2021/11/30(1-p.54)


 黒ビールをしこたまのみ続けて、350ccを5缶飲んだ。黒ビールはアルコールが少ないのもあるのかもしれないけど、僕にとっては甘く感じるのでぐんぐん飲めてしまう、というのもなんか風情がないけれど、気持ちとしては『キングスマン』でコリン・フォールスがギネスを飲む感じで飲んでいるので、グラスは大きく傾けて、顎はぐいっと上に上げる感じで飲みたい。だれにその様を見せるのでもないんだけど、そもそもだれかに見てもらわないと何かを表現したことにならないのが変だ、べつに誰に見せるつもりもない、ただ、自分が楽しくギネスを飲めればそれでいい。
 もう明日から12月で、だから何だってこともないんだけど、去年、さっさと、
「良いお年を」
 と、勝手に今年を収めてしまったら、もう「良いお年を」と言った人とは今年は会わなくて済むから気持ちいいよ、というのをTwitterで読んで実践したらその通り楽しかったので、今年もさっさと、
「良いお年を」
 と言ってしまう。良いお年を。べつに会いたくない人ばかりではないし、もし「良いお年を」と言っても翌日も会わないといけない人ばかりだけれど、それでもいいの、良いお年を、今年は喪中なので新年のご挨拶は辞退ということになっているけれど、べつに新年の挨拶ぐらいしてもいいよね、おじいちゃん?

 仕事終わりにおばあちゃん家に行って、少し話をした。昨日も行ったんだけど、昨日と同じ話をしていたんだけど、また同じ話をしているよ、っていうことより、最近そのことをよく思い出しているんだ、ってことが面白かった。今日おばあちゃんがしていたおじいちゃんの話は、おじいちゃんが土地を買うときに、まだおじいちゃんが20代後半とか30代のときの話です、地主に、
「この土地を僕に売ってください」
 と言っても、相手にしてくれなかったらしい。家に行って頼み込んでも門前払いで、お茶もだしてくれなかった、おばあちゃん曰く、
「こんな若造、相手にしてられるか。
 どうせ、口だけで、調子のいいことを言っているだけなんだ」
 とまったく相手にもされなかったらしいんだけど、あるとき、おじいちゃん、まだ20代後半か、30代のおじいちゃん、まだ息子(俺の父)が生まれる前だったと思うけれど、地主の家に行って、またお茶もされなかったけど、100円札か10円札かわからないけれど、今でいうところの100万円札の束ぐらいのお札の束を2つ持って行って、お茶も出してくれないから玄関先に置いてきたらしい。そうしたら何日もしないうちにおじいちゃんにその土地をあげるという登記簿を作ってよこした、というのだ。当時の貨幣価値がどれぐらいのものなのか分からないけれど、おばあちゃん曰く、
「そんなに持っているとは思わなくて驚いた」
 ということだったので、それなりの大金だったんだろうと思う。知らんけど。
 それで話の最後はいつも、どんな話でも、
「お父さんは立派な人だったねえ」
 と言うのがオチというか、いつもの締めくくりなんだけど、それを聞くと、本当におばあちゃんはおじいちゃんのこと大好きで、いまも大好きなんだな、と思う。

 自分の身の回りで、亡くなった人はおじいちゃんが初めてで、家も近いから会いに行けば、今年の6月までは会えた人が今はもういなくなってしまって、肉体はもうなくて、おじいちゃんに触れたいと思ってももう触れることはできなくて、もう骨になってしまっているし、もう納骨もしてしまっていて、お墓も近いけど家よりは遠いところなのでそんなに頻繁に、行こうと思えばいけるけれど、僕も無精なのでなかなか行かない。もうおじいちゃんには会えないし、いないんだけど、でもいるんだよね。「心の中にいる」とかそういうことではなくて、本当にいる。今日も、さっき会ってきた。もちろんいないことは分かっているんだけど、そういうことじゃなくて、会ってきたんです。
 新しい関係が始まった感じがしています。やっと新しい関係を築くことができたことが嬉しいというか、最期のおじいちゃんは呼びかけても全然反応してくれなくて、その姿を見ているのがつらかった。だからといって、今はもう死んでしまっていないんだから、どんなに呼びかけても答えてくれないのは同じだし、そんなのお前の都合のいい解釈じゃないか、と思われるかもしれないけれど、やっと話ができるようになったっていうか、お互いに生きていたときとは違う関係というか、生前も無口で、いまも無口なおじいちゃんですけど、なんか今までとは違う関係を作れているような気がして(気がして、というより作れている)とても嬉しいのです。

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