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山下 澄人×保坂和志 『ルンタ』刊行記念トークセッション 小説、世界観の提示 文字起こし

2014/11/13収録

(保坂)山下澄人さんと保坂です
(山下)山下です
(保坂)あの、いつもこの、3年連続ここでしゃべる、毎回ならびはこれなので、今回だけ席を変えちゃうと、あれ?とか、あれ?保坂さん感じ変わったなみたいなことを思う人がいるから、で、えっと朗読、まず朗読をするんだっけ? まずじゃないっすか?
(山下)いや、
(保坂)ここじゃないよ、こっちじゃないよ、
(山下)こっちじゃなくて、はい。ちょっと冒頭を、どんな本か知らん人もいると思うので、こんなんですっていう紹介をかねて、ちょっと読みます。「今はわたしは一人で暮らす者なので、家にはわたし以外にはだれもおらず、予定ももちろんなにもなかったので、寝るのは朝でも昼でも夕方でもいつでもよかったから、出るのは深夜になった。夕方には荷造りを終えて、家でする最後の食事は魚でも焼こうと、近所のスーパーに出かけたがそこには鮭しかなく、わたしには鮭は焼き魚というよりは鮭でしかないのでやめて、ぼんやりしていたらもう九時で、どうせならと、もうこの先見ることのないだろうとテレビを見るでもなしに眺めて、読みかけて読んでいなかった本を、結局は読み終えることはしなかったのだけれど、読んだりしていたら電話がかかってきて、出てみたらそれはおばで、何十年ぶりかでわたしはおばと話をした。おばは昔から一人で暮らしていて、今も一人で暮らしているらしかった。しかし、たしか、おばはもうずっと前に死んだのじゃなかったっけか。なにが怖いか分かる? 年寄りのひとり暮らしで。電話には雑音がある。おばの声が遠い。怖いもんがなにもないことや。おばの声はわたしには知らない人の声にしか聞こえない。わたしなんかもうなにも怖ない。死のうが何しようが、誰が来ようが、お金がなくなろうがなにも怖ない。それが怖い。おばの声の向こうから甲高い音が聞こえてきた。なんの音? 音? ピーゆうてる。あんた一人か? ああ。二ヶ月前までユがいた。ユがいなくなった日、わたしはわたしがまっちゃんと呼ぶ男に首をしめられる夢を見た。まっちゃんは全裸で、体の隅々にまで筋肉が浮かび上がっており、湯気が立っていた。しかしわたしはその男を、まっちゃんを見たことがない。もちろんだから、まっちゃんと呼ぶ知り合いもいない。いたこともない。火事気いつけや、ひとりもんの男の出す火事だけは許せんからな。ピーゆうてんで。そら、ピーもゆうで。やかんかなんかちゃうか? やかんや。火止めな。止めるわいな、うるさいな。電話を切って時計を見た。午前三時五十七分だった。四時になるのを待ってすこし慌てて、用意してあったリュックサックを担いで家を出た。靴はしっかりしたブーツも持っていたのだけれど、わざとわたしはかかとに穴の開いたスニーカーにした。いずれわたしはその靴を捨てるつもりだからそれでかまわない。わたしはどこかで、ハックルベリーのように裸足になるのだ。裸足になり、ゆくゆくは着ている服も捨てて、思いつく限りにおいて、なにからも自由な生活をしようと目論んでいるのだ。裸族か? 裸族や。わたしはもう人間としての暮らしのあらゆるにうんざりなのだ。着るとか、履くとか、誰がどうしたとか、誰とどうしたとか、金とか、愛とか、あそこのなにはうまいがあっちのなにはまずいとか、時間とか、その時間に遅れるとか、空気を読むとか読まないとか、普通とか、普通ではないとか。生きるとか、お命をお大切にとか、人生とかにうんざりなのだ。しかしわたしは自身のこの形をまだ消してしまう気はない。自殺と呼ばれるものをわたしはわたしに起こそうとは考えていない。他人にとっては、今からわたしがしようとすることはそれとほとんど同じようなことであっても、わたしには違う。わたしは、わたしが、わたしと呼ぶこの装置を、まだ消してしまう気はない。わたしはまだしばらくわたしがわたしと呼ぶこれを観察してみたい。できたらその時間は長ければ長い方がいい。しかしそれをわたしは操作することはできない。自殺というたとえば手段で時間を縮めることはできても、伸ばすことはわたしにはむずかしい。わたしはなるべくその期間を長くと祈るだけだ。だからといってどこかにむかって手を合わせたりするつもりはない。」……まあこんなで。こんな、はい、はじまりで、はじめる小説です。
(保坂)あの、えっと、今回のタイトルが「小説、世界観の提示」ってことにしたんですけども、なんでかっていうと、この山下君の小説は人称、一人称だと思うとそうでもないようなっていうか、まあ人称がどんどんズレていって、最近わりとみんなそういうのやってて、それはなんていうかな、テクニックとか、文章上の工夫とかという風に解釈する人がけっこう多いんですけど、これ去年も言ったんだけど、これテクニックの話じゃないんですよね、あの、こうしないと書けないものがある、書けないことがある。で、だからといって普段の頭の中でそういう風に書いてないんだけど、それはどの小説家だって普段の頭の中で自分の小説を書くように考えている人はいないわけだからそれは同じことで、それで、こういう風な「わたし」とか何かの使い方で、書きたい世界の像というか、世界のイメージというか、世界の感触というか、世界の予感とかそんなようなものが山下の中にあるから、きっとそういうことになるわけで、えっと、今日はできるだけそういう話をしたいと思います。で、とにかく、テクニックうんぬんで終わってしまうような小説なんてのはロクなもんじゃないし、ただ、山下はこないだまで芝居をやってたわけで、それで一昨年の夏が最後?
