栄養を取り込めるうちは生きつづける。その力がなくなったら死ぬ。祖父母がまさにそうだった。だんだん食べものを食べなくなった。ほんとうに食べなくなった。父が毎日祖父母のところに行って(それも日記だった)ご飯を食べさせていたけれど、もう祖父母は死に向かって行っていて(俺たちもそうだけど)食べる必要がなくなった。「食欲がなくなった」んじゃなくて、食べる必要がなくなった。食べちゃったらまだ生き延びるから。それは何がストッパーになっているのか分からない。また宗教っぽいものが流れこもうとしているけれど、宗教も面白い。そういう科学で証明できないことを宗教で考えるのは面白いし、そもそも科学で全部説明できるとはもちろん思っていないから、でも既存の宗教に帰属して考えたいわけではなくて、こうして考えても答えのでないもの、「おじいちゃんおばあちゃんの食欲をなくしていたものはなんだったんだろう」って考えること、その考えることそのものが「宗教」で、別に新しい宗教を興したいわけでもないし、そういう、すこし嫌な言い方かもしれないけれどパッケージングされた「宗教」ではなくて、誰かを巻き込んだりすることなく、俺が勝手に一人で考えればいい。それを、まさにこうして文章を書きながら俺は考えているんだけど、この小説はいずれ本にしようとは思っているけれどだからといって誰かに宣伝したり啓蒙したりしたいわけではなく、ただこうして書きながら考えている姿を見せているだけで、いや、見せてもいないな。ただ書いている。で、それが人に読まれたりするのは副産物でしかない。
わたしは自分がどうしたいのか分からなくなる。昨日書こうとしていたことはちゃんと書いてあるか? けっきょく書こうとして違う話になったままずっとそのまま行ってしまったような気がする。最終的には葉っぱは自殺するのか、って話になった。話というか小説。わたしの文章は全部小説になる。昨日の夜は布団に横になりながら日記と小説はやっぱり違うよな、と考えていた。違うというのは、小島信夫「国立」を読んでいて思ったのだけど、
だから無名作家のまま死んでしまうことを残念に思い、「おれの人生は何であったか」なんてくやしがることはない。生前有名であったりそうでなかったりしたって、それはあとに残る。
(小島信夫「国立」『各務原・名古屋・国立』講談社文芸文庫、p.369)
今思いだしたけれど、ここは保坂和志『読書実録』にも引用されていた気がするし、二年ぐらい前に図書館で借りて冒頭だけ読んだ『残光』にも引用されているらしい。昨日は「国立」を読みながら興奮して、あまりしないんだけど、インスタのストーリーに四ページくらい写真を撮って連投した。
大学生のときに「小説を書かないと小説家になれないんだ」と思って小説を書き始めて、今は、「小説を読んでもらわないと小説家になれない(世に出られない)」と思っているんだけど、それはどうでもいいな、とも思っていて、小説を書くのがたのしくてそれで満足していて、あんまり他人に読んでほしい、とは思わない、書きたい、とは思うけど読んでほしい、とは思わない。だから新人賞に応募するつもりもないし、そもそも規定量があって、賞にもよるけれど一五〇枚とか二〇〇枚書かないといけないけれどそういうのも気にしていないから足りないし、オーバーしてる。一昨年書いた一七〇枚の小説も、原稿用紙に書いていたからポメラに打ち込んで形にしようと去年の年末していたけれど、面倒くさくなってやめた。今はやってない。次のを書いてる。
表に出すと評判が気になる。日記は気にならないのに小説はものすごく気になる。それに、こんなこと書いていいんだろうか、とやっぱり思って、それは自分のこともそうだし、他人のこともそうだし、もちろん小説だからフィクションで、あそこに書かれているとは全部が全部ウソの話ではないけれど、
「虚構100です」
と西加奈子が直木賞の会見で言っていたけれど、あれも虚構100で、そんなこと言ったら「ウソだ」とみんな言うかもしれないけれどけっこうウソ書いてる。評判が気になって、それで頭がいっぱいになってしまうから小説を他人に読ませたくない。しかも、書いているそれだけでたのしいんだからべつにいちいち読ませる必要もないな、いつも言っていることだけど、わたしが死んだあとに遺族が膨大な原稿用紙を見つけてそれをどうするかは本人たちに任せるしかない。捨てるなり、読んで面白いところだけ残しておくなり、誰かに渡して本にしてもらうなり、それを売ってもいいし、家の家宝として一冊だけ作るでも良し、言葉は形に残っちゃうから、とはいうけれど、たしかに音声の言葉は発した途端に消えてしまうから、それと比較して文字になった言葉はずっと残っているといわれているけれど、文字になったところで言葉は最後には音声と同じように消えてなくなる。今手元にある文庫本だっていつの間にか消えてなくなる。たしかに残ってはいるけれど、言葉そのものはそういう、どう頑張っても最後には消えてしまう性質なのかもしれないし、宿命なのかもしれないけれど、もう生まれた途端に消えてなくなることを宿命づけられている、
