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タイギゴ(16)

(16)
 毎月、なにかエッセイみたいなもの、小説でも、なんでもいいからある程度長い文章を、と思って始めたが、今週は、というか先月、もしかしたら先々月からめんどくさい。できることならやらずに、のんべんだらりと過ごしたい。今日はいい天気。昨日台風が来たらしいが雨もほとんど降らないし、風も吹いていないから、いや、雨は降ってた。昨日は中野に用事があって電車に乗って行ったら、中野駅でザーザー降りだった。家を出るとき雨は降っていた。小雨よりちょっと多めな感じ、傘はささなくても平気な感じ、家に傘が一本もなかった。二本持っていた。玄関に置いていたのと、車の中に一本置いてたのに、まず一本目を職場に置いてきた。ある雨の日に朝は降っていたけれど帰るときは降っていなかったから忘れて帰ってきた。次の雨の日に、持って帰ろう、と思ったけれど、これが自分の傘なのか分からなくなった。自分の傘だったらいいけれど、そうじゃなかったら盗んだことになって、本当の持ち主は雨に打たれながら帰ることになるなあと思うと安易に持って帰れなくなって、たぶん俺の傘なんだけれど、名前も書いていないし、子どものころは身の回りのものすべてに名前を書いた。私が書いたわけではなく母が書いた。私の書く文章にはよく家族が登場する。特徴のないビニール傘だから置いてきた。自分の手元を離れた途端に自分のものじゃない気がする。そもそも自分のものじゃなかった。たまたま入ったコンビニかどこかで買って、買うのは私じゃない可能性もあった。別の誰かが買えば別の誰かのものになった。小学生の頃、近所に住んでて、毎日一緒に登校していた西川さんという女の子がいた。ある日西川さんは体調を崩して学校を休んだ。その日の朝、西川さんのお母さんから電話があった。
「コウヘイ、今日ミクちゃん(西川さんの下の名前)学校お休みするみたいだから」
 もうそのころは小学四年生とかだったから、というか、西川さんは小四まで学校を休んだことがなかった? そんなことはないと思う。成績優秀な子で、中学受験に合格してどこかの中学校に進学した。名前は憶えていないけど頭のいい学校だとは聞いた。本人ではなく周りの人がそう言った。卒業まで一緒に登校した。小学生なりに恋心みたいなものもあったのかもしれない。好きだった。でも異性として好きとかそういう感情ではなくて、同じ地区に住む同級生として「西川さん」が好き、だった。
 小学校には「連絡袋」というのがあって、その中に、毎日先生に提出する連絡帳とか、「お父さんお母さんに渡してください」と配布されるプリントとかを入れていた。もちろん名前もちゃんとそれぞれ書いてあった。
 私はとにかくその、西川さんが休んだ日の夜、西川さん家に行って、その日配られたプリントを届けた。それが「連絡袋」に入れてだったのか、プリントだけ持って行ったのか分からない。連絡袋だとしたら西川さんのお母さんが朝「学校に届けてね」とうちに持ってきた。休みでも、連絡帳だけは近所の友だちに預けてがっこうに持ってきてください、って習慣があったかもしれない。でも、インフルエンザのときとかに学校に持って来させる、ましてや感染していない生徒を病気の子の家に行かせただろうか。だからプリントだけ持って行ったような気がする。西川さんはインフルエンザではなかった。よくテレビでその日の給食のパンは持ってく描写があるが、私は一度もそれはできなかった。
 暗かったが、「一人で行けるよね」と言われて一人で行った。近所だが、子どもの足で三分くらい歩かないといけない。てくてく歩く。車の往来がある。ガードレールはない。一つ横断歩道を渡らないといけない。道の端っこで待って青で渡る。インターホンを押すとお母さんが出てきた。
 立派な屋敷だ。「家」というより「屋敷」だ。庭にバスケのゴールがある。兄ちゃんがやるらしい。兄ちゃんは私と西川さんが小一のとき小六だったからそのとき中三か。庭だけで私たち家族の住んでる家の敷地の五倍くらいあって、門を通って、バスケのゴールと家庭菜園をやってる庭をてくてく通って、玄関まで続く道に地面を照らすオレンジ色の照明がポツポツポツと道に沿って並んでいる。そこをてくてく歩く。インターホンを押す。お母さんが出てくる。
「こんばんは」
「こんばんは。ありがとうねー」
「今日のプリントを持ってきました」
「ありがとうね」
 そんな会話をした。短いの夜道は一人で歩けたが「お大事になさってください」とか言えるほど大人ではなかった。
 そのとき西川さんのお母さんかビニール傘をくれた。雨は降ってなかった。
「うちのお父さんがね、いっぱい買ってきちゃうのよ」
 お父さんはまだ帰ってきていなかった。
「よかったら何本が持っていかない?」
「はい」三本もらった。