(山下)うん、そうですね
(保坂)そうだっけ? そのあともう一回なんかやった?
(山下)自分でやってはないですね
(保坂)あっそうか。で、あの、一昨年の夏札幌でやったのを僕は見に行って、それで、そのあと秋に東京芸術祭みたいなのがあって、東京芸術劇場という、池袋にある、僕が脚を折った因縁の(笑い) 東京芸術劇場、そのときにはそんなことが翌年にあるとは思いもせずに行ってるわけだけど、それで、そのときに立派な芝居を見たんですよ、ところがね途中でつまんなくて、山下の芝居っていうのは金もかかってなくて、金もかけられないから貧乏くさい芝居なんだけど(笑い) これがね、そっちの芝居を見ながら、あの、完全に、山下によってこういう芝居は終わらされたなって思ったのね。で、ほんとに、その人たちが一生懸命やればやるほどつまんないんだよね。そのつまんなさはまだ分かんないんだけど、とにかく、芝居の稽古っていうのはこういうことのために使うんじゃない、って思う。山下の札幌でやった芝居も、それよりも二年ぐらい前にやった、新百合ヶ丘でやった芝居も、稽古の時間っていうのが、稽古中の試行錯誤っていうのが出てる感じの芝居で、その手触りがあるんだけど、で、山下の芝居っていうのはほんとにあんまり見ないうちに、山下がそうやって名が知れる前に山下芝居やめちゃったからほんとにみんな見てないんだけど、で、山下の芝居のおかげでねああいう芝居っていうのは全部ね、森光子の『浮雲』みたいな、そういう方に行っちゃったんだよね。なにかを山下の芝居の考え方っていうのは終わらせちゃったんだよね。あの、僕がはじめて見たのが二〇〇八年で、今日は山下にしゃべらせるって言ってんだけどごめんね
(山下)(笑い)どうぞ。どうぞ
(保坂)それで二〇〇八年に見て、二〇〇九年に、翌年に見たときに、こっから先にはもう、こっから先やるのは大変だな、って思ったんだけど、こっから先やるのは大変だなって思った芝居じゃないと先はないんだよねやっぱり。それで、その翌年が新百合ヶ丘?
(山下)そうです
(保坂)新百合二度やって?
(山下)はい
(保坂)で札幌も俺は二回見て、二年見て。で、そのどう変わっていく、前に進んでいるのかどうかも分かんないけどとにかく、前回と同じことをやっているというふうには全然思わせない、そういう無理やり切り開いたようなとこがある芝居だったんですよ。で、それでいうと、小説は、まだそこまでは行ってないかなって感じはするんだよね。あの、だから、でもそういう比較も意味ないんで。その、なんだろう、今回ちょっと事情があって、前半がなんかイマイチだったんだけど後半、馬に乗って、ルンタに乗り出してからぐんぐん来て、それで、っていうのは二回目ね? 掲載時じゃなくて。今日のために読んで。で、またもう一度前に戻ったらよかったその事情はまたあとで、こっちの個人的な事情があるので、で、最初に言ってた、基本的な話なんだけど、あの、一人称の使い方間違ってるんだよね。っていうか分かってないよね?(笑い)
(山下)(笑い)いや、たぶんね、そうなんですよね。たぶん分かってないんやと思うんですよね。だから、その人称どうのって言われたときに、返す言葉はあんまりないんですよね。そうか、って。
(保坂)(笑い)
(山下)だからあんまり思わん方がええんちゃうかなって思ってるから、今なんとなくぼんやりやってますけど。そう思います。
(保坂)で、なんかみんなきっと小学生のときに作文で、こういう書き方はしちゃいけないって言われてそういうふうにこう、鋳型にはめられてきたんだと思うんだけど、山下くん、あんた家の外にいるのになんでそんな留守に入ったおじいちゃんのことをこんな見てきたみたいに知ってるの? みたいなことを
(山下)ハハハハハ
(保坂)先生に言われちゃうわけだよね?
(山下)はいそうです、ほんとそうです
(保坂)それは、と思ったとか、という話を聞いたとか、そういうふうにしなさいとかさ、言われて、そうかな~?って、見えてんだけどな~、みたいな、俺はそうじゃないんだけどな~みたいな、
(山下)だから、いやまったくそうで、わたしはって書いて、わたしはもう家を出て、道を歩いているのに、すれ違ったおじいさんがわたしの家に入った話を、ぼくは、そう思ったとか書かずに、おじいさんが入った、冷蔵庫開けたとかって書くんですけど、えっと、なんて言ったらええんやろうな、あの、そんなことは不可能じゃないかって言われたら、不可能ですって思うんですよね、でもおもしろいからいいじゃん、っていう(笑い) 言い方しかできないから、何とも言いようがないです
(保坂)あの~
(山下)あっ、映画ってありますよね
(保坂)はい
(山下)だから映画って思ってもらったらええんちゃうかなって思うんですけど
(保坂)うん。で、……(笑い) でも映画は三人称なんだよね、
(山下)そう、いや、そうか
(保坂)(笑い)
(山下)でもたとえば映画でもモノローグするじゃないですか、主人公が。あれも三人称ですか?