「人間みたいじゃん!」
これはわたしの無意識くんの声なのか、意識くんの声なのかどっちの声なのか分からないけれど、吉増剛造が東京大学でパフォーマンスをしている動画で、自作の詩の朗読をしているのだけど、朗読をしている最中に自分の中のだれかがしゃべり出すかもしれない、と言っていて、そうだよね、と思った。朗読しているときは朗読しないといけないのかもしれないけれど、その最中だろうと何だろうと、自分の中でだれかが囁いて、それを言いたくなる。でも「朗読の最中だから」と言ってその声を無視してしまう。それがいけなかった。たとえば今は『美濃』の中にある「モンマルトルの丘」を吉増剛造と同じように筆写しているのだけど、最初の一文は小説と同じようにひらがなで筆写していたけれど、これでは感じがでない、と思って、吉増剛造と同じようにひらがなをカタカナに、カタカナをひらがな二変換シテ筆写シタラシックリ来タ。「もんまるとるノ丘」ニハヒラガナハホトンドデテコナイカラアンマリヒラガナヲかたかなニ変換スルコトハナイケレド、モシ吉増剛造ノ筆写ヲシラナカッタラ、ヒラガナヲかたかなニ変換スルコトニモ躊躇シテイタト思ウ。ソンナるーるハドコニモナクテ、自分ガ「コウシタイ!」ト思ウヨウニ筆写スレバイイノニ、ソンナコトヲシテハイケナインジャナイカ、ト誰二言ワレタワケデモナイノニ思ッテシマウ。筆写ヒトツ取ッテモソウナノダカラ日常生活デハ誰モソンナコト言ッテイナイノニソウシナキャイケナインジャナイカト縛ラレテイルコトバカリダロウ。
ここでもひらがなをカタカナに変換してみて思ったけれど、カタカナで書くとちょっと前に自分が何を書いていたのかまったく分からなくなる。たぶんこれはそのうちそれがよくなって、自分が今なにを書いているか分からなくするためにカタカナで書くようになる気がするけれど、今は、ちょっと前に自分が何を書いていたかなんて気にしていないよ、と思っていたけれど、気にしていることが分かった。
それで昨日書こうとしていたのはなんだったのか。もう面倒くさいからここでけりを付けようとしたけれど、また忘れてしまった。今日書こうとしていたのは、職場の気になっている女性に、
「こんど職場の(若い世代)何人かでディズニーランド行くんですけど、八嶋さんもどうですか?」
と訊かれて、ちょっと大変そうだな、と思った。
食事に行くとかならまだ三時間ぐらいだし騒げるけど、まだ飲みにも行ったことがない、職場で会ったことしかない人といきなりディズニーランドに行くって大変そうだな、と考えながら、
「ぜひ!」
と答えて、もちろん楽しみではあるし、そもそも、ここではもう二年も働いているのに未だに初対面気分なのもどうかと思うけれど、気になっているとか言ってるくせにいざお誘いがあるとビビってしまう、なんなんだよお前、と思った話を書きたかっただけだった。
小島信夫の「国立」は、全部で三〇章あるが、長さもバラバラで、去年(二〇二二年)の年末に講談社文芸文庫から出た『各務原・名古屋・国立』に収録されている「年譜」によれば、「国立」は二〇〇一年四月から十一月まで(六月は休載)七回にわたって連載されたようで、昨日読んでいたところ、
「先々月は『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』を書架から取り出して眺めようとするところで、私、老作家・コジマ・ノブオさんは終えることにした。」(小島信夫「国立」『各務原・名古屋・国立』講談社文芸文庫、p.276)
と書かれているから、ちょうど9章と10章のここで切れていたんだろうと思う。しかもその前の9章は、
「まったく別のものといえば、その通りである。四、五日前から、私は十八世紀半ば頃のイギリスのヨーク州の牧師であった、スターンという人物の『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』を思い出した。そして昨日寝る前に書架の中から見おぼえのある筑摩書房の『世界文学大系』21の『リチャードソン、スターン』の部厚い一冊をとり出した。」(同上、p.276)
