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タイギゴ (1)

 
 この文章は日記として書いているから日記です。柴崎友香が言ってました、私が小説だと思って書けば小説だし、エッセイだと思って書けばエッセイです。正直その境目は曖昧で、もっと自分が心から小説だと思える小説を書きたい気持ちもあるんだけど、でもこの前書いた『蝉』という小説は小説だと思うから小説になった。将来的には今悩んでいることなんてどうでもいいこと、悩む必要もなかったことになると思うけれど、いま悩んでおかないとそこに到達できないような気がするから、悩んでおく。でもそんな「悩んでおいた方がいいから悩んでおこっ♪」みたいな軽々しいものではなくて、いまの俺からしたら切実な問題。

 7月18日ごろからnoteで「カフカ式断片的日記練習帳」を書き始めて、タイトルはくどいと思う、長い。そんなことはどうでも良くて、始めのうちはキーボードで書いたり原稿用紙に手書きしたり両方でやってたんだけど、8月に入るころには完全に原稿用紙にしてしまっていた。そっちの方が楽しかった。ただそれがきっかけで「カフカ式~」は面倒くさくなった、手書きした文章をnoteに挙げるためにはキーボードに清書しなきゃいけないから打ち込んでたんだけど、だんだんそれが作業化してきて、楽しくなかった、飽きて来ちゃったから、1ヶ月になるすこし前に「カフカ式~」は辞めてしまった。今日は9月20日でそれからもずっと小説は書いている。ちょっとポップに、手軽に、授業中ノートに落書きするみたいな感覚で文章が書きたくなって、今日はキーボードで書いてみた、1日のノルマは5枚なんだけどあまり考えていない、短く済めば、「済む」というか飽きたらそこで終わり、飽きるまで書く。
 このパソコンに向かったとき、何を書こうとしていたのか忘れてしまった。忘れる
ことは大切なことで、忘れたらもともと忘れてしまったことを書こうとしていた原稿用紙のスペースを埋めるために何かを書こうとするけれど、そこに創作の源のようなもがあるような気がしている、たとえば記憶も、客観的に考えたらあの出来事とこの出来事のあいだには2時間の間があるはずなのに、記憶の中では圧縮されていることがある。2時間はなかったことになっているけれど、でも瞬間移動なんか出来るはずがないから何か、その「空白の時間」を埋めるために何かを書き足して、時間を埋めないといけない、それが創作のはじまり。忘れるってことが創作のはじまりで、忘れないと書き始められない。
「この前も教えたのに、どうして覚えられないの?」
 その答えを知っているならとっくのとうに実践してる。
 いずれ忘れてしまうから書きたい、というよりも、忘れてしまったから書きたいのかもしれない。

 小説は今2作目を書いていて、1作目は90枚ぐらいの分量、現在推敲と清書をしている最中。2作目は昨日の段階で112枚目に入ったんだけど、まだ何にも始まっていないので、この調子でいくと300枚ぐらいの小説になりそう。
 書いているときは「こんなおもしろい小説、他にねえなあ!」と思いながら書いているけどバランス感覚は必要で、自分の気持ばっかり書いているからそれはあとで調整しないといけない、バランス大事、だんだん飽きてきたからもう書きたくなくなってきた。
 飽きているよ。俺の知ってる奴は、大きい夢を追いかけてる俺の友だちのことを馬鹿にしたから俺は絶対許さない。
「そんなことしてないで、まず働けよ」
 だって。怒り通りこして悲しくなってくるというかさ、釣り針みたいにフックが付いてて、1回食い込むと引っ掛かって取れないんだよね、忘れたいんだけど忘れられなくなっちゃったというか、何かの折に度々思い出してひとり悲しい気持ちになってる。

 篠田賢作の手紙は、非常に読み易い丸々とした文字で書かれて、私の眼の前にあった。眼の前にあるはずだ、私自身が取り出していたからだ。(小島信夫『美濃』講談社文芸文庫、p.33)

 ここを読んだとき俺は電車の中だったけどマスクの中で爆笑したんだけど、いちいちこんなこと書かなくていいじゃん。手紙を、私が私の目の前に置いたんだから手紙が目の前にあるのは当たり前のことなのに、わざわざそれを書いている。

千メートル道路というのは、長さが千メートルあるといういみではなくて、海抜千メートルのところを走っているというのであって、のぼり下りがあるので、いつも正確に千メートルを走っているというわけではなかろう。(p.49)

 とか。最高だなと思う。
「この小説を読んでこう思った」とか、感想文的な感想はどうでもいいから、この一文にグッときた、それはどうしてかってことだけを言い合う読書会をしたい。
 先週、東京事変の映画館でのライブビューイングを観に行ったけど、アレについての感想文なんて書いても仕方がない、書きたい人は別に書いたらいいし、その人に向かってどうこう言いたいわけではなくて、個人的には自分にために書いたってしょうがないと思ってる。感想文を書く理由は、コンパクトにその日の感動を持ち歩くためだけど、そもそも始めの「新しい文明開化」の、
―Knock me out now
 で自分のキャパシティーは越えちゃっているから感想文になんかならない、東京事変を観ている自分は、東京事変を観ていたあの時間の中にしかない。あとで感想文にしてコンパクトにまとめて感動を複製してもしょうがない。

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