2021/01/26(未明-p.317)


 いそがしい。『未明の闘争』『2011年の棚橋弘至と中邑真輔』『推し、燃ゆ』『猫がこなくなった』『続•伊藤比呂美詩集』、5冊の本を読まないといけない。いけないと決めたのは俺なんだけど、それに加えてnoteのこの日記を書いて、プライベートの日記を書いて、小説も書くから時間がない。ぼーっともしてたい。バイトにも行かないといけない。家事もしなきゃいけない。21時には布団に入りたい。そうなるといそがしい。

 ↑書き出しからしてつまらない。noteは新しい文章が投稿されるたびにちゃんと毎回読んでいるのは1人か2人しかいなくて、今日の時点で41人私はフォローしているけれど、その10分の1も読んでない。なんとなくだけれど、noteのアカウントを持っている人は、誰かの文章を読みたいというより、書く場がほしくて開設した人が多いんじゃないか。まさに私がそのクチで、読むのは二の次どころか三の次、圧倒的に書く方がメインだ。

 これまで「自転車操業になる」と言いつづけながら、たしかに投稿の前日に書いた日記もあったけれど、「何も書くことない!」みたいな焦燥感に駆られることはなかった。心に余裕をもって書くことができたんだけど、今日はほんとに書くことがなくて、現在16時34分、仕事がこれから夜にかけてあるので仕事後に書くのはかなりつらい。時間の余裕がないし、体力も持つかわからない。べつにフルタイムで働くわけではないから体力は残っているだろうけれど、時間が過ぎれば過ぎるほどどんどん断崖に気持ちが追い込まれていくから、早いうちに書いておくのが吉である! と、『未明の闘争』を読もうと思ってたバスのなかで書きはじめた。

 こんだけ書けばまあいいだろう。笑
 焦っている。焦っているとつまらない書き出しをしてしまう。なにがつまらないと感じるかというと、なんとなく、説教くさいというか、自己啓発っぽい臭いを感じるからだ。なにか他人に教え諭すような、「みんなも僕の方法を試してみて♪」というような面倒臭さ、胡散臭さ、自己顕示欲とかの臭いがして、とにかくつまらない。つまらん文章は俺がつまらんから書きたくない。そう言いながら昨日はそんなにおいの若干する日記をnoteに書いてしまったけれど、それでも書いてる最中の自分がたのしくその文章を書いていれば良しとしてしまう。
 どうでもいいんだけど、他の人がnoteに投稿される文章にはなんとなく自己啓発っぽいこととか、教訓めいたことが書かれていそうなタイトルの文章がたくさんあって「つまんねぇな」と思う。なにか意味ある文章でないといられないのか!
 柿内正午さんのポッドキャスト「ポイエティークRADIO」の第二十八回で保坂和志の『猫がこなくなった』の話から展開して柿内さんの保坂和志論を話していて、保坂和志の中にある小島信夫イズムは自分のインテリ性、「そうは言っても僕(小島信夫)はインテリなんですけどね」という部分をひっくり返すためのものだ、みたいなことを言っていて、自分でも何を書いているのか分からないから読んでいる人も俺が何を言ってるのか分からないと思うけれど、そもそも小島信夫がああいう文章を書いたのは自分のインテリ性(本当はインテレクチュアリズムと書かなければいけないらしいんだけど、長いし、くちびるに馴染んでない単語、生まれてはじめて書く単語で変な感じがするから書けない。)を吹き飛ばすためというか、いかに自分のインテリ(理路整然とした部分)から離れるためにとか、インテリから離れたところで小説を書くためにああいう小説を書いたのであって(小島信夫の小説は「あれ? なんの話してたんだっけ?」となってからが一番面白い、と柿内さんはポッドキャストの中で言ってる)、だってもともと小島信夫は復員後、学校の先生をしていたんだから小島信夫はインテリなんです。
 で、その「小島信夫イズム」を引き継ぐ保坂和志もやっぱりインテリで、柿内さん曰く、『猫がこなくなった』の表題作「猫がこなくなった」を読んで、
「今までの長篇小説では「何を話しても結局最終的に猫の話になっちゃうまだらボケじじい感」があったけど、猫の話だけしてるとこんなに明晰なのか、この人は!」
 と思ったらしい。でも保坂和志は手塚治虫みたいに「ぼくは劇画も書けるんです」という風に理路整然とした小説を書いたわけではないだろうと勝手な想像だけど僕は思うし、理路整然とした小説を書けるからといって保坂和志はインテリだと結論するのは乱暴かもしれないけど、でもやっぱり保坂和志も自分の中に理路整然としているところがちゃんとあって、自分のインテリっぽいところから離れたところで小説を書くために小説を書いている。“型がない型破り”のように見えて実際はちゃんと“型があって型破りをしている”のかもしれない、そしてそれを本人(保坂和志)は自覚的にやってる? 小島信夫や保坂和志の小説は、“インテリである小島信夫や保坂和志が、インテリは絶対しないような書き方で小説を書いている”から面白いのであって、その“落差”がないと面白くないんじゃないか、と考えると俺はインテリじゃないから、俺が小島信夫や保坂和志っぽいことをやっても面白くない、ただの下手なまねびなんじゃないか? というかそんなことについては結構前から感じ取ってた。こういうどんどん話題が拡散していく書き方(あれ? なんの話してたんだっけ? という書き方)は物を知らないと拡散できない。当たり前だが、文章は知っていることについてしか書けない。でもこの当たり前なことを本気で考えていくとどんどん深みにハマっていく。文章って、知ってることについてしか書けないんだよ? この問いは、人間ってかならず死ぬんだよ? って言葉くらい深い。でも小島信夫も保坂和志も、小説はインテリしか書いちゃいけないなんて思ってないはずだ。むしろそういう思い込みが小説をどんどんつまらなくしてきた、と思ってるはずだ。

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