とたったこれだけである。だからなんなのかは分からないけれど、小島信夫がどういう気持ちで書いてるのかは分からないけれど、書き始めて飽きたところでバンバン切って、章番号を新しく付番して、立て直して書き始める、「もうちょっと分量を書かないと一章として成立しないんじゃないか」とかそういうことは考えない。どんどん次に行く。小島信夫がそういう気持ちで書いているのかは分からないけれど、そうなんじゃないかと思う。
風俗の予約が、入らないだろうとダメ元で連絡してみたら通ってしまったのでもう帰らないといけないんだけど、コメダに今いて、となりのご婦人二人組がいろんな話をしている。気にしないようにしながら日記を書いているので基本的には何も覚えていないんだけど、そのうちの一人がスマホを見て、たぶん娘さんが送ってきたLINEを読んでいるんだけど、それがすごくいい朗読で、心がこもっておらず淡々と読んでいる、そもそも友だちに聞かせるためだけに読んでいるだけだし、内容も単なる事務的な内容で、市役所に行ってきてナントカの手続きをしてきてください、とか、買い物に行ってきてください、とか、もしかしたら仕事が長びくかもしれないからそのときは息子(孫)のお迎えをお願いします、とかそういう内容なんだけど、それを読んでいるのがすごくいい。
「貯金というお金の使い方がある。ひと月の給料の半分で貯金を買う」
こんな言い方ではなかったけれど坂口恭平がTwitterでちょっと前に質問にAI並みの速さで答えるからなんでも送ってきて〜、と言っていて、たまに、
「今から新幹線乗るから二時間質問に答えるよ〜」
というのもあって、山下澄人がTwitterではないけど人生相談みたいなものにどこかのサイトで答えてて(以前はたしか就活サポートのサイトだった気がするけれど内容はまったく就職から離れていって、今はどこでやってるのか分からない。毎週土曜日とか、月一回の更新とかタイミングが決まってるわけではなくて、質問が来たら答える、って感じなんだろうけれど、ここ最近は見てない。二週間、なんなら一ヶ月ぐらい見ていないような気がしたけれど、インスタでも投稿してて見たら二日前だった)、
「流行りのFIREについてどう思いますか?私はそれを目指すあまり、いまお金のことで頭がいっぱいです。一旦、落ち着きたいです。豊かな老後も送りたいけど、長生きできるかわからないから、今も大事に生きたいのです。」
という質問に、
「FIRE。早期リタイア。そんな言葉聞いたことも見たこともなかったやつが書きますが」
と答えはじめていて、たしかにわたしも「流行りのFIRE」と言われても、「そんなの最近流行ってんの?」って感じで知らない。『Back To The Future II』の2015年の世界でマーティーがニードルスにそそのかされて横領のメンバーに入れられるけれどフジツウさんに傍受されていてクビになるときに、
「You are FIRE!」
と言われているところを観たから「FIRE」はたぶん早期退社とかそういうことなのかな、とは思うけれど、それは転職とは違って退職なら、たとえば大橋巨泉とか上岡龍太郎みたいに、どかっと稼いで早く芸能界を辞めるみたいなことが一般人にも降りてきたのかと思うけれど、たぶんそういう話ではなくて、やれ株の投資をしろとか、それこそニーサがどうのこうのとか、わたしはお金のことはあんまりよく分からなくて、できれば誰かに任せたい(友だちに会計士はいる)けれどそれもまたお金を払わないといけない、
「貯金を買う!」
いつまで経ってもそんなことにはならないで、あればあるだけ使ってしまうから、そんな反省の弁をここに書いてもしょうがないんだけど、そんな話をしたかったわけではなくて、ただ、坂口恭平と山下澄人が前にTwitterでバトルしてたな、とそれだけだった。
風俗に二日続けて行ってしまって、さすがにこんなことをしていると禍福は糾える縄の如しでよくないことが降りかかるんじゃないかと心配していたが、帰り道にトボトボ歩きながら今日の晩ごはんどうしよう、探しながら歩いて何もなければ二十四時間営業の油そばの大盛りにしようと大通りに出たら、前からその店の前をよく通ったから気にはなっていたけれど行かなかった白湯ラーメンの店を思い出してそこに行った。ビールもハイボールも頼まなかった。チャーシュー麺の九条ネギ追加トッピング。つい、ネギ好きなのでトッピングの食券を買ってしまうのだけどなんであんな親の仇みたいに入れているのか。つい安いから買ってしまうのだけど、今日は大丈夫だった(それでもすこし多かった)けど、一度エライ目に遭って、もしかしたら今日行こうとしてた油そばの店かもしれない。
