保守再建
具体的な政策の前に、まず私の政治信念について述べさせてください。
なぜ、いま、保守政治家が必要なのか。
1.「多様性」と言えば何でも許されるのか
杉並区では以下のニュースが話題になりました。
また、この件について共産党に確認したとする方は、以下のようなツイートをしておりました。
2.無制限の多様性や自由は存在しない
上記記載の行為について、直感的に「おかしい」と思った人は多いはずです。実はここに「保守」のヒントがあります。
昨今、多様性という言葉をよく耳にしますが、本当にどんな多様性でも認めるべきなのでしょうか。冒頭の問題も「多様な性教育」として尊重すべきなのでしょうか。似たような話で、私は議会において「表現の自由」の問題を取り上げたことがあります。これもよく耳にする言葉ですが、本当に無制限の自由などあるのでしょうか。
より極端な例を出したいと思います。あなたは次のような質問にどう答えますか?
「多様性を否定する多様性も認めるのか」
「自由を否定する自由も認めるのか」
多くの人は「単なる言葉遊びだ、常識で考えろ」と言いたくなるでしょう。しかし、仮にそう思ったならば、あなたは暗に次のことを認めていることになります。
「多様性や自由は常識の範囲内でしか機能しない」
無制限の多様性や自由はそれ自体が矛盾をはらんでいます。したがって、何らかの枠組みを定めなければなりません。我々が「常識」と呼ぶものです。
3.先人たちの想いを、もう一度見つめなおして
私たちが常識と呼ぶものは一夜にしてできた訳ではなく、長い年月をかけて築かれたものです。この常識、つまり、日本社会の伝統、慣習、文化には先人たちの想いと英知が蓄積されています。
私たちは普段意識していないだけで、実に多くのことを先人たちから受け継いだ伝統や慣習によって判断しています。「お天道様が見ている」という言葉、「仁・義・礼・知・信」というような精神的・道徳的な価値観、これらが日本の社会や文化を支えてきました。住民同士のつながり、みどり豊かな街の雰囲気、千年以上前から存在する神社仏閣、我々が当たり前に目にしている景色も、その背後には先人たちの絶え間ない努力があります。
しかし、こうした伝統や慣習の重要性は見逃されがちです。私たちは父祖の足跡に立っていながら、それが当たり前になってしまっており、その結果として、目新しく新鮮な「改革」ばかりに惹かれてしまうのです。
今、我が国では伝統が壊されつつあります。
多様性や自由の名のもと、その土台である伝統、慣習、常識を否定する議員が増えています。しかし、自由で多用な生き方を決めるのは住民であって、政治家ではありません。政治家の役割はその土台をしっかりと支えることです。
私は議員として、先人の方々からその土台を引き継ぎ、今という一定期間を預かり、未来の方々に守り繋いでいくことを使命としております。この縦軸の意識こそ、政治における「保守」であると考えます。
4.杉並から保守を再建する
冒頭の問題について「おかしい」と思った人は多いはずです。しかし、伝統が破壊され続ければ、「おかしい」と思う人もいなくなるでしょう。常識が破壊された国民は非常識になり、伝統が破壊された文化は野蛮に回帰し、ついには多様性や自由の基盤さえもが失われるのです。そうして破壊されたものは容易に再建できません。これが過度な多様性や自由の行き着く先です。
住民生活を守り、安心と安全を保障し、非常識な政策にはブレーキをかける。今必要とされていることは、派手な改革パフォーマンスや票集めの福祉合戦はなく、私たちの「いま」を歴史の中で位置づけ、自然と調和した和の精神と豊かな国土を守ることなのではないでしょうか。
私の提案する政策はすべて、この「縦軸の意識」を根源としています。
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