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タイギゴ(19)

(19)
 金がない、とにかく金がない。
 このタイギゴの連載をしているのも、思い立ったからやっているだけ、なのもそうだけど、月末の給料日までの時間つぶしというか、
「あっ、タイギゴ書かないと」
「あっ、今日こそはタイギゴ書かないと」
 と思っているうちに、やるべきことはどんどん先延ばしになって、
「明日やろう」
「明日こそやろう」
 どんどん時間が過ぎていく、それを人工的に生み出す、さっさと給料日がやってくる錯覚をさせるために書いていて、とくに今回に関してはマジで金がないので、
「なんだ、お前どうせ散財したんだろう」
 と思われるかもしれないが、そうではないので、外食も減らして、一汁一菜にして、それなりに頑張っているけれどそうなのだ。で、まだ正規雇用ではなくバイトなので、給料もまあそんな感じで、
 みんなフリーターで暮らしてる子とか大学時代のバイト時代にもたくさんいたけれどどうしているんだろうと思う。自分が散財しているならそれをやめればいいけれど、それなりに工夫しているけれど生活がしんどい、って人はどうしているんだろう。さっさと最低賃金1,500円にしてくれ、というか、しろ。なんで「してくれ」なんてこっちが下手にでないといけないのか? 「さっさとしろ」そうすればかなり俺の生活は余裕がでてくる。日本は晩婚化だそうだ。当たり前だ。ジジイは黙ってろ。余裕がでてくるってことは油断する危険もある(お金使っちゃう)もあるけれど、生活自体が厳しくなっちゃっているので、防衛費拡大を賛成している人たちが当事者意識が欠落しているのと同じで、けっきょくバイトだけで生活している人の気持ちなんて分かってない。自分の子どもとか孫が将来戦争に行かされるかもしれないと思うからこそわたしは反対するけれど、賛成しているのは、どこか遠くの、自分とは関係ない、まさか自分の子どもや孫が最前線に行くなんて思ってない、「自衛隊の人たちが行くんでしょ? 私たちの家族に自衛隊の人いないもん。だから関係ないもん」ってそういう気持ちなんだろう。子育て支援だってそう。同性婚もそう。「べつに同性婚なんてしなくてもいいじゃん!」、異性愛者にとってはいちいちそんなこと考えなくていいだけで、なぜなら異性愛者が生きやすいようにデザインされているで、そんなこと考えなくていい、だから「いらないじゃん」って言う、ちゃんと権利を持ってて行使できる人が「権利なんかなくったって、お互いが愛し合っていればそれでいいじゃん」と言う。ちゃんと毎日お風呂に入れる人が、「風呂なしアパートだっていいじゃん。近くに銭湯あるし、1日ぐらい入らなくてもいいじゃん」
 日々障害にぶち当たっている人が言っているのに関係ない人が「整備しなくていいじゃん」「日本には差別ないじゃん」と言う、日本に差別はある、ないわけない。
 自分が生きるためには何書いてもいいじゃないか。そもそもこれは小説じゃないか。「小説を書こう」と小説を書き始めると「小説を書こう」としまって、たぶん読んでいる方も、文章から醸し出されている雰囲気が「小説」になっているから、リアリティーを求めるくせに(くせになんて言い方よくないけど)、「これは小説です」とちゃんとわかった上で読んでいる。それは僕も含めてそうなんだけど。
 じゃあ、もし、わたしが毎日書いている「日記」が全部「小説」だったら。初めから終わりまですべて真っ赤なウソだったら。リアリティーを求めてるんでしょ? だったらあんなに「リアル」なものはない。「日記」だと思って読んでいるんだから。この文章だってそうよ。これ「エッセイ」とか、「日記」っぽいものとして読んでるんでしょ? 
