ガボンの丘

ガボンの丘には一本のツイてない木があって、成長の早い実が生っていると言う人がいれば、バイト先に家の鍵を忘れてきたと言う人もいる。


今日もガボンの丘には俺の嫌いな先輩がいて、「きみ、代わりに酸素を売るのがあたりまえになるからね」と主婦たちを騙している。途中から聞いたので何の代わりにそうなるかは知らない。


ガボンの丘ではストレスに関する議論がタブー視されており、まぶたがぴくぴくしていることを指摘しようとすると口が外れ(糸のようなもので両側から吊るようにして外されるが、比較的簡単に治せる)、手に持っている卵を一旦置かなくてはいけなくなる。


昨年の今日はガボンの丘で鈴木がおかしくなった日だ。


ガボンの丘に向かう。電車を乗り継いで向かう。きっと蟻の中にも賢いのとそうじゃないのがいて、賢い蟻だったら同じように電車を乗り継いでここまで来るんだと思う。兄は働き者である。昼も夜もなく働いていると、なんだか身体が軽くなって、コピー機くらいだったら食べられるような気持ちになると言っていた。彼の右手は煙の形をしていた。


ガボンの丘から見える町では、一切のクーポンについて使用を断られる。クーポンの使用が禁じられているということはない。町民たちの自発的な努力の結果、クーポンの使用を一切断られるようになったまでである。そのことは町民とて同じである。


その鳥がガボンの丘を訪れたことがあるかということは、翼を見ればすぐに分かる。腹を割って何かを話しているときのサッカークラブの監督、宝石に左手を翳しているときは自分になれるのと言う女、見た目だけで言えば流れの早そうな河川、これらの総合得点を競う大会が開かれているから、そこで20番以内を狙えるような点数、その数字と同じ分だけ翼を動かしてから飛ぶ。その鳥はガボンの丘を思い出すことができる。ちなみにこの大会では減点方式が採用されているし、肩の力が抜けているほうが結果につながりやすいと言われている。産まれてすぐ母になったという赤ん坊の話を聞いたことがない。


ガボンの丘には飛び込みの際に間違って突き刺さってしまった水泳選手がそのままにされている。そのすぐ横で、木曜日のお弁当を何にするか話し合うことがしばしばある。もちろん、お弁当にするかどうかは、その人やその週によってまちまちである。


ガボンの丘と肌着は相性があまりにも良くない。


本来ガボンの丘というものは、書店には珈琲豆を取り扱う本がこんなにもあるのかと感動するような体感と似ていた。経年によって使っているメガネでは見えにくくなっているということであれば、気合いでなんとかすればよいのである。農協ではそういう人たちが頑張っている。


ガボンの丘と一息に言おうとしてみても上手くいかないのは、今日が冬だからだろう。そうであるならば、ただ待てばいいというのは、いかにも頭の横が緑の人が考えそうなことである。ただ待てばいい。ただ、キッチンで待てばいい。


ガボンの丘では顔が仲間由紀恵の男が弓を仕上げていることがある。彼は敵襲に備えている。せっかくだからと煙草を一本渡してやると、猫のような声で鳴いた。その瞬間、この世に猫はもういないんだと実感した。そんなことは決してないが。そんなことは決してないで思い出すことがある。それが何かは知らない。美容室では人がかゆみを感じなくなるように薬剤を定期的に撒布している。しゃべる隕石を見たことがある。幼稚園で目を瞑ってはいけない。これらは全てひとつの言葉で説明できる。



取り急ぎ。また更新します。

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