(保坂)あれ、そこは一人称
(山下)あ~
(保坂)(笑い)
(山下)だからそんな感じです
(保坂)あの、一応初歩的な質問ね。17ページに、17ページの真ん中に一行だけ、「かけたつもりのわたしはアパートからどんどん離れていった。」そのかけたっつうのはおじいさんが自分のアパートに鍵が開いてたんでおじいさん、老人が入って、「老人は戸のノブに手をかけて回してみた。開いた。わたしは」今山下風に読んでみたんだけど(笑い)
(山下)(笑い)
(保坂)「わたしは鍵をかけ忘れていた。しかしわたしはかけたつもりでいる。かけたつもりのわたしはアパートからどんどん離れていった。」ここの、かけたつもりのわたしはアパートからどんどん離れていった、というそれは、書いてるときに、映像イメージとかはあったんでしょうか?
(山下)いや~、このままですね。もうまさに「かけたつもりのわたしはアパートからどんどん離れていった」んですね
(保坂)あの、そのときに、おおざっぱに分けると、アパートのある道を、仮にアパートが突き当たりにあるとしましょう。それで、そのアパートを、路地を出ていったわたしが前から見えるそういう映画の、映画的なものなのか、それか、自分の普段の生活だと、自分が歩いて行ってうしろにアパートがある
(山下)うん、でもどっちか言ったらそっちですね、
(保坂)それ普通だよね
(山下)はい
(保坂)普段の生活でもこう見えてたら大変なんだけど、それで、えっとそうすると20ページ、自分……(笑い)これおかしいんだけどさ、わたしとユがしゃべってて、その前のページで、それで、あいつ電柱、塔か?
(山下)はい
(保坂)「鉄塔の上にいる人が俺たちを見張りしてんだ。あそこからわたしらのこと見張ってんねん。なんで? 見張りに聞き」(笑い) これはいいんだけど、ユってすごい暴力的なやつだよね?
(山下)はい、そうですね。こわい
(保坂)ね? あのちょっと話ズレちゃうけど、だからほんとに好きなのは、その23ページで、23ページの終わりんとこで、「みんな死んだらええねんってどういうこと? ユが言った。たぶんわたしはすこし前にそう言ったのだ。どういうことってそういうことやん。ユはしばらく考えて、みんなってわたしも? そこまで深く考えての発言ではない。」って(笑い) あのそいで、鉄塔の男が見張りである、で、今度鉄塔の男の視点になりまして、「目を手すりに戻すと手すりの向こうに公園にいるわたしたちが見えた。作業員は手すりの際に立ち、わたしたちをよく見てみた。赤いシャツのユと白いジャージのわたしが公園からこちらを見上げて手を振るのが見えた。どうやらわたしたちは作業員に手を振っているらしかった。」これ、どうやらわたしたちは作業員に手を振っているらしかった、はこれはどっちなの?
(山下)(笑い)これ改めて読まれると絶対おかしいですよね。まあ、う~ん、これ、作業員の見た目なのかな……。そう、だから「あれをわたしたち」って言ってるんでしょね
(保坂)ああ
(山下)あっ、俺が手を振ってるな、って。
(保坂)ああ。あの、じゃあ15ページでさ、15ページの二行目に、「白い車がわたしのうしろから来てあっという間に追い越していく。抜きざま音楽が聞こえる。」
(山下)はい
(保坂)あれ? 俺これなにが、なにを聞こうと思ったのかな。ああでもさ、これはどうなの? 白い車がわたしのうしろから来た。あっという間に追い越していく。
(山下)これはもう、だから、車がビュン!って行ったってことですよね
(保坂)普通だよね
(山下)はい
(保坂)だから、これが完全な一人称なんだよね。で、ただね、今回のってのは、すごいなって思ったのはね、一緒に収録されている「星になる」ってあるでしょ。「星になる」ってだいぶ前に書いてて、えーっと、三年、三年以上だ、三年三ヶ月掲載時期がズレてて、「星になる」の方が文章はうまいんだよね
(山下)(笑い)
(保坂)「星になる」の方がちゃんとしてるんだよね
(山下)はあ
(保坂)で、
(山下)あの、このときは、小説書かなきゃって、すごい思ったんで。ちゃんと書こうって。
(保坂)だからね、その、今ので「わたし」について突っついたのは、「わたし」この一人称がまったく法則性がないってことなんだよ。で、ほんとに鉄塔から見るときの「わたし」って完全な三人称扱いで、「わたし」という人を外から見てるんだよね。で、じゃあさ、25ページの、真ん中で、「天使やな、ユが言った。女の子はいなくなっていた。」これいつの話?
(山下)これその前の、そんなことゆうてないよ、の前ですね。ずっとユと二人これしゃべっている流れですね。
(保坂)うん
(山下)で、そんなことゆうてないわっていうのが、突然入ってきた別のいつかの話で、だから、天使やなは前に戻ってる
(保坂)ああ、これちゃんとしてるんだ。
(山下)はい
(保坂)そのつもりなんだ?
(山下)はい
(保坂)はあ
(山下)だから、え? これそうですけど?って感じですよ
(保坂)でもこれさ、いつでもいいよね?