「うそだよ、全部」
 ってなったらどうする? どうする家康。
 だから、フィクションをどうやったらもっともらしく、リアリティーがあるように書けるか、なんてことに力を注がないで、実体験をそのまま書いてしまえば、「小説にはもっともらしいリアリティーが必要」って項目はクリアできる。だってほんとにあったことなんだもん、リアリティーもヘチマもなく「ほんと」なんだもん。でも「ほんと」と「リアル」は違う。「リアル」ってのはそれっぽさを喚起させればよくて、「忠実」であることとはまた違う。
 気を紛らわすために、猛烈に文章を書いていく。この半年間はこんな生活が続きそうなので、たぶんタイギゴは猛烈なものにあると思う。「金ねえ」ことの恐れ。不安。死にたい。でもその恐れから逃れるために猛烈に書かれていく文章。読む人にとって面白いとかつまんないとかはどうでもよくて、とにかく自分が文章を書いているあいだは死なないで済む。金がないってことに直面しないで済んでいる、だからそのためだけに書いているので、もしかしたら劇薬かもしれない。
「いや、そんな大したことないよ」
「そこまでの鬼才ぶりは君にはないよ」
 たしかにそうだった。
「小説を書こうとすると、「小説を書こうとしちゃう」んですよね」
 と言っていた。

 誰が?
 お前が言ったんじゃないの?
 俺言ってないよ、お前じゃないの?
 俺言わないだろ、小説書かないもん。お前書く?
 書かない。
 じゃあ誰?
 誰でもいいんじゃない?
 誰でもいいね、どうせ答えでてこないもん
 そういえばお前、返さないといけないLINE返してないじゃん、
 うん、
 どうすんの?
 どうすんのもなにもどうもしないよ、「なるようになれ!」と思っているよ
 なるようになればいいか!
 うん、なるようになればいいよ! どうしたっておんなじなんだもん

 一瞬の気の迷いというか、魔が差したというか、酒を飲むと誰彼構わず連絡したくなる、という人がいるがわたしはその気持ちが分からなくて、連絡したら、すくなくともその人が来るまではここにいないといけないんだけど、わたしがしたいことはだた誰かに連絡する、ってことだけで、本当に来てもらったら困る、
 来ないで!
 ただ連絡したいだけ、本当に来られてもそのときにはもう気持ちは冷めているから、
「なんで来たの?」
 とはさすがに訊かない、自分で呼んだことは分かっているから、でも、
「来たって、もう、俺たち、帰るぜ?」
 ってなる。だから呼んだことはない、呼びたくなってタマラナクなって連絡したことはあるけれど、一回しかないはず、覚えてない、
「本は何を読んだらいいですか?」
 読みたい本は自分で探すしかないんだと思う、もしここでTwitterとかで、ぼくなに読めばいいですかね? とかって投稿して中には「これ、オススメですよ」と教えてくれる人もいるかもしれないし、興味がわいて明日買いに行くかもしれない、明日買いに行った、わたしは明日買いに行った、明日はまだ来ていないけれど、「わたしは明日買いに行った」と書いてしまえば、今日の時点で「わたし」は明日、本を買いに行くことができる、
 これおもしろいのかな?
 おもしろくなくてよくて、とにかく、これを書いている時間は死なないで済む、それだけのために書いている、そう、この前、山下澄人の小説読んでたら、よく、没入するとまわりのことが気にならなくなるとかって言うじゃん? でも俺はそんなことになったことなかったんだけど、この前はじめて、山下澄人の小説読んでたらまわりの、それこそ「金ねぇ、不安!」とか、そういうことが入ってこなくなって、カンタンに言えば没入してたんだけど、小説読んでてはじめてそんな境地になった、だから小説おもしれ、ってなった。
 誰の話?
 俺の話
 この話、前にも書いた気がするんだけど?
