2021/11/26(1-p.54)


 とにかく毎日書く。保坂和志の川端賞の受賞スピーチ(YouTubeに上がってる)、
「作品の質なんか、どうでもいいじゃないか。
 とにかく、毎日書く、という習慣はあった方がいい」
 今日も書くことはない。というか毎日書くことはない。「これを書こう」と思って書き始めたことはそんなにない、なくはないけど、もともと書こうとしていたことを最初は書こうとしていたけれどどんどん脱線して忘れたり、書くことがなかったのに手を動かしていたらなんとなく興が乗ってしまって書けちゃったり、もちろん書けない日もあった。今日はもうテキトーにやろう、なんか考え始めると書けなくなるから、とにかくテキトーに書こう、「今日は」というよりいつもテキトーに書いてるんだった、昨日は、いつもは昼休みにまずご飯を食べて、余った時間で本を読むようにしている(でも食べるのが遅いので5分くらいしか時間は生み出せない)んだけど、昨日はそのご飯を食べている時間も惜しくておにぎり食べながら『会社員の哲学』を読んでいた。今日はYouTubeで「トリビアの泉」を見ながら食べたので、食べながら読みはしなかったが、食べ終わった後にすこし読んだ。

残業代というのは、単純な拘束時間の延長料なわけではない。ただでさえ少ない自由時間からさらに切り詰められた時間のなかで、しっかり気力と体力を回復してもらうために払われている。無理に使った分だけ、修理代も嵩む。労働力の値段は、賃労働者自身が自分をメンテナンスするための資金なのであって、賃労働者の労働が産み出す価値とは関係がない。
(柿内正午『会社員の哲学』零貨店アカミミ、p.12)

 どこかに「どうして就活はつらいのか?」って問い(まだ冒頭なので問い)が書いてあったはずなのに探しても見つからなかった。たしかこれは保坂和志との「文學界」での対談で柿内さんが言っていたことだったと思うけれど、
「会社に所属していると、社会と直で接点を持たないで済む。
 社会と直で接するとつらい。会社はその間に入ってクッションになってくれる」
 最近それをすごく考える、アルバイトのときはかなり精神的にきつかった。でも今はそのキツさはかなり緩和された、でも緩和されている状態がずっとつづくとは思えない。加えて、「就職したらもう安全」みたいな気持ちにもなれない。とにかく幸せの定義は、
 良い成績を取って、良い大学に行って、良い会社に就職する
 だったが、それは嘘だったってことは分かったので、もし誰もがうらやむような会社(そんな会社ある?)に入ったとしても、それで安心だとはとても思えないし、それは、倒産するんじゃないかとかクビになるんじゃないかとかって不安ではなくて、どこかに就職さえすればそれですべてが上手くいくと思い込んでいる浅はかな自分自身に「バカじゃねえの?」と思う。
 だからといって会社に入ることを否定したいわけではなくて、さっき書いたように会社は、社会と自分のあいだに入ってくれてクッションになってくれるから、昼間は会社員しつつ、あとの時間で自分の好きなことするっていう二足のわらじが今の自分には合っているとは思ってるのでこれで構わないんだけど……、よく分からない。

 僕はもう「自由」に疲れた。子供のころから「将来の夢」をもつことをよしとされ、長じるにつけ「夢」は職業選択による「自己実現」のだけを指すと気づいていく。僕たちが手にしている「夢」も、「自己」も、職業なしには成り立たないかのようだ。たかだか賃労働としか結びつきようのない「夢」なら、「自己」なら、僕はそれらを「自由」に追求したいとは思えない。

とはいえ自由を諦めないために

 注意しなければならないのは、「自由」にくたびれたからといって、自由をすべて手放したいと欲してはいけないということだ。そもそも「自由」なんて全然自由じゃなくて、僕はもっと働かなくてもいいくらいのラディカルな自由が欲しい。ここでいうラディカルな自由とはおそらく主体的であることなのだと思う。選択肢があることは自由ではない。ある構造を所与のものとしてそのなかでの選択を「自由」に行えるというのはまったく限定的な「自由」なのだ。僕はそもそもの選択肢から自分で作りたい。主体的であるとは、この社会や身体といった制約を受け入れつつも、それでもなお自分のやりたいことを最大限に行い、やりたくないことを最小限に抑えるための創意工夫を思う存分試してみることだ。そんなわがままを言うな、という内なる社会には中指を立て続けたい。人は、欲張りでいい。禁欲とは易きに流れることなんだ、というようなことを千葉雅也がほうぼうで言っているけれども、COVID-19以降いよいよ目立つ、全体主義的な管理体制を是とするような論には僕も全面的に異を唱えたい。衛生
観念というのは排除の論理と非常に相性がいいのだから。

 ちなみに主体的であれと言っても、それはべつに何でもかんでも自分でバリバリこなして、どんな物事にも意見を持つということを意味するわけではないことも付記しておきたい。潔癖に白か黒かで判断したがる怠惰に対して、いつまでものらくらと煮え切らないでいる肝の据え方がいまはいちばん重要だろう。
(同上、p.15)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?