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保坂和志×山下澄人トークセッション 文字起こし

2013/09/14 収録

(保坂)保坂です
(山下)山下です
(保坂)えっと、こないだ、先週、べつの所で、山下くんの朗読会がありまして、で、こないだ「文學界」に載った新作の、なんていうんだっけ?
(山下)「コルバトントリ」
(保坂)「コルバトントリ」っていうのを全編、最初っから最後まで全編朗読したんですが、聞こえてます? それで、その朗読で、すごいイメージが変わったっていうか、やっぱり山下の小説はほんとは目から読むんじゃなくて耳で聞くもんなんじゃないかって思ったんで、今日もちょっと一部分ですけど朗読してもらうことにしました、「砂漠ダンス」から朗読してもらいます、よろしく
(山下)えっと、途中のどっかまで読みます。
(保坂)あの、本持ってる人、できれば本見ないで聞いてください
(山下)「男は店をでると来た道へ戻らずわたしのアパートのある方へ歩きはじめた。そこらはわたしがいつも見ていた景色だった。とつぜん雪が降ってきた。風もでて雪はたちまち吹雪になった。それは猛烈な吹雪で、みるみる辺りに吹きだまりができた。視界は前が見えず真っ白だった。雪が顔に当たるから男は手でそれをふせいだ。わたしはこのとき部屋で寝ている。だからわたしはあの日こんなに吹雪いたことを知らない。しかしわたしが日が暮れてから外に出たとき、こんなに吹雪いていた形跡があっただろうか。吹雪けばかならずできる吹きだまりがあっただろうか。わたしは覚えていない。そんな記憶はわたしにはない。そのとき男の前に巨大な銀が現れた。それは魚だった。魚はとても大きかった。わたしはそれを知っている。クイウイだ。クイウイの銀は白の中ではっきりと光った。そしてクイウイの目がわたしたちを見た。はっきりとその目玉はこちらを見ていた。茶色い看板が道に出ているのがうっすらと見える。看板にはライムライトと書いてあり、それは喫茶店だ。わたしは何度もこの店の前を通ってはいたけれど入ったことはない。男がそこへ入る。店内は吹雪を避けた人びとで驚くほどいっぱいで、となりの人と触れ合うぐらいで、どこにも座る場所はないように見える。しかし男は考えることなく人と人のあいだをぬって店の奥へ向かう。そして四人掛けに男三人で座っていたテーブルの横に立ち、なにも言わず空いていたイスを掴んでその奥の窓際のテーブルのとなりのマンガがぎっしりと詰まった本棚の前に置いて座る。男は本棚をテーブルに使うつもりのようだ。しかしそこにはそのようにも使われているようで灰皿があり、メニューがのっている。店の男がすこし離れたところから男に、コーヒー?と声をかける。うん、と男は答えてポケットからたばこを出してくわえる。それからもう一度ポケットに手を突っこんでなにかを探す。ライターを男は探している。しかし男のポケットにライターはない。男があたりを見まわす。店の男にも目をやったけれど男は忙しそうに飲み物を作っている。男の目に、窓際で窓の方を向いて、背中をこちらに向けて座っている男が見える。その背中はわたしだった。わたしだ。窓際のそこにわたしがいた。しかしわたしはこの店へ入ったことはない。だからわたしがここにいるのはおかしい。しかしおかしいといえばすべてがおかしい。それでもわたしがいたことのない場所にいるのはおかしい。わたしはここにいてはいけない。もちろんわたしが今いる男の中にもわたしはいてはいけない。火、いいですか? 男がわたしに話しかけた。わたしが男に顔を上げた。完全にわたしだ。わたしははじめてわたしの顔をほとんど正面から見ていた。そしてわたしもわたしを見ていた。いや、わたしは男を見ていた。わたしの顔はわたしが思うより痩せていた。痩せていて焼けていた。わたしは自分の前にあったライターを男に黙って手渡した。男は、どうも、とそれを受け取り、たばこに火をつけて、また、どうも、とライターをわたしに返した。ちょっとごめんなさい、と声がして、客をかき分け店の男が男にコーヒーを持ってきた。途中から男が手をのばしそれを受け取った。男はコーヒーを前の置いて一口飲んだ。そしてたばこを吸った。吹雪いてますね。わたしが言った。男はわたしに顔を向けて、ですね、と言った。わたしは男をじっと見ていた。男はすぐに目をそらせた。小さな音がして音のした方へ男が顔を向けた。わたしの足元に小さな石がふたつ落ちていた。わたしはそのふたつの石をよく覚えている。砂漠で拾った石だ。砂漠で最初に拾って右のポケットに入れた石だ。それから似たような物を三つ拾って左のポケットに入れたのだ。そしてその左右に分かれた五つをいつもさわっていれば区別ができるようになるぞと考えたのだ。わたしはわたしの真下に落ちた石を下を向いて探している。男が動く。そして屈んで腕をのばしてわたしの真下に落ちていた石を拾って、はいよ、とわたしに声をかける。わたしは、あっどうも、と男から石を受け取る。男が拾うのをわかっていたように男から石を受け取る。珍しい石ですね。男が言う。わたしが男に顔を向ける。砂漠の石じゃないですか。男が言う。砂漠で拾ったもんで。わたしが言う。まちがいない。このわたしは砂漠後のわたしだ。このわたしはさっき食堂にいたわたしではない。そうですか。わたしが男をじっと見ている。男がもう一度、珍しい、と言い、コーヒーを飲む。わたしがわたしを見ていた。しかし男は気がついていない。