 また同じ話してたらごめんね。
 この前、AさんとTwitterのスペースでお話して、わたしは、
「同じ話を何度もしてるのが人間なんじゃないか」
 って言ってた、なかなかいいこと言うな、と、〈わたしB〉は思ってた、話してたのは〈わたしA〉で、〈わたしA〉は「なんか」を連呼してた、「なんか」と前置きするのが〈わたしA〉の癖なんだ、とあとで聞き直して分かった、人間は同じ話をしているのが人間で、それこそ、山下澄人の『君たちはしかし再び来い』は同じ話を何回もしていると指摘されて、はじめて分かった、たしかに同じ話を何度もしている、それを言語化できていなかったけれど感じ取ってはいて、でもそれはネガティブな感情で受け取っていたから、
「また、腸がやぶけて入院する話だよ」
 と思ってた、だから読み進めなかった、
 でもそれはそれでいいんじゃないの?
 作者はこういう意図で書いているから、その視点から読めば面白くなるよ、
 っていうのも分からなくはないけれど、なんで俺は「読者」なのに、「作者」目線で分かったような気持ちにならないといけないのか、それって、社会が経営者目線からしか語られなくなって、大多数を占めている労働者の声が全然表に出てこないのと同じじゃないか、なんでインタビューは経営者にしかしないのか、小説のインタビューを小説家にしたってしょうがないじゃないか、今日YouTubeを観てたらある人は、
「テレビも、出版社も含めてだけど、メディアがダサい!」
 と言っていて、ものすごく腑に落ちた、メディアがダサい、ほんとダサい、テレ朝ダサい、そもそもなんであんなに偉そうなんだろう、
 ずっと愚痴を書いている気がする、べつにいいか、これでどうこうしたいとかないんだし、そもそも誰も読んでない、もっときれいなものを読みたい人はそちらへどうぞ、読み物はたくさんある、
 これも小説です
 この小説はフィクションです。実際の個人、団体等にはいっさい関係ありません。
 もちろんPINFUとも。
 お腹の痛さが尋常じゃなかった、
 わたしは急にわたしは幸せじゃないか、と思った。部屋は寒い、雨が降っているらしいけれど、「らしい」じゃない、雨が降っていて、それは本当に降っていて、それはカーテンは閉めているので見てはいないけれど、昼すぎから雨が降り出しているのは音で分かった、
 音で分かったんなら見なくてもわかるじゃん
 その通りで、今日はずっと暗かった、雨雲が空を覆っているから暗かった、毎日十時にはこの部屋に唯一その一時間だけ部屋に日光が射した、いちばん日当たりのいいところに豆苗とヒヤシンスを置いているが一時間しか陽が差さないから全然育たなかった、豆苗は一本だけやけに成長している、ヒヤシンスは青い子どものちんちんみたいな葉が開く前の茎のような大きいなものが上に伸びていた、一ヵ月以上経つがまだ花は出ていなかった、電気が点いている、電気が使えている、暖房は点けていなかった、点けてもあまり部屋は暖まらなかった、だから点けていなかった、部屋は寒い、でもこの雨の中、雨に打たれて生活しているわけではない、雨をよける部屋の中に、たしかに遊ぶお金はなかった、でも遊ぶお金がないだけでご飯は毎日食べられているじゃないか、こうしてべつに世界になくてもいい文章を書くことができているじゃないか、これは電気が使えているからだ、一度ガスを止められた、この寒さの中、冷水で体を洗わないといけない日がくると思うとそれは怖かった、次の支払いはちゃんとした、わたしは学んだ、まだ冷水で体を洗う日は来ていなかった、わたしは温かいシャワーを浴びることができた、ガスを止められたときは銭湯に行った、まだ銭湯に行く余裕があった、マリーアントワネットと同じだ、
「ガスが止められたなら銭湯に行けばいいじゃない」
 マリーアントワネットは言った、でも今は銭湯には行けなかった、週に一回は銭湯に行こう、と決めていたがもう何ヶ月も行っていない、少なくとも二ヵ月は行っていない、でも生きているじゃないか、もちろん生きていればなんでもいいとは思わない、銭湯にも行きたいし、ご飯はできるだけ美味しいものが食べたい、この雨の中で、
「生きているだけでいいじゃん」
 と言われたらと考える、でも社会はそういうことを平気で言う、
 贅沢するな
 ケータイは持ってるくせに
 ケータイを持つことが「贅沢」なのか?