(山下)まあそうですね、別につながってなくても
(保坂)うん。で、じゃあさ、さっき読んだところで、読んでないか。読んだか。あの、裸族か? 裸族や。
(山下)これもおんなじスタイルですね。あの、今じゃない。
(保坂)そんなことゆうてないわの方?
(山下)うん、そうです、そうです
(保坂)これ誰と誰が言ったの、ちなみに
(山下)これ中西とわたしです
(保坂)ああ、
(山下)裸族か?って言ったのが中西で、裸族やって言ったのがわたしです
(保坂)あの、この小説の特徴でさ、なんていうかな、まあここは位置が飛ぶんだけど、最初にセリフが出て、次に発言者の名前が出て、
(山下)はい
(保坂)だからちょっと戻るんだよ
(山下)え?
(保坂)あの、えっとね、まあたとえばさっきの、23ページの「みんな死んだらええねんってどういうこと? ユが言った。」
(山下)ああ、ああ、はいはい
(保坂)最初に一言出て、そのあと発言者が出るんで、あのね、これ実はけっこうほんとに偶然なんだけど、技術とかテクニックって言うのもなんかちょっと違う感じなんだけど、こう、ギターの演奏方法とか、そういう感じのイメージで言うと、いつもちょっとだけ戻るんだよ。最初にこれ誰?って思って、次に出てきて、なんかその、もう一度一行分だけ戻るみたいな、その、読んでる人に、そうさせることが、すこしずつ時間が狂うことを読む側に許させる、そういうことを受け入れさせる効果に、ほんのすこし役立ってんじゃないかと思うんだよね。
(山下)へぇ~
(保坂)わかんないよ、思いつきで言ってんだけど、これトークだから(笑い)
(山下)まあでもあれですよね、たとえば人に話するときに、誰かと誰かがケンカした話をするときに、あの、ああでもそうでもないか、そうでもないですね。なるほど。お前なんか死ね、ってダレソレが言ったら、死ねゆうたやつが死ね、ってダレソレが言い返して、っていうふうにしゃべりますよね?
(保坂)もう一度言って?
(山下)だから、お前なんか死ねって保坂さんが言ったら、死ねって言ったやつが死ねって俺が言って、あっでもその次は、そしたら保坂さんがって言うのか。なんの話してるのかわからなくなった。
(保坂)でもこれ、最初に発言者を書くとすこしゆるむことは間違いないんだよね。でさ、あの~
(山下)え、最初に発言者書くってどうやって書くんですか?
(保坂)なにが? 普通に書けばいいじゃん
(山下)ユが言った
(保坂)ユが、みんな死んだらええねんってどういうこと? と言った。
(山下)あ~
(保坂)(笑い)
(山下)はい
(保坂)それでさ、これ、ただね、けっこうね、急にねじんわりうるっと来ちゃったんだけど、50ページで、女の家で、その前の49ページから、「大変な雨であたりはほとんど洪水だ。わたしは小便がしたくてたまらず外に出た。」って言って、このずっと長い段落のおしまいのところで「ああこれが夢ならなあ、と。夢ならどんなによいだろう、と。するとわたしが言う。夢や大丈夫や」って言うんだけど、その「ああこれが夢ならなあ」ってまず思ったところでジンときて、そのあとに「複雑な道路の形を覚えていようと覚えようとする。起きたときにユにこれを絵に描いてやるのだ」って、起きたときにこれをユに絵に描いてやるのだっていうのでもう一度じんわりきて、あの、けっこううるうるきちゃって、全体として子どもじゃん? ね? 頭ん中が。
(山下)ああ、そうか
(保坂)あの、ああこれが夢ならなあ、は夢ん中だからまあけっこう冗談っぽくもなるんだけど、でも、夢や大丈夫や、って言うまでは夢とは明かされてもいないわけだし、まだここではあんまりみんなが生きたり死んだりするっていうのはよくわかんないから、ここで夢ならなあって思うと、やっぱり現実に夢ならなあってすごい大変なとき思うじゃん? で、だからそれが、それがやっぱり、これが夢ならなあ、で、俺もそう思ったことが思い出された。いつ? じゃあいつ? ってユなら聞くんだけど、それはわかんないけどさ、こういうことは自分でも思った。それが書かれて、すごい素朴な感じで書かれて、ポンって投げだされたんで、ストンとこっちにも入ってきて、もう一個はまたそれと全然別に、ユに、起きたらユに絵に描いてやるって、別に起きたらじゃなくてもよくて、家に帰ったらユに絵に、お父さんにお母さんに絵に描いてやるみたいなことが出てきてさ、だいたいあの、こう、小説書いているときの山下の自己イメージっていうのは、何歳なんでしょうね?
(山下)え? 自己イメージ?
(保坂)自分のイメージ
(山下)書いてる僕ですか?
(保坂)うん
(山下)え、四十八です(笑い)
(保坂)(笑い)
(山下)え? もっとなんかこう、あ、どこが子どもなんですかね。あ~、でも、今保坂さんが言ったところは今僕もあらためて見て、ああいいなって思いますね。そんなんならええなって
(保坂)ね?
(山下)夢やったらええなって思ったら夢やって言われて、どんなにホッとする感じがします
(保坂)ね? 何ページだっけ?
(山下)これは50ページ
(保坂)50ページか。
(山下)だからあの全然ちゃうかもしれないですけど、全然寝れなくて、寝なアカンのに寝れなくて、どうしようと思ったときに、寝んかったらええねんって言われた感じですよね?