けれどわたしには分かった。窓を風が叩いていた。店内にはとても勇ましいクラシックの曲がながれていた。わたしが音に合わせてかすかに歌っていた。風の音でほとんど聞きとれなかったけれど、だから男には聞こえていなかったけれど、わたしには聞こえていた。それがサインだった。わたしはわたしになにかしらのサインを出しているのだ。そのとき男が突然咳きこんだ。それはとても激しく、男はほとんど呼吸ができなくなった。わたしが立ち上がるのが見えた。わたしはわたしを見ていた。男が口をおさえた。そしてそれまで食べていた物とコーヒーと血を吐いた。カウンターから男が飛んできた。男の目はそれらを見ていたけれど、男には見えていない。目がそこへ向いていただけだ。しかしだからわたしには見えていた。男がイスから転げ落ちた。わたしが男を抱き起こした。そして早口で、大丈夫? と言った。それは男にではなく、わたしはわたしに言った。わたしはそれがすぐに分かった。しかになにに大丈夫?と言ったのかは分からなかった。そして真っ暗になった。男が目を閉じたのだ。」
(保坂)(拍手)すみません、あの、冷房弱めてもらえますか? それで、まさか、えっと、あっここ読んだんだと思って、どこ読むかは事前に聞いてなかったんですけど、ここ読んでまさか笑うとは思わなかったね。
(山下)(笑い)
(保坂)で、こないだも朗読会でけっこうゲラゲラ笑ったんだけど、今読んだこの場所も、今週っていうかここ何日かで僕2回通して読んできたんだけど、笑うところじゃないんです。目で読んでると笑わない。ところが、笑う。あの朗読聞いて、朗読聞く前に、雑誌の「文藝」に載ってるときにこれ1回読んでんすけど、で、朗読聞いたあとに読んだら、ぜんぜん違う小説なんで、書き直した?って聞いたら、書き直してないって。で、だから、山下の小説っていうのは、あんまり真面目に考えちゃいけないんですよ、一言で言うと
(山下)そうやと思います
(保坂)(笑い)それで、その真面目っていうのが、真面目に読んではいけないっていうか、今まで、学習してきたり、体に入ってる、体につもってる真面目さっていうのは、山下の小説読むときにすごく邪魔になってて、こう耳で聞いてると、あんまりそういう余計なこと考えないで済むんで、わりと音楽聞いてるときの感じに近づくんですよね、で、音楽だと、それよっぽどオペラとかを理解している人は分かんないけど、普通は、音楽って、そんなに緻密に聞かないですよね、それで、あっ中には譜面読みながら聞く人もいるんだけど、譜面見ながら、ちょっとそういう人は例外として、それで、音楽ぐらいの感じで、あれ?このメロディーってなんかわりと長い音楽として、わりと最初のころに聞いて、ちょっと聞いていいなと思ったなあ、また鳴ってうれしいなあ、みたいなのとか、こう音楽って聞くときに、まあだいたいアバウトに聞いてるじゃん、で、それは、1回、音楽って1回じゃなくて1回2回3回ってくり返して聞いてて、聞く度にイメージが違ってて、だんだん好きになるとか、それで歌謡曲みたいな歌詞にしても、言葉でだけ覚えてて、しばらく何年か経ったときとかに、あれ?そういう意味だったのか、みたいな、そういう読み方をした方がいいんじゃないかと思ったんだよね、っていうかそういう読み方をしないと山下の小説ってあんまりおもしろくないんじゃないかと思ったんだけど
(山下)(笑い)なるほど。ああ、そうか、そうですかね。あの僕はあんまり、だから、最近ちょこちょこって書いたもの対しての、批評みたいな、書評みたいなのを、書評じゃないか、批評みたいなのを読んだときに、おわそんな難しい小説お前書いたのかってすごい思うんですけど、いやもう今保坂さんがおっしゃった通りで、いやほんとに適当に読むっておもしろいですよね。えっと、で、これ前に、俺たぶん保坂さんに1回送ったことあるんですけど、えっと、これは、小学校の卒業文集を見てたらあった作文で、すごい短いんですけど、これだけが一番おもしろくて、俺こういう風に書きたいってすごい思った作文があって、えっとですね、どこだっけ。あっすごい短いんで、「『先生と学校』僕は一年から六年までずっとこの小学校だった。今六年前のことを思い出すと、上のところには木造の二階建ての校舎があった。僕は二年の時にその木造の校舎に入っていた。歩くと、みしみしと音がする。あれからいろいろあった。
(保坂)(笑い)
(山下)先生にひどく叱られたこともあった。もうすこしだ、中学は
(保坂)フハハハハ(笑い)
(山下)間近にせまっている。小学時代はいろいろあたけど、中学はどうなるか僕は心配だ。はじめ来たときは木造の校舎で汚かった。幼稚園のとき僕は母と来たことがある。選挙に行ったときだった。僕は幼稚園より大きいのでびくりした。」……っていう作文で、これすごいなあ!と思って。僕はこういう風に書きたいってすごく思います(笑い)
(保坂)あのね、そのね、真面目な話しますけど、こういう風に書けないんだよ。こういう風に書ける人は小説家になってないんだよね。みんな、なんかそういう余計な知恵つけちゃうっていうか、だから、こないだのオリンピックんときの体操見て、この体操の選手たちってなんて不自由な体の動きするんだろうと思って
(山下)あ~
(保坂)もうぜんぜんたのしそうじゃないよね、あんなに運動神経あるのに、なんか体のばしてさ、こんなぐるぐるやっててさ、で、あれは、本当はもっと運動神経バツグンにいい人たちは、途中でトレーニングがつまんなくてやめちゃってんだよね、今のオリンピックってみんななんかセコい技が高度になりすぎて、本当に運動神経いい人たちはみんな途中でバカらしくてやめちゃってると思うの
