2021/05/15(ガープ-p.24)


 発見があった。コロンブスよろしく新大陸発見ではないんだけど、『書きあぐねている人のための小説入門』に書かれていることについて、読んでアタマで理解している次元をひとつ越えて、実感としてわかったことが1つあった。今度はそれを実践しないといけないんだけど、それはまた別の話で、とにかく昨日1個わかって嬉しかった。
 アタマでは分かっていたけれど、実感にまで落とし込むのは最近あんまりなかったから嬉しかった。

 乗代雄介が『旅する練習』で三島由紀夫賞を獲ったので、冒頭数ページを読んで放置していた『旅する練習』を朝から読んでいる。昨日、「100分de名著」の三島由紀夫『金閣寺』篇を見て、『金閣寺』は冒頭からいきなり父親と金閣を見に行っていたと思っていたから、そうか、その前に有為子は撃たれるのか。
『金閣寺』を読んで挫折したのは大学生のときだったと思うけど、それまではストーリー小説を読んでいたから、冒頭で早くも金閣寺に対して美しいと感じなくなってしまう場面を持ってくるのはすごいと思った。ストーリー小説だったら、現実に見ている金閣寺が美しくない! って感じる場面はこの小説の肝だから、もっとお膳立てをしてというか、状況を整えてから「ドンッ!」とくると思っていたから、
「そうか。あらすじに書かれているようなことは純文学にとってはそんなに大事なことではなくて、そのあとの方が小説として書かなきゃいけないことなんだな」
 と思った。なんて言うのかな。あらすじに書かれているようなことはあくまでも「舞台装置/舞台設定」でしかなくて、それで読者をビックリさせようみたいなことではない。ただ、「100分de名著」には三島由紀夫の『金閣寺』創作ノートがでてきて、ご丁寧に「主題 美への嫉妬」と書かれていたけれど、あれは小説を書き出す前に決めていたのか? 「創作ノート」なんだからそうなんだと思うけれど、そう考えると、小説はそれなりに歴史があるものだけど、保坂和志が、「小説家は小説を書き出す前に結末まで決まっている青写真をもとに書くわけではない。でもそうだと思っている人はたくさんいる」という言葉を真に受けると、なんだからすごく遅れているような気もする。音楽とか絵画なら、何も頭に浮かんでいないけどとりあえず手を動かしてみるみたいな作り方もあることは一般にも浸透しているけれど、小説はそういう書き方はされていないと思われている。ラクガキみたいな絵画はあるけれど、ラクガキみたいな小説はない。誰かが、
「俺の書くものは便所のラクガキみたいなものだ」
 って言ってたけど、山下澄人だったか? 山下澄人からしたら『緑のさる』はまさにラクガキみたいな小説なのかもしれないけれど、俺はラクガキだとは思って読んでないから、それを「遅れている」と形容していいのか分からないけど、じゃあ、バスキアの絵をラクガキと思っているのかというと分からない。

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