(保坂)(笑い)全然違うと思うけど
(山下)(笑い)ああそうか。こうやったら寝れるよとか言われるとどんどんプレッシャーになるけど、もう起きとったら?って言われたら、ああそうか、って
(保坂)俺の場合さ、眠いのにそんなに起こすなよ、じゃあ寝てれば? ありがとう、ってそっちの方
(山下)まあそうか
(保坂)でね、やっぱりね、その~
(山下)あ、あ、今の自己イメージの話なんですけど、そう言われてみると、その書いてるときの自分が子どもとかって認識はないですが、ただ、普段もうちょい、なんていうかな、制御してるものが、たとえばなにかの夢を見たとして、誰彼なしに、俺今日こんな夢見てん、こうでこうでって言わないじゃないですか? あの、大人やし。そのシチュエーションでしゃべるかもしらんけど、基本的にはしゃべらないですよね? それがもっと自由にできるって気はすごいします、小説書いてるとき。だから最初に思ったことに制御かけずにやれるっていう、はい。
(保坂)あの~、それ実はね、これなんでこの小説に最初入れなかったかっていうと、今小島信夫の、水声社から『小島信夫短篇集成』っていうのが順番に、年代順にっていうか、年代順に編集されたのが出てまして、それの僕は八〇年代の巻を書かなきゃいけないんだけど、で、やっぱりね小島さんの文章読んでるとね、誰のでもねイマイチになっちゃうんだよ。それまで小島さんのは読んでたからあれだけど、とくに、今まで単行本以外に入っていない『月光』っていう短篇集の中の二つ目か三つ目のが、それ今度の短篇集成の中に入るんだけど、なんでこんなめちゃくちゃな書き方するんだろうなと思って、でね、でもね、今なんて言ったっけ、山下
(山下)はい?
(保坂)(笑い)こう書いてると、書いてると、書いていいって
(山下)そう、書いていいんだって
(保坂)それで、小島さんもその書き方なんだよね。で、僕と磯﨑 憲一郎の書き方っていうのは違ってて、えっと「朝露通信」の前までの書き方は違ってて、ここを書いてここで考えるわけ。ね? まあ今50ページ目を書いているとすると、50ページを書いたところでその50ページから考えるわけ。そうじゃなくて、山下くんと小島信夫の書き方っていうのは、そこで書いて、次なに書くのかわかんないのは同じなんだけど、50ページ目に刺激されて書くんじゃなくて、50ページ目を書いた自分の中に起きたものを書くんだよね。その50ページ目の文章、そこの情景から書くんじゃない。磯﨑憲一郎は50ページ目の情景から次の51ページ目を書くわけ。でも山下は50ページ目の情景から、そこの情景を踏まえて書くんじゃなくて、そこの情景を書いて自分が考えたことを書くんだよね。
(山下)あ~
(保坂)で小島さんもそうなんだよ。でそうすると小島さんはもっと制御がないからめちゃくちゃになるんだよ。しかも、まあいいや、あんまりそっちの話……、それで、だから今回大きな二つの、僕にしろ山下くんにしろ書き方は行き当たりばったりなんだよね。でも行き当たりばったりのやり方が二種類、すくなくとも二種類あったってことを発見したんだよね。で、だから、書いたもの、なんていうのかな、書いたものの形としては磯﨑憲一郎の方がずっと端正なんだよ。できあがりは、その書いたものは。で、もうね山下小島信夫はそのへんがちゃがちゃなの。ただ「星になる」の方が端正で、今回のががちゃがちゃになってるってことは、山下はそっちの書き方に完全にシフトした感じがするんだよね。今までは、今回小島さん経由してそれに気がついたから、「ルンタ」以前っていうのがどういうふうにやってたかはちょっとはっきりとはわかんないんだけど、基本はね同じやり方をしてたと思う。で、それで、書いてることにそんなに、縛られてないんだよ。こう書いたページに縛られてなくて、縛られずに自分がどんどん考えてるんだよ。
(山下)ああ
(保坂)で、あの、ちょうど、僕もねほんの何日か前に近所の本屋で偶然、道元の「正法眼蔵」を売ってて、「正法眼蔵」は実はうちにもあったんだけど、あるっていうか、まず岩波文庫の「正法眼蔵」があって、それから文庫になる前の単行本で出た「正法眼蔵」もあるんだけど、なんか、敷居が高いし面倒くさいから読んでなかった、「正法眼蔵」って難解極まると言われていて、でね、今もこのトークの前に、このフロアか、ここに宗教・哲学の棚があって、宗教の棚で「正法眼蔵」の翻訳が三つか四つ売ってんですよ、で、現代語訳が、で、やっぱり解釈がみんな微妙に違ってて、なんで違うかっていうと、言葉数が足りないからなんだけど、それがさ道元と自分をどっかで引き寄せたりするとほんとにみんなに怒られちゃうんで、日本中の坊主に怒られちゃうからさ(笑い) でも坊主は人を怒るなんてそんなことしていいのか?って、もっとやさしく諭さなきゃいけないって、ただ、ほんと言って、まず三蔵法師がほんとの経典が欲しくて中国からチベットに入っていくのに、チベットってどっから行っても最低六千メートルある山らしいんだよね、だから夏なんかでも雪が降るというか夜は冷える。絶対冷える、六千メートルだからね、で、とにかく経典を取ってくるためにそういう苦労をするってことは、宗教の修行をするっていうことはものすごい体力のある人じゃないと、学問も本当はそうなんだけど、学問・宗教をやるっていうのはすごい体力がないとできないっていうのがすごい大事なのに、わりとそこがわかんないじゃない? 静かにうちの中に籠もって本を読むみたいなのが学問とか宗教とか思われてるけど、千日回峰行で高野山とか、どっかを回る、歩く、山のまわりを歩くのだって、山のまわり回るのだって、全然歩いてるんじゃなくて、一日何十キロって義務だからさ、山道を走ってるんだよね、夜中もずうっと。そうじゃないとそれがクリアできないだけのもので、千日回峰行やる人とかってものすごく頑健な人で、何を言いたかったのかわからないんだけど、とにかくそういう静かなものじゃないんだよ。で、その「正法眼蔵」を偶然読みだして、そしたら河出文庫の「正法眼蔵」の現代語訳っていうのが、けっこう読めるっていうか、「ルンタ」と平行して読んでたら、おんなじなんだよ。で、山下にメールで問い合わせて、山下は、道元ってだれですか? 坊さんですか? とか言っててさ。で、ちょっと読んでみて。