(山下)(笑い)そうですよね、ほんとそう
(保坂)ね? それでわざとオリンピックはさ、ああいうマイナースポーツ、弱小スポーツにばっか目ぇつけて、で、そっから、なんかさ、リベート取って、ああいう競技やってるんだよね。なんか、お願いですからやめさせないでくれ、みたいなこと言って。で、だからほんとは運動神経いい人たちなんかだれもオリンピックなんかに関心持ってないんだよだれも。で、小説もかなりそれに近い感じがして、小説、文章ばっかり書いてたような人が小説家になってるみたいな、小説って文章書くんじゃなくて、ほんとはその、文章書くんじゃなくて、自分と世界との触れ合ってる感じとかを書くべきもので、文章が良いとか悪いとかさ、筋がいいとか悪いとかそういうの関係なくて、それで、今山下が読んだところなんかも、ほとんどネタバレになってるわけだよね? で、この小説ってネタバレになっても全然かまわないわけで、で、ネタバレ、そのネタバレって言葉自体がすごくいけない言葉でさ、それ筋だけの話なんで、で、みんな小説っていうのをストーリーで読むと思ってるんだけど、これが大きな誤解で、あの、ストーリーで読むんじゃなくて、今まで読んだところまでがおもしろいから次も読むんだよね。だって、200ページの小説があったとして、50ページまで読んでつまんなかったら読まないじゃない。それは筋じゃなくて、50ページまでに書いてあることがおもしろいから51ページ目を読むわけでしょ? そのさ、50ページまでがつまんないのに、なんか後半、なんか評判がいいからっていって、それで、これからおもしろくなるのかなとか思いながら読むのって、なんか気持ちがお辞儀してるよね、完全に
(山下)(笑い)気持ちがお辞儀してる
(保坂)で、あの、その読むときに、目で読むっていうのは、だから、耳で聞くほど無責任じゃないみたいなことを学習しちゃってるんですよね、それで、読むっていうのが、一つはストーリーみたいな、この作品の中の、今までなにが書かれていてこれからなにが書かれるかっていう、多少の予想を立てながら読むっていう、その、縦の時間の問題と、それからもう1個が、そこに書かれていることを、現実に当てはめる、現実に置くっていうかな、現実に配置しなおすとどういうことになるんだろうっていう風に考えるわけね。で、だから、あっそうかこれは夢で、この部分は夢で、この人は札幌に住んでて、で、ここからここは回想で、っていうのは、現実の中では、まだ行ったことのない、まあたとえば、これから、完全にこの小説をなぞる話じゃないんで、これから砂漠に行こうと思っている男のポケットの中に砂漠の石があるということは現実の中にはありえないんだけど、あの、小説の中ではそう書けばあるわけ。これから砂漠に行こうと思ってる男のポケットの中に砂漠の石があったとして、で、そうすると、普通の小説では、読者は、その裏の、現実の法則を考えるわけね、だからそれはありえないから、つまりどういうことなんだろうっていう説明を今度期待したり、説明が書いてなかったら、それを現実に当てはめて、組み立てる、で、だから、小説読むっていうことは、ストーリーの流れを追うのと一緒に、小説の中に書かれていることを現実の世界に当てはめていって、どういう妥当性があるかっていう、それで、まったく妥当性がない場合にはそれは、ファンタジーって呼ばれたり、SFになったり、あるいは妄想になったりするんだけど、ただ、小説が現実に落とし込まれなければいけないっていう決まりはないわけよ。で、その、そういうところを、山下くんの小説は耳で聞くとそのへんが、すごくラクになって、そっちの、そういう、小説の向こうにある現実のことまで考えなくて読んでいられる、聞いていられるっていうのが、だからこういう読み方の方がいいんだなって思ったんですよ。
(山下)はい。
(保坂)(笑い)
(山下)なるほど。
(保坂)でね、じゃあ、もう「文學界」の新人合評とかっていう、新人の作品を批評するページがあるんですけど、で、なんで新人の作品だけ批評するんだって話があるんだけど、しかもそれが上から目線で、ってそれはいいんだけど(笑い)えっと、そのときにかならず言うのが、一人称に対する工夫とかテクニックみたいなこと、一人称をどれだけいじるかって話なんだけど、で、だからそれを、テクニックとか工夫の次元でしか山下の小説を批評する人たちが普通、捉えていないんだよ。そうじゃなくて、一人称ってもっと全然深刻な問題で、っていうか人称ってのはもっと全然大変な問題で、小学校んときに、「昨日僕は動物園に行きました」っていう作文を書くときに、そのときの「僕」っていうのは、一人称じゃないんだよね、ほんとは。よく考えてみれば分かるんだけど、今座ってるって言うときに、これ僕はこないだ、今月か先月か先々月ぐらいの「みすず」っていう雑誌の自分のエッセイに書いたことなんですけど、えっと、完全になにかをしているときには、一人称ってないんですよ。いちいち、私は水を飲む、とか、私は水を飲みたい、とかって言わなくて、その主語が隠れて、主語なしで、喉渇いた、水飲みたい、つめてぇ、って言ってるだけで、そこに主語があるっていうのは、その作文するための決まりごとみたいな感じなんだよね、それとか、昨日のことを誰かに報告するための決まりごとみたいなもので、完全な、今この場にいる自分にとっての人称っていうのは、ないと思うんですよ。