 息子がプリントを届けに行ったら傘をもらって帰っていた。
 我が家にもビニール傘は一本だけあったが誰も何年も使っておらず、もともと誰のために買ってきたのかも分からなくなっていた。傘立ては、私がもともと一人暮らしのときに使っていた白い傘立てを持ってきた。夫は結婚するまで実家に暮らしていたから自分の傘立てを持っていなかった。その傘立ては筒状で、真ん中に底から一本棒が立っていた。その棒から直角に細い棒が三方向に伸びていて、丸い輪っかに繋がっている。丸い輪っかは立てた傘が横に広がらないように、傘立て本体の白い筒の真上にあった。白い筒の底から伸びた棒の先端に、蛇口のような突起がついていた。蛇口と言っても今はいろんな形の種類があるが、小学校の水飲み場にあるような形のもので、三角形のそれぞれの頂点から中心点に向けて直線が伸びている、学校の蛇口は冷たい水がでる蛇口は真ん中にブルーの石みたいなのがついていて、お湯は赤いのがついていて、そこから三方向に蛇口の取手が伸びている。蛇口のように銀色の金属ではなく、黒いプラスチック製の突起なのだけど、息子はこれをいじるのが好きで、出かける時など、玄関で靴を履いて待ってる時は、いつもこれを蛇口のようにクルクル回して遊んでた。本物の蛇口ではないから閉まったり緩んだりしなかった。ずっとクルクル回せた。
 我が家の傘はビニールの先端のところが茶色く汚れていた。誰も使っていないので捨ててもいい。でもそのままになってる。「いつか使うんじゃないか」という気持ちがそうさせている。捨てた途端に「ああ捨てなきゃよかった」という時がくる。

 職場に傘を忘れた日は濡れて帰った。車の中にもう一本あるから大丈夫。でもそのもう一本も職場の傘立て、おんなじ場所に置いてきた。気付いた瞬間諦めた。また前とおなじことになると思ったから、もうそれでいいや、と思った。
 中野駅で乗り換えだったが、目的の駅にはキヨスクみたいなコンビニはなくて、コンビニに行くのにちょっと外を歩かないといけなかったから、一度中野で改札を出てキヨスク、じゃなくてニューデイズで購入した。傘はいっぱい売ってた。レジに並ぶ目の前の人がミンティアを一万円で買っていた。ビニール傘は七五〇円だった。七〇㎝。大きい傘が好き。六〇でも間に合うけれど大きい方がいい。七〇のビニール傘は初めてかも。
 台風一過で晴れている。台風一家。一家団欒。一気呵成。一反木綿。木綿のハンカチーフ。面倒はやめてくれ。