(山下)これあの保坂さんが道元の文章と
(保坂)ちょっととりあえず説明なしに
(山下)「わたしはもう人間としての暮らしのあらゆるにうんざりなのだ。着るとか、履くとか、誰がどうしたとか、誰とどうしたとか、金とか、愛とか、あそこのなにはうまいがあっちのなにはまずいとか、時間とか、その時間に遅れるとか、空気を読むとか読まないとか、普通とか、普通ではないとか、生きるとか、お命をお大切にとか、人生とかにうんざりなのだ。諸々の自然の事物に自我はない。人は自我の幻想である。人は誰であっても自己である他はないのだが、自己という意識は幻想である。迷いも悟りも、悟り得た人びとも悟り得ない人びとも、生も死も、すべては空である。諸々の存在現象の本質は空であって、実体ではないのが存在現象の本質である。しかしわたしは自身のこの形をまだ消してしまう気はない。自殺と呼ばれるものをわたしはわたしに起こそうとは考えていない。他人にとっては、今からわたしがしようとすることはそれとほとんど同じようなことであっても、わたしには違う。わたしは、わたしが、わたしと呼ぶこの装置を、まだ消してしまう気はない。わたしはもうしばらくわたしがわたしと呼ぶこれを観察してみたい。できたらその時間は長ければ長い方がいい。しかしそれをわたしは操作することはできない。自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ。諸々の現象の中に自我の有り様を認識するのが悟りである。迷いを迷いとして大悟するのが悟り得た人びとであり、また己の認識に執着するのが衆生である。悟りの上にさらに悟りを得る人があり、迷いの中にさらに迷う人がある。悟り得た人びとがまさしく悟りを得た人びとであるとき、その人は自分が悟り得た人であると意識することがない。それは心身が悟りに同一化しているからである。そのようではあるけれども、その人は仏法を知り得た覚者であって、さらに悟りを求めてゆく。」
(保坂)はい、ここまで。ね? 同じでしょ?(笑い)
(山下)(笑い)
(保坂)(笑い)この、妙に理屈っぽいしつこさ。で、そのわりにはなんかちゃんとした理屈になってるのかよくわかんないっていう、とこがすごい似てて、だから「ルンタ」読みながらけっこうあっちこっち、あれ? すげー「正法眼蔵」っぽいなと思って(笑い) ただしね、この「正法眼蔵」は原文はもっと言葉数が少なくて、河出文庫の石井恭二訳っていうのが山下澄人に近い。で、もう一箇所読んでください。
(山下)これ次?
(保坂)はい
(山下)「薪は灰になったなら再び薪となることはありえない。この事情を灰は後で薪は先だと理解してはいけない。知っていなければならないことは、薪は薪としての現象あって、先があり、後がある。前後はあったとしてもその前後は切れていて、現在のままである。灰は灰としての現象であって、これもまた後があり先がある。木に花のようなものが咲いて、それが枯れて、種を含んだ不思議な形のものになって、ある日風が吹いて、それが枝から千切れて飛んで、飛んで、種を含んでいた殻が割れて、種だけになって、ばらけて、木にも花のようなものにも、種を含んでいた殻にも、種にも、思いも寄らない場所に落ちて、運がよければ芽を出す。まわりには形の違ういろいろな芽たちはいて、それらはしかしみんな同じように太陽の光と空気と水を必要としていて、それぞれほかに負けないように、それらを取り込もうとするから、上に伸びていたり、横に広がっていたり、ときにはほかのものに絡みついてその運動を抑え込もうとしてみたりする。薪が灰になってしまったならば、再び薪とならないように、人が死んだならば再び生きた人にはならない。こうした事情について生が死になるとは言わないのは、存在という現象は空であって実体がないのだという理にかなったことである。生が死になると言わないのはすべて存在という現象は空であって実体がないからである。」
(保坂)どこまでがどっちかわかんない(笑い) いやとくにね、このくだりに出会ったときに、これ何ページだっけ? えーっと、142ページかな。ここに出会ったときにね、すごい、あれ? これはほんとに「正法眼蔵」に書いてありそうだなって思ってパラパラ見たらあったんだかどっちが先だったんだか、そのちょうど読んだところで、なにしろ僕も「正法眼蔵」最初の何ページまでしか読んでないから、あれ? っと思って、だからこれからもっと「正法眼蔵」読むと、もっと「ルンタ」と重なる。で、あの、なんだろう、えっと、なんかね、言ってることが、言ってることは同じかどうかわかんないし、言ってる意味はもしかすると逆かもしれないんだけど、なんかね頭の使い方が似ている。空海が四国を歩いてるときに、今のお遍路道で、仏さんが出てきて、ここになにかをせよ、と言われたからなんか井戸を掘ったとかなんとかってのがあって、あれは空海の時代だから仏さんとか観音さんなんだけど、それが横尾忠則だったら宇宙人なんだよね。だから同じ頭の働きをしている人たちってのはいて、なんかね、だいたいなんでこのルンタ山の中に入っていくの?っていうさ、そこわかんないじゃん。そこは山下が、やっぱり山ん中に入るってことが、いちばん自分の中でリアリティーがあったんだよね? 