で、だからそれは、そこで、なんていうかな、文章書いたり口で伝えたりなんかするために、一つの方法として「私は」みたいな一人称をだれかが作って、それけっこうヨーロッパでも日本でもわりと一人称的なことってのはあるんだけど、でも、そうは言いながら、日本の古典文学読んでると、あんまり「私」ってないんだよね。で、主語は、主語の関係っていうのは、「源氏物語」は一人称小説じゃないけど、なんだっけ、尊敬語の謙譲とか、尊敬語のグレードとか、この下から上、上から下のやじるしによってそれぞれの人を区別するみたいで、で、会話にはだれが言ったとかほとんど書いてなくて、で、日本はもともと一人称、日本の文章は一人称希薄だと思うんですけどやっぱり、で、そうは言いながら一応、世界中で一人称とかってのはあるんだけど、だから、なんか、文章書いたり、なにかを報告したりするときに、一つの方法で出てきただけで、そこにどこまで、なんていうか、義理立てするかっていうようなことが、今問われているかどうかは分かんないけど、すくなくとも山下はそれをかなり、鬱陶しがって考えてるんだよね
(山下)あの、これ、保坂さんに教えてもらって、宮沢賢治の、あっこれAmazonで買ったんですけど、宮沢賢治「万華鏡」っていう、新潮文庫の、宮沢賢治のなんかいろいろ載ってるんですけど、そん中に「散文」っていうコーナーに、「柳沢」っていう、すごい短い短篇小説みたいなのがあって、これすげーおもしろいなって思ったんですけど、いや、それまさに今保坂さんが言ってるような、その、私とも書かず、だれとも書かず、だれがしゃべってんのか分かんないんですよね、だれがしゃべってて、だれがその話を聞いてて、分からないんですけど、なんていうのかな、だから、えっと、バンバンバンバンこう、頭の中をなんだろう、飛んでるような、他人の頭に飛んだり、自分の頭に戻ってきたりみたいなことを、べつに誰誰とは書かずに、ただそこだけを書いてて、いや、これすごいおもしろいです(笑い)宮沢賢治すごいっすよね?
(保坂)すごいっす
(山下)宮沢賢治とか読んだことなかったけど、宮沢賢治すごいなって
(保坂)で、これは江戸時代に書かれた絵、絵というか地図というか、えっと「江戸名所絵」、鍬形ナントカっていう人が書いてんすけど、
(山下)あっ持ちますよ
(保坂)で、いや、でね、一応このYouTube用にこんな感じですみたいな。で、ここ全部これ細かい、まあこういう絵って見たことあるでしょうけど、これ全部手前に細かい、あっ持っててやっぱり、こう細かい地名が全部でてて、それでちゃんと「亀戸天神の上空から西の方の富士山の方に向かって江戸の町が一望のもとに描かれています」って、その、……亀戸天神の上空からってこれさ簡単に書いてるけどさ、ね?
(山下)いや、そうですね、架空の視点でしょうね
(保坂)で、あの、もう1個は、こっちは葛飾北斎。でこれは「東海道名所一覧」、でやっぱりこういろいろ、これはあんまりちゃんとした地図にはなってないけど、それでもやっぱり入り江とか、こう出てて、まあやっぱり分かりやすくすごいのはこっちの「江戸名所絵」の方なんですが、こういう風に、あっこれね、インターネットでも調べると、これ、小ちゃいですけど何枚でも画像出てきます、江戸名所絵つって、クワガタじゃねぇスキガタかな? スキっていう字? 金偏に秋、スキかクワ、スキガタかクワガタで、それで招待の招に真って書く、招待状の招に真って書くんですけど、これで調べるとこの画像がすぐ出てくるんですが、まあ見たい人はあとで見てください、それでこれ岐阜の図書館で通販で売ってんすよ、1枚500円、でね、それで、飛行機とか気球とかなかった時代に、もうこういう視点ってあるわけじゃない、なんであったのかっていう、だから、あるんだよね。今の人だったら、もしこういうものを、こういう視点のものを、向こうに富士山が見えて、江戸の町が一望できるみたいなことを、それを亀戸天神の上空からっていうような、そういう視点のものを描いたら、それは気球に乗ったとか飛行機に乗ったとか、場合によっては東京スカイツリーから見たとかっていう風に思うんだけど、そういうのなくても、見える人がいるんだよね、で、山下のやりたいのは、山下のなんていうの、やりたいんじゃなくて、そういう人になりたいと思ってるんだよね? あなたは。
(山下)はあ、うん、いや、そう。ちょっと全然話ちがいますが、その、サッカーとか見てるとその感じしますよね、
(保坂)うん
(山下)あの、ジダンとかあれぐらいの選手は、どうも人間の目線の高さで見てるんじゃなくて、上から見てる感じがして、ようだからあそこにパス出すなっていうことが起きる
(保坂)そうですね。それは一つ、本当は、実は逆で、人間っていうのは能力が足りないんじゃなくて、能力多すぎるんで、そういう一人称みたいなもので、感覚とかがランナウェイしないように、暴走しないように、一人称とかでおさえてるんじゃないかと思うんだよね、で、だってLSDとかエスカリンとかってこういろいろ麻薬があるけど、あれは必ずしも幻覚とは言えないわけで、そこまで見えるものを普段はおさえてた方が安全なんだよね、で、それはなんかこう、非常に危険な気持ちの状態になったときに、むしろ物が見えすぎたり聞こえすぎたりして、これはヤバいなって思ったことあるでしょ? 