 たしか去年の夏、家族四人で静岡に旅行に行った。家族で旅行に行ったのはひさしぶりだった。高校に入ると部活が忙しくなって旅行には行かなかった。以前誰かが「たまに学生時代、部活しかしてこなかった。学校生活は部活一色だったと誇らしげに言う人がいますが、全然誇らしいことじゃありません」と誰かが書いていたのを読んだ。そうかもしれないと思った。この前Sと麻雀して帰り、車で送ってくれた車内で、「高校時代に戻ったらまた吹部やりたい?」って話になって、私は「やりたいかも」と言った。「ほかにやることないんだもん」美化して、青春をもう一度とぬかしてるわけではなくて、そもそもいい歳こいて「青春をもう一度」とか言われると、ちゃんと前見て歩け、と言いたくなる。たまに思い出すのはいい。でもずっと思ってたら何もできないまま死ぬぞ。ここ最近「早くジジイになりたい」って話を何人かにして、ある人に「早く死にたいってこと?」と言われたがそういうわけじゃない。早く死にたいんじゃなくて、早くジジイになりたい。
 高校何年生かの合宿のとき、私以外の三人で、ディズニーランドに行っていた。しかもミラコスタに泊まっていた。私はそれを合宿から帰って来て言われた。事後報告。ミラコスタでは朝食のときにミッキーが席を回ってきて、写真を撮ったりしてくれるらしい。ミッキーは忙しい。ずっと出ずっぱり。いつもニコニコしている。恋人も人気者。飼い犬も人気者。毎日同じ場所にいて、自宅まで公開している。プライベートがない? でもあれは見世物のための「自宅」で、本当の自宅は他のところにあるんだろう、そうじゃないと生きていけない。まさかホテル暮らしなん? ミッキーが本当はどこに住んでいるのか誰も知らない。
 ミッキーが自分たちの食事をしている席に来てくれて、最初は楽しい、と言っていたが、何度も来るからだんだんありがたみが薄れてくる、と言っていた。もうディズニーランドなんて何年も行ってない。
 静岡は鈴木将平の出身地だ。車で出身高校の前を通った。ここを鈴木が通っていた。高校のときの鈴木の動画を観た。坊主頭で、他の部員と別格のプレーだった。そんな人たちが集まってくるのがプロ野球で、みんな方言。東京出身の人は目立たない。「~やろ!」とか「~してるで!」とか、練習風景の動画を観ても東京弁で話している人はあんまりいないのかもしれない。インタビューのときは東京弁だけど、練習しているときはほとんど方言。
 コカコーラから「やかんの麦茶」という商品。発売してすぐのときは売り切れていた。静岡の旅行のときに初めて飲んだ。やかんで煮出したような味わい、というのが売りだったけれど、私はやかんで煮出した麦茶を飲んだことがなかったから感動も懐かしみもなかった。かまいたちの山内がYouTubeで、
「懐かしい!」
 って言ってた。
「部活で飲んでた味」
 麦茶は水にパックを入れる水出ししか飲んだことがない。そういうことを言うと「風情がない」とか「便利なんだろうけれど……」みたいなことを言われるのかもしれない。でも母の田舎でもパックの水出し麦茶だった。ほうじ茶は緑茶のお茶っ葉をフライパンで煎るとほうじ茶になる、ってことを最近知った。焙じる。だから焙じ茶。一時期ほうじ茶にハマって、ほうじ茶ばかり飲んでた。
 部活の合宿では麦茶とポカリのジャグを作っていたが、やっぱりポカリの方が先になくなった。私が小学生のときに所属していた少年野球のチームには「お茶当番」というのがあって、たぶん、どこの少年野球のチームにもある当番なんだろうけれど、子どもの保護者で当番を回して、子どもが飲む麦茶、ポカリを作るのと、コーチたちにコーヒーを作って渡すという謎の決まりがあって、私の母はこの制度が嫌すぎて、AGFのアイスコーヒーのペットボトルをグラウンドにぶん投げた。
 ポカリはあんまり飲み過ぎるとおなかを壊すから、薄めに作られていて、かなり水に近い味であまり美味しくなかった。水のポカリ風味。時間が経つにつれて中の氷が溶けてさらに薄くなった。

(次回につづく)

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