(山下)いや、はい、そうです
(保坂)そこはやっぱ山じゃないといけないわけだよね?
(山下)山じゃないと、はい
(保坂)それは説明できないんだよね?
(山下)はい
(保坂)そこが頭の構造としてすごく似てて、だからどうこうっていうのは、なんかね最近の文学の評論って似てるで終わっちゃうんだけど、ここはトークだからそこで終わってもかまわないんだけど、似てるだけで終わっても意味なくて、そっから先をもうちょっと考えなきゃいけないんだけど、評論なら考えて欲しいってとこなんだけど、それで、今の、「木に花のようなものが咲いて、それが枯れて、種を含んだ不思議な形のものになって」ってくだりとか、最初に言った「かけたつもりのわたしはアパートからどんどん離れていった」っていうときが映像がないって言ったじゃない? で、この「木に花のようなものが咲いて」ってここってさ、そういう風景のイメージしてないでしょ?
(山下)いや、してますけど(笑い) あの、木に花が咲いて、
(保坂)だからそれは木に花が咲くんで、どういう場所で?
(山下)まあ、山で
(保坂)(笑い) っていうかそういう風景になってないんだよねこれ。その、こういう言葉の使い方を風景に寄せていくのか、風景に実を結ばないどんどん言葉の側に、ここの場面ってさ抽象的だよね? こういう風景じゃないじゃん。そっから先、「木に花のようなものが咲いて、それが枯れて、種を含んだ不思議な形のものになって、ある日風が吹いて、それが枝から千切れて飛んで、飛んで、種を含んでいた殻が割れて、種だけになって、ばらけて、」
(山下)早送りしてる
(保坂)うん、っていうかそれ早送りなの? っていうか風景として作ってないよね
(山下)ああ、まあ
(保坂)法則として言葉で書いていって、その言葉が足りなくて、風景として読む人の心の中にまで風景を作らせようっていう、読む心の側に、書いていることを再生、読み手の気持ちの中にまで作ろうって意識のなさっていうのが、これがけっこう、そういう宗教の、経典とかの言葉の使い方に共通点がある感じがするんだよね。で、だって、こんなこと言われると山下はなんか嫌だったり恥ずかしかったりするんだろうけど、けっこう人間があれだもんね、ストイックだもんね。
(山下)(笑い)人間がストイック?
(保坂)あの、なんかさ、小説書くっていうことを、有名になることとか金儲けするためとか賞をもらうためとしか、そのために書いているとしか思えない人はいっぱいいるじゃん。で、そういうふうに思ってないじゃん。だから、違うことを、小説で違うことをしたいわけじゃん? その、そんな有名になるとか金儲けするとか賞もらうとかっていうよりも、小説を書くことでもっと、もっとなんか大きいことしたいわけじゃん? 俺もそうだけど。
(山下)そうですね、それはだから、それがストイックかどうかわからないですけど、そっちの方がおもしろいじゃんとは思ってます。
(保坂)うん。うん。
(山下)大変やし
(保坂)うん。そうそうそう。で、ただ、本当に、僕と山下の世界観っていうか世界のイメージの違いっていうのが、140ページの「わたしら今もずっとあの宇宙の粒ちゃうんかな。粒が暇やらかいろいろ夢見てるんと違うんかな。山になってみたり海になってみたり岩になってみたり。草とか木とかになってみたり、犬になってみたり猫になってみたりライオンとかパンダとかキリンとか馬とか熊とかになってみたり、ほんで人間になってみたりしてるだけなんとちゃうんかな。」っていうのが、もう最近ね山下の小説読むときちゃんと関西弁で読めるようになったんだよ。どこまでちゃんとしてっかわかんないけど。
(山下)(笑い)うまいです
(保坂)(笑い)それで、えっと、この、これは粒が、粒が粒として夢を見て人間になったりライオンになったり山になったりするでしょ? で、俺の場合にはもっと、宇宙を形成する大きな力の流れがあって、それがどっかで山の形になり、どっかでライオンの形になり、どっかで木になるっていうそういう感じなんだよね。その、粒として自分の中で夢を見るっていう発想じゃなくて、そこがこう世界全体を自分が観察するっていう、自分もその一員になるんだけど、粒じゃなくて全体の流れなんだよね、力の。これ、最初にそれを聞いちゃったから、空海の思想を言うとこうなるって最初に、二〇代に聞いちゃったからわりとそっちで、そっちのイメージで自分で考えるように、ふだん習慣付いちゃってるからそっちの方がリアルなんだけど、そこがその粒とちょっと違うんだよね。で、あの全然関係ないけど、空、道元も書いてる空っていうのは、空っていうのは無じゃないんですよね。空っていうのは、これは僕のいいかげんな理解なんで間違ってたらごめんなさいなんだけど、有ると無いがあって、有と無があって、有と無を成り立たせているものが空なんだよね。だから、生きるということは空だっていうことは仏教的にありなんだけど、生きるということは無だっていうのはきっとないんだよ。