(山下)すごい思います
(保坂)だから、それをしないようにしてるんで、だから、山下のやってることっていうのは、その、それのことなんだよね、なんかそれとの戦いって言うと大げさっていうか分かり易すぎるんで、だから、一人称をこういろいろテクニックレベルでいじってるわけではないんですよ全然。ちょっと小説の方を読むと、読むとっていうかね、だから、僕は読もうと思って、だからちゃんと読もうと思って、いろいろ線引いてた、線引くっていうかチェックしたりしてたんですけど、途中でこれはやっぱり違うなと思って、で、だから、いや読もうと思うって言いながら読まないんだけど(笑い)これ違うなあと思って、いちいち細かく言ってても、あんまこれ意味ないなあって、で、それは普通の小説で言えばいいことで、なんかね、ふっと出てくるすごくいいところがあって、あの、21ページに「手を上にのばせばキリンの肩でも叩けそうだ」ってのがあって、で、このね、キリンの肩でも叩けそうだっていうその、昨日はねだから僕は、実際キリンってどれぐらい大きいのか、で、キリン、キリンって簡単に言うけどすごい大きいんですよ(笑い)
(山下)(笑い)
(保坂)横浜に野毛山動物園っていうのがあって、野毛山動物園は傾斜してる山にあるから、キリンがたしかね、キリンの顔の高さが見える、遠く、普通の動物園ってキリンはわりと遠くにいたりするんだけど、それがキリンの顔の高さと同じ高さになってると、キリンの顔めちゃめちゃデカい
(山下)(笑い)
(保坂)それとかラクダもねすぐそばに見えるとすんごいデカい、あのラクダってけっこう凶暴だっていうんだけど、これマズいなと思う、で、とにかくほんとに大きいよね、馬なんかも大きいだろうけど、で、なんかね、その大きさが、彼の中にあるんだよね、キリンの肩でも叩けそうだって言ったときに、その動物とか自然が持ってるサイズの違いっていうのがね、あちこちで出てくる、で、そこは普通にうっかり読んでてはいけないところなんですよね。ああそれで、ちょっとそこが見つかんないからまああちこちで動物出てきますよ、その動物出てきたときには、ちゃんとその動物のサイズを、考えながら読んでもらうとサイズとかその動物の速さ、もってる速さとかをもっと考えながら読むと、ずっとおもしろくなるんだけど、えっとね62ページで「わたしは思い出した」って言うのね、でこの「わたしは思い出した」っていうのは、えっと「わたしは思い出した。わたしはこの時間を知っていた。わたしの前にオレンジのシャツを着た男がいて、その背中を見ていたことを思い出した」って言ってここで、思い出したと思って時間が入り組むんだけど、っていうか、あっそうかって、思い出したのか、って思うわけ、読んでる人が。ところが、で、思い出したって言いながら、「空港で見た犬に似ていた」、あの、女が子どもを二人連れていてその一人が空港で見た犬に似ていたって、で、つまり、ここで、この人は砂漠に行ってない、まだ砂漠に行ってないはずなんで、空港で見た犬をここで思い出したんならここで空港で見た犬は思い出せない、だから、そうすると、でも「空港で見た犬に似ていた」って言うことは可能なんすよね、なんで可能かっていうと、だから現実の世界では、思い出してるなら、この人はまだ砂漠に行っていないんだろう、砂漠に行っていない人間がどうして空港で見た犬に似ているって思えるんだ?って、現実ではそれはありえないんだけど、それがこの前のページにそれが書いてあるからなんですよ、だから、小説の中ではこれが書いてある、もうすでに最初のところに行って、このわたしは空港に、すぐに空港に行くわけですよね、空港で犬を見て、犬を見てるから、空港で見た犬っていうのはそのあとのページで、その犬に似ていたってことを思うことは、小説の中では可能だっていうか、だからそれはね、小説のルール、この小説のルールって言うとなんか話がすごく小さくなっちゃって、さっき言った現実といつも照合するんだけど、小説って読むときに現実と照合して、こっちは1日前、こっちは2日後の話か、みたいにこうきれいに整理していくんだけど、そうじゃなくて、仮にこれが全部、全部もし過去の話だとすると、人の記憶ってこうなる、っていう言い方もなんかちょっとね分かり易すぎて、なんか、とにかく、とにかくってこれ、これ読んでみんなで考えてください、それぞれ考えてくださいって言い方もヘンなんだけど、なんだろうな、あんまりこう決めつけるとヘンになるんだよね、で、この小説はほんとに音楽が聞くたびに印象が変わるように、読むたびに、そのちょっと食い違う部分に対する自分自身の、あっこういうことか!っていう、解釈って言うとまたなんかちょっと嫌なんだけど、あっそうか!っていうのが読むたびに変わってく。これは前のことなのか、とかって思ったとしても、また次にあっそういうことじゃないんだ、そういう風に思わなくていいんだ、っていうふうなことが、この小説読むたびに次々でてくる、だからこれ辻褄あわせようとすると、まあ暇な人、暇な人っていうかそういうことが好きな人は辻褄あわせようとしてもいいかもしれないけど、あの、辻褄あわないんですよね、で、その辻褄あわないところがおもしろくて、そうすると、たとえば74ページ、これさっき読んだところだよね、「わたしの足元に小さな石がふたつ落ちていた。わたしはそのふたつの石をよく覚えている。砂漠で拾った石だ」って言って、まだ砂漠に行っていない、で、あっこれは砂漠後のわたしだ、って気付くんだけど、それを平行宇宙っていう解釈をする人もいるかもしれないんだけど、なんていうか、平行宇宙っていう言い方しちゃうと、パラレルワールドとかって、それはやっぱり一つの流儀に入っちゃうんですよね、フィクションっていろんな流儀があって、現実にはありえないことを、これはパラレルワールドである、これは幻想である、これはタイムワープした、これはタイムマシンに乗った話だとか、これはあっそうか、子の世界は時間が逆流してるんだとかっていうふうに、みんなそれはフィクションの流儀で、だいたい今まではそのかならず、なにかの引き出しに入れられるように書いてたんですよ、で、それを、だから、この小説はパラレルワールドだったか、この小説は時間の逆流だったかって、それで納得する、なんていうかな、なんでそこで読者が納得するか分かんないんだけど、そうじゃなくて、やっぱりどんだけ丁寧にやっていってっても、辻褄があわないことを、僕と山下の知っている範囲で一番最初にやったのはデヴィット・リンチだよね?