いつかのように歩きながら小説を書いている。前回は(たしかタイギゴの前々回。でもこれをタイギゴとして発表するかは決めてない)南青山を歩きながら書いていたからそこから見える街を実況もできたけれど、今はド地元を歩いているので書けない。
二日連続で風俗に行き、昨日も今日も「お疲れなんですね。休んでくださいね」と言われたので相当疲れて見えるのかもしれない。今日の相手の人は初めましての人で、たぶん相手はフランクにしゃべりたいんだろうけれど、初対面の人にタメ口きくのは抵抗があって(わたしにタメ口きくのは平気。わたしが使うのが抵抗がある)、むにゃむにゃむにゃと語尾を濁した感じになる。
作者スターンは冒頭において、あの有名な次のような〈行為についての意見〉を話しはじめる。自分の父と母はひどい、そろって心得のない二人だった。それはどうしてか、というとこうだ。二人は彼を生み出そうとする営みをしていた。そういうものは、慎重に行為されてしかるべきであった。それは誰が見ても分ることだ。何故かというと、父親となるべき夫の体液を母親となるべき妻の体内に入れるということであるからだ。——こういうことを作者は長々と語る。(これこそ意見ではないか)スターンは、意見をいう相手をえらんで話しかける。読者はいやおうなしにききやくにさせられる。営みがある時にさしかかったとき、妻はこういった。
「あなた、時計のネジを巻き忘れていない?」
そして夫は挫折した。こういう不謹慎の態度のためにその結果、生れた息子は恵まれた理性ある普通の——たぶん紳士となるべき資格を得ることがかなわず、死ぬまでそうした憂きめを見た。なぜかというと、⋯⋯小さな精子という生き物は、その中に人間を成立させている、あらゆるものがそなわっている。それがしかるべきトンネルを誘導されて、ある奥深いところへとみちびかれる。それは大事な大事な仕事で、何の骨折も必要ない、ものと思ってはいけない。その営みの延長の新たな営みは、眼に見えないから、といってないがしろにしたり、忘れてしまうべきではないのだ。それを、この夫婦は無視した、と同じ結果になった。
今いったようなことは、読者よ、まじめに受けとらなければいけない。お前はどうして知っているのか、もちろん父親が、息子の私をつくづくと眺めながら、タメイキマジリに打明けたのだ。
(小島信夫「国立」『各務原・名古屋・国立』講談社文芸文庫、pp.277〜278)
自分が攻めのとき(たぶんこれはタイギゴには出さない。ボツにする)、それはタイギゴにはこの手の話題は載せないと決めてたわけではなくて、ほんとは書いてもいいんだけど、まだカモフラージュができていないような気がして(そもそも歩きながら書いてない。コメダで書いてる)、どうしていいのか分からない。
で、お金を払っているけれどわたしも相手に気持ちよくなってほしいわけで、こんなの書いてていいんだろうか、そもそも風俗に通っている連中は働いてるその人からしたら気持ち悪い連中なんだけど、客で金払ってるんだから何してもいいなんてことはない。いい人だとは思われなくてもいいけど、二度と来んな、とは思われたくない。
それで全然話がすすまないけれど今日の人は初めてだったので、
「インドア? アウトドア派?」
と訊かれて、
「インドアですね」
その人は腰にタオルを巻いて歯磨きをしてた。わたしも歯磨きをしてた。口をゆすいでいたときの丸まった背中を後ろから見ていてかわいいな、と思った。入れ替わりでわたしが口をゆすいでベッドのある部屋に戻ると彼はタオルをはずしてベッドの上にいて、わたしもタオルをはずしてとなりに寝た。
前か後か忘れたけど、
「けっこうお酒飲むの?」
「うん、強い方かもしれないです」
「強そう」
と話しているとき、ビール500ml二本は多いのか少ないのか分からなかった。薬剤師さんは、
「お酒はどれぐらい飲まれるんですか?」
と訊かれて、500二本がもしかしたら多いかもしれないから、
「500mlを一本ぐらいです」
と嘘をついた話があって、わたしは500二本に、ハイボールか焼酎の炭酸割りを一、二杯飲むので平均からすると多いのかもしれない。
