日記 200527

相変わらず交換にはなってないが、日記ではあるのでまあいいかという感じで投稿する。

2ヶ月ほど在宅勤務をしていて、方向喪失的な状態に陥っている。時間はたっぷりあるはずなのに、内省したり状況を整理したりするのがとても億劫になっている。シャワーや移動時間といった、宙に浮いた時間で行う自由連想?の偉大さを改めて感じる。つねに目の前に「いま取り掛かることもできるタスク」が存在していて、切断の契機がない。学生時代、とくに院にいたころはずっとこういう気分だったような気がする。

最近、中国版のPRODUCE 101シリーズである「青春有你2」を見ている。これについてはたぶん記事を書くのでここではあまり説明しないけど、これまで日本/韓国の対比で見ていた部分がいくらか相対化された。一番きれいに違いが見えると感じるのは、失敗した他人に対する態度と、ひとに教える立場の人間の姿勢・振る舞い。空間に虚しく吸い込まれていく「頑張れ」、声の圧で人を押し出すような「ファイティン」、場の全体にBuffをかけるような「加油」。

中韓つながりでいうと、最近東浩紀の『哲学の誤配』を読んだ。これは韓国の読者にむけたインタビュー2本と、中国での講演、そして韓国の若い論者の解説が収録されている。ここ2年ほど東アジアに興味があることもあって、一層興味深く読んだ。2000年代韓国の柄谷受容の話とかおもしろい。あとは日本国内の重層化したコンテクストとは関係のない読者に向けた説明ということもあり、その語り口が単純に新鮮だった。自分は国内のひとに語るときもそういう風に語りたいと思った。

そういえば最近、在宅勤務になって多少時間ができたからか、夜にちょっとずつ韓国語を勉強している。正確にいうとハングルや簡単な単語・文法は1年以上前からやっていた。でも怠惰なのでちゃんと勉強したのは初めてで、韓国語を勉強しているKポ友達になんとなく刺激を受けたのがきっかけだった。母音の弁別からしっかりやり直している。語学は本当に苦手だけど、耳ですでに大量にインプットしているからか、モチベーションがあるからか、学習効率はずいぶんいいような気がしている。

テラハの出演者が亡くなった件について、半日くらいいろいろ考えていた。自分の意見は報道を知った直後に行ったツイートの通りで、運営とメディアがまともに演者を守るように、ファンがプレッシャーをかけるべきだというもの。でもこれは、「人が人を消費する」ジャンルとしての芸能に興味がある自分が日常的に検討し続けてることであって、特に今回の件に即してどうこうということでもないし、今後事例をいろいろ見ていくなかで意見が変わるかもしれない。

というか、本当はツイートしない方がよかったと思っている。「こうツイートしたということは、この人はこういうスタンスをもっているはずだ」「ここでツイートしていないということは、こういう風に見られたがっている」といった、過剰な同質性の前提と読み込みからくる道徳的ジャッジは本当によくないと思うが、今回は絡め取られてしまった。「テラスハウスもアイドルと同じなのではないですか?」 もちろんある面ではそうだし、ある面では違う。「一般的に同じだとみなされる”であろう”AとBがあり、AはOKでBはダメだというなら、その基準を示さなければならないのではないか?(なぜそうしないのですか?)」という類の道徳のTwitter的な内面化は、ひとの立場や意見や思考の複雑さを捨象し、単純で貧しいものにしてしまう。「捨象しなければ伝わらないし、捨象してしかコミュニケーションしえない(そして自分もそう思うのだから他人もそう考えるのだろう)」という学習性無気力とセットになった、単純化されたスタンスの表明(自分の立場は複雑で単純化されえない、という表明さえ当然ひとつのスタンスとみなされる)。選挙の一票と、ふだん使う言葉は違う。言葉や思考を票のように扱うべきではない(これがたぶん、ハッシュタグに乗れない理由なんだろう)。

この種の道徳からは本当に粘り強く距離をとらなければならない。大事なのは具体的に考えることだけだ、と改めて感じた。アイドルや芸能に愛着がある自分がやるべきことは、テラハもダメならアイドルもダメでしょという目の粗い議論に憤ることでもなく(両方に興味ない人がそう言うのは無理もないことだ)、逆にテラハをあまりに無邪気に叩くアイドルファンに驚いてしまったことを皮肉めいてツイートすることでもなく、芸能の現実のなかで人権を守る方法を、具体的な事例から取り出し考え続けることだけだ。今回いろいろな演者や運営が公式非公式問わずコメントをしていたが、目についたなかではエビ中の校長(プロデューサー)の呼びかけがよかった。トラブルに巻き込まれたら相談するようにと、ホットラインを設けたうえでの発信。

ホットラインを設けるというのは、運営に可能なひとつの責任のとり方だと思う。ただ、責任さえとればいいというわけではもちろんない。このホットラインは実際どのくらい機能している(する)のだろうか。それは現場にいる人にしかわからなかったりする。それがわからないことには、この呼びかけを最終的に評価することはできない。それがファンカルチャー、ファンダムカルチャーの面白いところでもあり、怖いところでもある。自分は少なくとも、このジャンルに関わるときにはその基準を厳しく持ち続けていたいと思う。

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