(山下)あ~、はいはい。あの、パラレルワールドみたいなそういうのでちょっと思うのは、たとえば子どもんときとかに、なんとなくみんなで遊んでるうちに、なんとなくのルールができてきて、それでこう、でもそれはまだなんとなくで、そうするとだれかがそこに来て、それアレや、って言われたときのあのテンションの下がり方っていうか(笑い)それで、アレやって言われて、それはまあちょっと今パッて思いつかないけどたとえばドッチボール、あっそれはドッチボールでしょ?って、あっそうなんやって、ドッチボールってなに?って聞くと、自分らがやってた曖昧なものよりはもっとはっきりしっかりルールがあるから、一瞬よさげに思えるんですけど、それを聞く前までのおもしろさが一瞬にして消えるっていう、なんかそういう感じがすごいあって、僕はだからどこまでそのやり方でやれんのかなって気はしてるんですけど、僕はなにも知らんからやれてるっていうのもちょっとあって、でいろいろこう知ってくると自分で思いついて、それパラレルワールドですよね?って(笑い)それ怖いな
(保坂)そういう奴いるんだよね、で、87ページではわたしは野口の中にいるんだか野口と話すんだかするんですよ、そうすると、このわたしは今度なんなのかって思う人がいるかもしれない、ここでわたしは、なんていうか、偏在する意識になったとかさ、神のような存在になったとかっていう風に思うかもしれない、という風に言う人がいるかもしれない、で、僕はなんでそう思うかって言うとたぶん今までいろんな人がそういう風なことをいろんな風に書いてきたのを読んできたからなんだよね、山下の小説じゃなくてほかのことで、で、そうじゃなくて、とくに87ページのところで僕がそう思ったんだけど、これはここで、このわたしってのは一体なんなのかって思った、その、わたしって一体なんなのかって読者は思うそれがわたしなんですよ、山下が書いた。あのここがいちばん通じないんだけど、えっと、なにかに言い換えると説明してもらったような気がするのね、でも、それ言い換えられないことを小説に書くんだよね、だから、山下にとってのわたしっていうのがこれなんです、こういうわたしを書いたんですよ、あの、この小説の中で山下は、で、これも僕エッセイに書いたんですけど、僕がね外でエサやってて死んだ猫の、それと今までそういうので供養してあげてない猫がいたんで、お寺に行って、今までここで焼いてもらった猫以外にもいたんで、その猫の戒名、位牌を書いてくれって言ったらそのお坊さんが、そういうことをしてる人にはきっと良いことがありますよってお坊さん言ってくれたわけですけど、そうじゃなくて、僕にとっては毎日エサをやる猫がいるということがいちばん良いことなんですよ、その、自分が毎日猫にエサをやる生活をしているということが良いこと、その、今まで猫にエサをやらない自分と比べて、猫にエサをやってなかったころの自分と比べて、外の猫にエサをやってる自分の方がずっと幸せなんですよ、もうそれで十分なわけ、そこでまたなにか良いことがあるってなんかこう、なにがある? だからお坊さんも宝くじが当たるかどうかは分かんないけどみたいなこと言ったけど、なにか良いことがあるんじゃなくて、今それが良いことなんです、小説ってまさに、それに尽きると思うんですよね、これはもう言い換えられないってことを書くっていう、なにかに言い換えたらもうこの小説のことじゃないっていうことを書くっていう、そういうのの現れがこの、ここに出てきたわたしみたいなこともそういうものなんだと、思いました。
(山下)保坂さん今ちょっと全然関係ないですけど、そんなお坊さんよりそんなこと言える保坂さん自分で戒名つけたらいいじゃないですか?(笑い)お坊さんよりお坊さんですよね
(保坂)そうだよね
(山下)そう思う
(保坂)(笑い)ただそのお坊さんもいい人だから
(山下)あっそうですか(笑い)
(保坂)まあ一応まあそのさ、供養は向こうの方がプロだからさ、
(山下)(笑い)
(保坂)自分でやってても心許ないって(笑い)
(山下)(笑い)
(保坂)やっぱり、生きてるあいだは面倒見れるけど、死んだあとのことはちょっとよく分からないんで、それはお坊さんに任せてる方が安心感があるじゃん、
(山下)うちの親父あれなんですよね、母親が死んだあと、命日とか邪魔くさいつって、それでもたぶんなんか心許ないんですよね、だからテープのお経を、カセットに入れて流すんですけど、すぐ止めてました(笑い)
(保坂)それで、あの、お坊さんじゃないけど、神の話で、えっと「果樹園」で、一緒に入ってる「果樹園」ってやつの方で、98ページから、ただはじまって2ページ目なんですけど、「みなとは生まれつき右目が見えていなかった、見えていないと気付くのに一年半かかった、みなとの顔の前をピンクの紐をひらひらさせて遊んでいると突然気付いた、この遊びはみなとは大好きだった」とかっていって、それで、だらだらだらだらこう、何年間の、ちょっと飛ばしますけど、「病院の前を白い乗用車が西から東へ通過した、その一瞬だけ辺りにほかの車は見えなかった、それは病院の屋上にいた武藤という64歳の女が見ていた、危ないなあと武藤は思っていた、それはとても速度が出ていたからだった、車がトラックにぶつかるのが見えた、死ねばいいと武藤はすこしだけ考えた、あまりにも一瞬だったので武藤はそう思ったことに気付いてさえいなかった、武藤は三年後死んだ」(笑い)「武藤は心臓が動いていなかった、今日は人工透析をする、死因はしかしそれとは違った、脳の血管が詰まって死んだ」って、これいわゆる神の視点なんですよ、小説の作法でいうと。でも、これ子どもの思いつきでしょ?
