何かをなくすのはいつも夏だが歌詞にするなら春のほうがエモい

 『勧酒』という漢詩がある。
 どうか私の酒を飲んでくれ、人生は別ればかりなのだから。という20字の短い詩だ。
 楽しい時間はすぐに過ぎるから、次また機会があるかわからないから。今この酒を飲んで欲しい理由は、詩では明言されないままもなんとなく感じることができる。
 先日投稿した歌ってみたの概要文は、この勧酒から引用させてもらった。
 人生足別離。最後の1行である。

 読み下すと「人生別離足る」となるが、井伏鱒二による訳のほうが聞き覚えがあるかもしれない。
「さよならだけが人生だ」
 元は5字×4行だった漢文が、7音か5音の日本語の連なりに訳されている。前の行、「花に嵐のたとえもあるぞ」(花に嵐がつきものであるように出会えば別れるものだ) と合わせて、原詩よりも別れに重点を置いた訳になった。
 その印象的な断定は、前半の酒の印象を塗り替えるほどに、あちこちで引用され、時には元を知らないままに使われている。


 この井伏鱒二による訳を引用した楽曲がある。
 古川本舗の『ドアーズ』という曲だ。
 古川本舗の楽曲はどれも歌詞としてはもちろん、詩としての完成度が高い。文学への造詣も伺える。
 ドアーズでは、ただ別れのみの人生と言われた詩をそのまま引用するのではなく、少し趣を変えている。
「花に嵐の例えだって?
 なにもさよならだけが別れじゃないだろう。」
 次にまた会える日を待つこの曲は、しかし全体的に死の気配がする。
 死にゆく自分の主観では、その離別はさよならをしたわけではない、ということだろうか。
「花を嵐で散らして飾ろう」
 すべての別れが嵐ではないし、嵐のすべてが別れでもない。
 出会いがあるから別れるが、別れたあとにもまた出会う。
 美しい曲なので、ぜひ聞いてみてほしい。


 今回歌ってみたを投稿させてもらった「かげふみさんは言う」もその流れがあると思う。
 オマージュとか引用とか、そんなに強いものではないかもしれないけれど、影響し合う文化の中で決して遠くない位置にいる。
「さよならだけが答えじゃないそうだ
 泣き止んだ日まで また明日」
 きっと春が来て、嵐が来て、焦がれた日々は散ってしまったんだろう。でもその嵐をさよならにしないこともできる、らしい。まだ泣いている日に、少しでも希望を持ちたかったような、そんな祈りのようなものを感じた。
 何かをなくすのはいつも夏らしい。マンガにはそう描いていた。でも歌詞にするにあたって、それは春になったようだ。

 椎名もたが2015年に亡くなってから、もう10年近く経ってしまう。
 今でもTiktokで「少女A」が有名になるなど、いろいろな形で影響が残っている。
 その別れをたださよならのままにしたくなくて、Vtuberとか関係なく、単に僕の今の活動場所がここだから、自己満足と感傷だけど、こうして誕生日に歌わせてもらっている。
 何か作品を遺した人は、いなくなった後も語り継ぐことができる。曲は歌えるし、キャラクターは描ける。
 もう本人による新作は出ないから。
 その二次創作に触れた誰かのうちひとりでも、原作まで辿ってくれることを祈りながら。



(追記)
 去年『それは、真昼の彗星』を歌った時に、『かげふみさんは言う』とどちらにするか迷っていた。
 実写MVにする案が浮かんだことで真昼の彗星に決まったのだけど、その後に1枚のファンアートをいただいた。

 この曲歌おうとしてたのバレた?と思った。
 そして今年、歌うことに決めた。
 花粉の影響がないように、2月頭には録音を終わらせて、絵を描いて、今年はシンプルな動画にした。

 そしたら追加でイラスト描いていただきました。大感謝。

 去年の無表情、今年の柔らかい表情、ともにいろいろな気持ちを感じ取れると思います。
 この嬉しさと、寂しさを、春に。


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