それは使い方としては間違いなんだよ。無っていうのはかなり物質次元での無いってことで、空っていうのは有ると無いを超えてる、有ると無いよりももっとエネルギー的なもの、ただ、こないだもソングオブソウルズって言ったけ? BSTBSでやってる一つの歌の成り立ちを言う番組で、あれのおもしろいのは、そういう音楽の流れの出発点にいる人たち、出発点を作った人たちのことはおもしろいんだけど、そのあとに出てきた人たち、たとえばレッドツェッペリンはおもしろいんだけど、イーグルスとかディープパープルは他人のまねをどうやったかって話しかしてないんだけど、で、そこでこないださいサイモン&ガーファンクルのサウンドオブサイレンスって沈黙の音じゃない、で、日本人だとそれもけっこう普通に聞いてんだよね。沈黙の音っていうのを。静寂の音とかさ。それをやっぱり、きっとアメリカ人とかはサウンドオブサイレンスっていうタイトル聞いたときに、すごいへんな感じがしたんだよね。無の、音がしないところになんで音がするのか、そのへんで日本人っていうのはけっこう、思考の根っこに仏教的なものが入ってる感じがするんだよね。そういうの違和感ないじゃない、あんまり。えー、今日言いたいとこはそんなとこ。お前なんかもっと考えといてって言ってなんか言ってたっけ?
(山下)いや、けっこうもうしゃべった気がする。えっと、僕、たとえば全然関係ないですけど、Twitterでね、保坂さんがどっかに書いたりしたことを抜き出してTwitterに書いてる人がいて、これほんでええことゆうなって思ったのがちょっとあって、これだから今の話ともちょっとつながるんですけど、どれやっけな、「中立というのは何事においてもあり得るのか。中立であろうが偏向であろうが、事態を断定する伝え方であれば、受け手に及ぼす心理的な結果は同じになるんじゃないか。必要なことは中立でなく優柔不断、煮え切らない態度なんじゃないか。」ってこれすごいですよね(笑い) これ空(笑い)
(保坂)(笑い)
(山下)これ空やな
(保坂)お前そこを取ってきたか。いや俺もねあれ見てねたまにねいいこと言ってんなって思う
(山下)言ってる
(保坂)しかしそこを取ってくるとはね
(山下)で、これ、それと全然関係ない、これシステマっていうロシアの特殊部隊が使う殺人術のマスターのbotなんですけど、「誰かを助けるときはまずは介入する決断をすることです。出動する前にその決断をしなければなりません。もし迷っていたら、出動する前に迷いを解決しなければいけません。迷いがなくなり決意が定まったら、衝突のエリアに近づいて場を収めましょう。」ってこういうこと言ってて、やっぱりね、勝負決めるときは、はっきり決めて、やるっていうのが僕の中でつながるんですよね、ええことゆうなって。それでその、そうなんですよ、で、僕このシステマっていうのをほんとおもしろいと勝手に自分でハマってるんですけど、人殺しの術なんですよ、それで、この武術が言うのが、恐怖心をなくせって言うんですね。で、恐怖心って実はだけど、要するに自分の身を守るための、そのときに発動するなにかじゃないですか、だから速く走れたり、ちょっと普段持てない物を持てたりするんやけど、それがあると殺されるって言ってて、で、恐怖心をなくしたら殺されずに済むって言ってて、これなんかちょっとお坊さんっぽいですよね、言ってることが、で、やってることもお坊さんっぽいんですよなんか、ナイフディフェンスとかっていって、ナイフ刺さして避けたりするんですよね。だから、ナイフが当たる前に避けるんじゃなくて、一回刺さしてから避けるんですよね、だから致命傷を負わないやり方とか、これすげーなって
(保坂)いや、あの、たまに年に一回ぐらいNHKアーカイブスでやるけど、昔NHK特集でやった永平寺、永平寺の日常を、普段の生活を写すとやっぱり、ものすごい荒っぽいよね、こんなのすっごい頑健な人じゃなきゃやってけない。まず、福井県だから冬はお寺ん中が零下になる、氷点下になる。それで、食べものは粗末、一週間で脚気になる、全員脚気になるっていうんだよね。それどうやって克服するのかわかんないんだけど、とにかく脚気になる。だから寒い、空腹、で、寝ない、この三つ俺絶対ダメなの。俺あの、たとえば炎天下で歩きまわるのが修行だとしたらそれはできる。でも寒い中でそんな座禅組めなんて絶対できない。
(山下)すぐ下痢しますもんね
(保坂)そうそうそう、その前に風邪ひくしね。あの、で、この114ページの雪の描写っていうか、雪の風景はでもいいよね。あの、これはいちばん好きなところだな。これはぜひ買って読んでください。時間もないし(笑い) で、というわけで、どうもありがとうございました。

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