(山下)(笑い)
(保坂)これ山下得意なんだけど、こうやって書くの、なかなか書けないんだけどね、こうやって次々次々この人がその後どうなって、十年後どうなって、その前は生まれたときはどうだったって書くの得意で、で、これ神の視点だとしたら、神様っていうのは子どもなんだよ
(山下)ハハハハハ(笑い)
(保坂)そうか、これ読んで、神様ってのは子どもなんだって思った、で、それねちょっと真面目な話もあって、旧約聖書に「ヨブ記」ってあるでしょ、「ヨブ記」って僕がすごい好きな話なんだけど、ヨブっていう信仰の厚い、子どももたくさんいて羊とかもいっぱい飼ってる立派な人がいたんだけど、それを神様が見てたら、神様のそばにいるサタンが、悪魔が、耳打ちして、神様ね、ヨブね、そんなね、真面目に信仰してるように見えるけどね、ほんとはあいつはね神様のことなんか信じてないんだって悪魔が耳打ちすると、神様が、う~んそうかなあって言って、それでヨブに次々ひどい目に遭わせる、で、それをどう解釈、どう解釈すればいいのかってことがずっとこう二千年とかつづいてる問題らしいんだけど、問題ってことになってるんですけど、僕がいちばん好きな解釈は、つまり信仰、なにも実現、すべて奪われてもやり続けるのが信仰だって解釈なんだけど、いちばん好きな解釈なんだけど、ユングの解釈っていうのはつまり、神もそうやってヨブの態度を見て、ヨブは最後はもう一度すべてをあたえられるんだけど、ヨブの態度を見て、神が成長したっていう、ね? 成長する前の神なんだよ山下のは(笑い)言いたかったのは
(山下)(笑い)なるほど、いやでもほんとに子どもの思いつきですよね、こんなもんね、
(保坂)いや、だからほんとに、さっき山下が読んだ小学校の卒業文集みたいなことが、ことを、書いた子は、小説家になってない、みんなとっくに小学校3年か4年くらいに、あんな作文よりも形になってる作文書いてるわけじゃん、で、でも自分のことを考えてみて、小学校1年だろうが2年だろうが、あんな風に、あんな風にはもうすでに書けなかったと思うんですよ、僕も小学校1年のときに書いたので、学年ごとの何人かずつ選ばれた作文に、選ばれた作文ってのがあって、それは江ノ島のマリンランドに遠足で行って、それで、ハナゴンドウクジラっていうのとナントカイルカっていうのが飛び跳ねて、それで鈴を割ったっていうんで、それで、ただ、それはつまりよく見てたってことで僕は選ばれた、僕のその作文は選ばれたんだけど、ただ、ほんとに変わってないなと思ったのは、何回飛び跳ね何回ジャンプして失敗して、何回目でできて次のクジラはイルカは何回目でできてって、回数しか書いてないんだよね、だから、昔っから数字のことにしか関心がないんだよね、ただそれが観察してる、よく観察してるって、小学校1年の最初に書いた作文だからほかの子たちはもっと形になってなかったんだろうけど、僕だけがその回数をキッチリ書いたんでよく観察してる、で、結局小学校6年間でその文集に載ったのはその1回だけなんだけどね、小学校1年の時の観察だけがよかったんで、みんな、まわりの先生たちは単に誤解しただけだったんだけど、で、なんかもう小学校1年のときに、国語の教科書に載っている文章っていうのがすでに違うわけですよ、今山下が読んだような文章って載ってないわけで、だからすごいこう抑圧してんのね、真面目な話、で、NHK新書から「知の逆転」っていう、チョムスキーとかオリバー・サックスって「レナードの朝」なんかの原作者のオリバー・サックスと、「二重らせん」のワトソンと、それから最近売れてる鉄とナントカ、ダイヤモンドとナントカってジャレド・ダイアモンドって人と、いろんな人のインタビュー集があって、ジャレド・ダイアモンドと「二重らせん」のジェームズ・ワトソンはなんかすごい薄っぺらい人だなと思ったんだけど、チョムスキーと、えっと、なんだっけ、「レナードの朝」の、急に抜けんだよね最近、「レナードの朝」の人だれ、名前、オリバー・サックスだよ、チョムスキーとオリバー・サックスが二人とも同じこと言ってて、学校教育というのはこの産業社会に適応する人間を育てるんだっていう。だからほんとに学校教育っていうのは、教育っていうのは伸ばしもするけど、ほんとに、オリンピックの体操選手を育てるようなもんで、自由な動きじゃない、役に立つような部分しか作っていかないんだよね、で、だからああいう学校教育から、最初っから落ちこぼれちゃったような子だけがほんとに大人になって読んでおもしろいものを書いてる、
(山下)いや、だからその文集も、あれ1個だけでした、読んでおもしろいのは、あとはもう判で押したように同じような、で、えっと僕も小学校のときになんかに選ばれた、1個だけ選ばれた小説、あっ小説じゃない作文は、あれでしたね、家がどんだけ貧乏かって話
(保坂)(笑い)
(山下)ああいうのって学校の先生好きなんですよね、すごい親は怒りましたよね(笑い)それ「コルバトントリ」にもちょっと書いたんですけど。ってちょっと思ってるのは、こういうの書くと選ばれるのかって(笑い)
(保坂)大人になっても選ばれるよね
(山下)ほんとそうですよね
(保坂)宮本輝とかそういうの大好きだから
(山下)そうですね。これ保坂さん新しい、次の
(保坂)ああ、はい
(山下)これ「未明の闘争」、これいつ出るんですか?