酔う酔わないは量よりも飲み方の影響の方が大きくて、結果的にはたくさん飲んでも、ご飯をちゃんと食べて、ちょっとずつ長い時間をかけて飲めば酔わないし、少しの量でも空腹に一気に飲めば潰れてしまう。だから「たくさん飲むね」ってところを見せたいときはゆっくり飲む。なんなら待ち合わせの前に牛丼屋にでも寄るかもしれない。逆にさっさと酔いたいときはそんなことしないけど、空腹に飲むと酔うというより具合が悪くなるのでそういう飲み方はしない。
歯磨きしながら丸まっている背中を何度も思い出していて、わたしはできることなら、というかその人が恋人だったらうしろから抱きついたかもしれない。男の動詞としては「抱きしめる」と、いわゆる男らしい人というか、主導権を握りたい人はそういうのかもしれないけれど、わたしの場合は「抱きつきたい」だった。自分の小説を読んで、自分(男)が書いているからアレは主人公は男なんだと思っていたけれど、この前、タイギゴの主人公は「女性」だったことに気がついた。そうしたら何を書いても大丈夫だと思った。わたしは日記には「性」のことは書かない。書いてもいいんだけど書くのをためらうし、隠したがっていて、それこそ風俗に行ったって話は書けない。なぜなら日記に書くと真実だと思われるからだ。だいたいいつもわたしは「新宿に行った」とか「都心に行った」とか「夕方から人と会う約束があった」という書き方をしている。去年の下半期はたぶんそういう記述が毎週のようにでてくる。ということは毎週のように行っていたからだ。もしかしたらわたしよ日記の主人公は女性だったのかもしれない。去年の年末か今年の年始めにA先生と会ったときに、
「なんか本書いて売ってんの?」
と訊かれて、
「日記を書いて売ってます」
と答えたときに、
「日記、他人に読まれて恥ずかしくないの?」
「恥ずかしくはないですね。先生は嫌ですか?」
「嫌。出すんだとしたら、他人に読まれていい日記と読まれたくない日記両方書く」
と言われて、そのときは日記書いて出すのって恥ずかしいかな、そういえばほぼ日手帳に日記書いてたときは絶対誰にも見せたくなかったから、たしかにそうだったのかもしれないけれど、毎日投稿するようになってその恥みたいなものが麻痺しちゃったのかな、と考えたけれど、こうしてポメラに書いているのはこれは「小説」のつもりで書いています。で、なんで手書きではなくポメラで書いているかというと、将来、本にしようと思っているからです。そのために手書きだと打ち込むのが大変なので、最初からポメラに書いています。
それで、考えてみると、日記はなにも考えずに、つまり、なにもストップもかけないで書いているつもりなんだけど、書いていないことがあるな、それは「性」については書いていないな、と思っていたんだけど、書いていないからわたしは書いていて、これはカフカ風の言葉遊びをしたんではなくて、書いていないからこそ書いていたってのは実感としてあって、さっきジュリーの動画を観た。この例えはなんかわたしが言おうとしていることをすごくしょうもないことと並べてしまうようで嫌なんだけど、コメントの中に「キムタクよりジュリーの方がかっこいい」と書かれていて、たとえば歌謡曲とか、昔のテレビ、ドラマ、曲、なんでも昔のものの良さを協調するときに、今の俳優、アイドル、ドラマ、曲をけなす表現は溢れていて、もっとフツーに楽しめないのかな、コイツら、と思うんだけどジュリーとキムタクを比較したコイツもその一人で、でも最後に、
「私はキムタクにはなんの興味もないんですけどね笑」
と書いているんだけど、実際はその反対で、意識していない、目に入っていないと言いつつわざわざここに出してくるってことはかなり意識しているからそうしているのであって、それはわたしの母親もそうで、母親はEXILEがあまり好きではない(と本人は言っている)らしく、テレビに出てきて、服を脱いで上半身を露わにしたりすると露骨に顔を背けるのだけど、わたしからしたら「意識しすぎ」と思う。
「性、について書いてないな」
って思ってるってことは、それが引っかかっているってことだから意識してる。書いていないけれどべつに引っかかってないことなんてたくさんあって、右手が痛くなってきたから、痛いからそれに意識が引っぱられて次の文章が浮かばなくなってきた。だいたい毎日1,000字くらい書きたいな、と思っていて今日は1,500書いたからもういいんじゃないかな。じゃあ、次書くときの宿題として、なんの話をしていたんだっけ? と今日書いたものを読み返してみたけれど、もう完結してた。
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