 今、ケータイがなくて生活できるのか?
 他の人のことは分からない、でもわたしはこの雨の中、雨をしのげる部屋の中にいて、ご飯も食べられて、こうして文章を書くことができている、それは幸せじゃないか、
 書こう、電気が使えるうちに書こう、
 昨日、自分が今年の五月まで生きている感じをイメージできなかった、毎年そんなことをイメージしているわけではないけれど、五月の自分をイメージできなかった、それは四月から新生活が始めるからだ、だからその自分を想像できない、今の自分の延長線上にいることはたしかだけれど、どういう「生活」になるのか分からないからイメージできない、当たり前のことだ、向田邦子が飛行機事故で亡くなる三ヵ月まえに、たしか「ヒコーキ」という、カタカナのタイトルのエッセイを書いた、その後飛行機事故で亡くなったから、なんだかそのときからそうなることを予感していたんじゃないかって、あとの人は思うけれどそうじゃない、たまたま。だから「五月以降自分が生きている(生活している)姿が想像できない」と書いてもそれはそれを予感しているんじゃなくて、ただそうなだけ、イメージしたってイメージ通りになんかいかなかった、
 中学生のときどんな二十五歳になっていると思ってた?
 仕事して、働いて、いいところに住んで、結婚して
 ガスは?
 ガスって?
 ガス止められるとお湯が出なくなるんだよ
 なんで止められるの?
 お金払ってないからだよ
 なんで払わなかったの?
 お金がなかったからだよ
 ここで中学生のわたしは沈黙してしまった、お金がない自分に絶望しているのではなくて、お金がないことがイメージできなかった、帰ってきたら毎日親の作ったご飯があった、ご飯がない家に帰ってくるイメージができなかった、
 またイメージ、
 ひとり暮らしすれば家事はできる、実家にいたときはほとんど家事は全て母親がやってくれていた、でもひとり暮らしを始めたら自分でやる、家に帰ったらご飯があることのすごさ、というかありがたさ、
 こんな話、親の前ではできないよ? でもほんとにそう思うんだよね。
 自分でご飯を作らないと食べられなかった、だいたいの人はひとり暮らしをしてから結婚するんだろうけれど、なのに結婚した途端に自分のご飯を作らなくなるのはなんなのか、この前AさんとTwitterのスペースで話をしたときに、
 またその話か。
「絵は苦手だから絵は描きませんとか、音楽は苦手だからできません、って言う人はいるのに、私言葉が苦手なのでしゃべりません、って言う人はいないことが不思議なんですよね。なんでみんな言葉は平気って思ってるんだろうって」
 そのときわたしは、
「自分も、絵とか音楽とかいろいろ選択肢がある中から文章を選んだわけではないし、たまたますぐ書き始められたのは文章だったから文章書いてるだけなんですけど、たしかに文章書くのは好きだし、毎日だれかと話すし、とくべつ言葉に対して苦手意識があるわけではないけど、でもそのぶん油断があるとは思っていて」
 と話していた、羽振りがいいときは油断してる、金をバンバン使う、金がないから、今日はいくら使った? アレを買うとコレが買えなくなるからアレはまた今度にしようとか、かなり気をつかっている、油断していない、だからいい、これでもし大金が入ったら油断する。
 さあ明日は給料日だ、外食をしないで毎日自炊をすればかなり余裕を持って生活できる、金の余裕は気持ちの余裕だ、今日はキムチが食べたくなった、仕事があと十五分で終わるとき、今日は晩ご飯どうしよう、考えたらキムチが浮かんできた、昨日のNHKの「きょうの料理」で小松菜とあさりのチゲがあった、コレを作ろう、帰りにあさり、小松菜、しめじ、キムチを買う、作る、食べる、うまい、

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