(保坂)9月27日発売、です
(山下)これすごいですよね、これ中身は真っ白なんですね
(保坂)まだ刷ってないっす
(山下)「未明の闘争」のいちばん第一回目のあのはじまりは僕びっくりしたんですよねあれ、保坂さん大丈夫?って(笑い)あっこれすっごいおもしろいんで
(保坂)いや、それで、今も小説書いてて、やっぱりね、覚え間違いとかうっかり書いちゃったことっていうのをあとで気付くと、完全に間違ってるとか、ないことを書いちゃったっていうのを、気付いちゃったら残しておくのが不安になるんだよね
(山下)あ~
(保坂)で、それはなんでかっていうと、保坂さんとうとうおかしくなっちゃったとかって思われるっていうような話じゃなくて、自分、やっぱり、文章を書く、文章を書くことによって自分を世界に繋ぎ止めてるんだよね、だから、あんまりヘンなことを書いちゃうと、そこでつながってるものがいっそ切れちゃうって感じになっちゃうんだよ、だから山下だってこんなこと小説に書きながらやっぱり躊躇ったりいろいろしてるわけじゃない、書きながら、で、ここまでは書けるけどこっから先は書けないってことどうしてもあるよね? あんま真面目に聞いてないけどさ(笑い)
(山下)あの、はい、そうですね、気がつかへん万引きがいいんですよね、気がつかへん万引きではないか、あっ持ってきてもうた!っていう
(保坂)うん、それ大丈夫だもんね
(山下)で、あれ式で、僕だから中学生ぐらいのときにあれ方式で万引きすればいいんだって思ったことがあって、そしたら持ってきてしまったわけやから、罪の意識がないって、でも無理ですよね意図的には絶対できない、でもまあそういう感じ
(保坂)で、うっかり書いたことっていうのは実は校正者もあんまり気がつかないもんで、わざと書いたものは全部気付くんだけど、うっかり書いたものは気付かないんで、ほんとにスルーできちゃうんだけど、
(山下)あれなんでなんですかね?
(保坂)なにが?
(山下)なんで気がつかないんですかね、うっかり書いたものって、
(保坂)ね、
(山下)うん
(保坂)あの、ほんとにありえないようなことをうっかり書いちゃったりするんだよね、
(山下)堂々としてるからですかね
(保坂)ね
(山下)いや、そうじゃないかと思うんですよね、僕、いやまた万引きの話しますけど、
(保坂)(笑い)
(山下)いや僕ね、ジャージ着て出てきたことあるんですよ、それは気付かずに、このジャージいいなと思って、中学んときですけど、ちょっとこう試着して、それでもうちょいほかのも探そうかなって買うつもりはないですけど探してるだけです、そのまま出てきたんですよね、ここにピラッて付けたまま、うわ!ようこれでバレへんもんやな!って、
(保坂)(笑い)
(山下)けどほんとそうですよね、小さいもんでもポケット入れてドキドキしてると絶対捕まえんのに、なんでやろうって話を唐突としましたけど、堂々として
(保坂)いや最近さ、山下が「雨ニモ負ケズ」が好きになって、南に
(山下)死にそうな
(保坂)人があれば心配するなと言い、北に紛争があれば無駄なことはやめろと言い、ああそれ聞いてさ、山下ってさ、南にカツアゲしている人がいればふざけんな馬鹿野郎ってボコボコにし、北に在日排斥のデモがあればお前らいい加減にしろって言ってボコボコにするという(笑い)この人は不良をいじめるのが趣味だった
(山下)いやいや、そんなことないです(笑い)
(保坂)じゃそんなところで、
(山下)はい
(保坂)じゃあ僕の小説も27日に出ますんでよろしくお願いします、ここ置いときますのであとで見たい人はどうぞ、あの、あそこにいる平野敬子さんという人がね、作ってくれたんですけど、こういうものを作る人には見えないところがすごいんです(笑い)またいつか平野さんとまたゆっくりお話ししたいと思います、じゃあどうもありがとうございました
(山下)ありがとうございました
(拍手)

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